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異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言

 天理教の批判をするのが目的ではなく、道を求めるからこそ、真実を知りたい、だから、天理教の歴史に関して、異端と言われるものまで、調べている。最近、『お道の弁証』―護教論への試み-(飯田照明 天理時報社)を読んだ。著者は、天理大学教授や、天理図書館長も務めた方で、ご存じの方も多いことと思う。芹沢光治良氏について、批判されたり、異端や、異説に関しては、厳しく論破しようとする方として、有名な方かと認識している。
 今から30年以上前に、出されたものであるが、この本の後編は、「啓示について」「異説・異端について」「教外研究者・作家の誤解を糺す」として、芹沢光治良や、八島英雄に対する文も書かれている。
 ある意味、教団を擁護する方の代表かとも思えたので、やはり、一読するべきだとも思った。
 宗教学や、哲学が、専門でない者が、何か書くのも憚られるが、拝読した一読者の感想(戯言)として書かせていただくことにする。異端について、書かれた後編 第一部 「啓示についての心得違い」の冒頭の文を少し引用させていただく。

 この論文は、例えれば、掃除機か毒消しのようなものである。教えをゆがめ、信仰を腐らせるような、異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこみ、中毒にかかっている人がいたらほこりで汚れた心を解毒したり、掃除するのに少しでも役に立てばと思って書いたものである。従って、異説や異端の毒を飲んでいない人や、ほこりをかぶっていない人は、消毒の必要も掃除の必要もないから、読まないか、或いは、関係のない部分をとばしてよんでいただきたい。「知らぬが仏」ということわざがあるように、異端や異説に接しなかった人には、読まず、知らずに過ごした方が幸せである。そのようなものをあえて知る必要はないからである。

『お道の弁証』―護教論への試み- 353頁

 この部分を読んで、すぐに思い出したのが、ある分教会の会長である。以前、その会長と、天理教の歴史的な話をした時に「そういう考えは異端じゃない?」と切り出され、「ああ、この会長さんも、素直で、今のお道が正しいと信じ、疑うことは悪いことで、現実が見えていても、真実を求めようとはしない人なのだ」と思った。つまり、上記の文は、そういった人々に対する文面なのだと感じた。確かに、その方が教団にとっては、都合がよく、「知らぬが仏」なのだろう。
 しかし、その「知らぬが仏」のために、百年祭当時、自殺にまで追いやられたり、悩み苦しんだ人たちが、いたことも、考えてあげるべきではないだろうか。今の天理教がおかしいと思っている人が、大勢いるというのに、毒消しどころか、自由に研究することもよしとせず、これが、正しいと押し付ける方が、余計に、人々を迷わせているという気がしてならないのだが。
 「知らぬが仏」で、道が進展せず、世界助けどころか、教えが届かず、陽気に暮らせない世界の人々を助けようと、布教を推進していかなければならない時に、勇めずにいる教会長が、どれほどいるのかとも思う。もし、私が間違った認識をしているのであれば、遠慮なくコメントをいただければ幸いである。

次の「啓示は継承するのか」という部分から引用する。

“おふでさき”など原典に基づく教理が徹底しないし、また出来なかった時には、中には教祖・本席様・上田奈良糸様と啓示が継ぎ続けられ、その後も、教祖が、イエスの再臨や弥勒菩薩の出現と同じく、再臨されるのではということを考える人も一部にはいたようである。
しかし、“おふでさき”はもちろん、原典を正しく拝読すれば、そういうことは全くありえないことは明らかである。親神様のこの世への顕現は、母親の魂のいんねんある教祖への顕現で完了しているのである。地上の月日は教祖ご一人である。親神の啓示は、教祖の啓示でもって、全て説き終えられているのである。このことは、明治二十年一月十日のおさしづでも明らかである。「さあ/\これまで何よの事も皆説いてあるで。もうどうこうせいとは言わんで。四十九年前よりの道の事、いかなる道も通りたであろう。分かりたるであろう。救かりたるもあろう。一時思やん/\する者無い。遠い近いも皆引き寄せてある。事情も分からん。もうどうせいこうせいのさしづはしない。銘々心次第。もう何もさしづはしないで。」
このように、教祖の啓示は、扉を開いてお姿をかくされたときに完了したのである。そのあとは、人間可愛い一條の親心から、本席様を通して教祖のみ心をお伝え下された。もうこれ以上望むこと自体大きな誤りを犯すことになる。何よのことも皆説いてあるとおっしゃっているのである。教祖と本席様のあとは真柱様にお任せになっているのである。

『お道の弁証』―護教論への試み- 354-355頁

 この部分を読んだ時に、これが教団としての立ち位置なんだと思った。
つまり異端と言われる人たちとは、絶対に相いれない部分であると、確信した。つまり、啓示は全て完結済みで、それらを元に、あとは真柱様をはじめ本部の人間が、考えて実行しろというのが、今の「天理教」のスタンスのようで、また、新しく啓示があったとして、それが本物であれ、偽物であれ、関係ないわけである。全て異説・異端として取り扱い、全く受け付けないというわけだ。つまり、そこを崩してしまうと、天理教は成り立たないということだと理解した。
 しかし、現実は、教内でも、そういった天啓は今も続いているという人がいて、そちらへ流れた人もいれば、今の天理教は、おかしいと離れていく人もいるわけである。上記の文面からすると、私は完全に“異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこみ、中毒にかかっている人”なのであろう。
だから、この本を読んで解毒しなければならないのであろう。

 しかし、立ち止まって、よく考えていただきたい。啓示が全て終わって、現在に至るまで「知らぬが仏」で来たばかりに、正しい信仰が伝わらず、不幸にも、この道は正しかったのだろうか、と悩んでいる人も、多いのではないだろうか。
 
むしろ、解毒しなければならないのは、隠ぺいされたり、曲解されて、真のお道に、触れていない人たちだとは、考えられないだろうか。
 だから敢えて、異端と言われるところへも、出向いていって、事実を調べることが必要だと、私は思うのだが。
 モノ好きと、言われるかもしれないが、片方だけの言い分を、聞いていては、真実は見えてこないのではないかとも思い、異端のことも、いろいろ調べている。
 過去の天理教の歴史に出ていた異端、異説は、それぞれ、調べてみると、全く事情は違う。十把一絡げにして何でも異端というのはおかしい。
 
私も「これは明らかに異端だ」、「これは微妙だ」、「これは異端と断言するにはもっと研究が必要だ」というように、その時代、教内背景など、調べた上で、異端になった原因を調べていかないと、判断できない事例があると考えている。

 この本の中では、井出クニのことも書いてあったので、少し、引用させていただく。

第二の例としては、井出国子などがある。背教者の多くはいずれも、ちゃんとした教理の教育は受けていないし、教学の勉強もしていない。正しく教えを理解し判断することができない人たちである。おふでさきなど原典をちゃんとよまず自己流に勝手な悟りをして、異説をとなえているのである。一時期、原典を大ぴらに表に出して読めなかった時期があったことも原因と言えるが。教祖五十年、ご本席二十年、計七十年の教えはじつに広く深く、そう簡単に理解できるものではない。きちんとした教理勉強をしないと、その中の一つだけを取り上げて自分に都合のいいように解釈して、教えを狂わせ、ゆがめてしまう危険性をもつ。信仰が狂わない為にはおぢば、ご本部から教えられることを素直に信じ、自分の悟りや考えを決して絶対とせず、常に謙虚に先人の声に耳を傾け、誤りなきことを神に祈り、そして心を低くして教えの理を求めていくことが大切である。

『お道の弁証』―護教論への試み- 367頁

 読んでみて、どのような感想を持つであろうか。解毒できるであろうか?
上記のことを守ったがゆえに、現在の姿になっているとは思わないだろうか。完全なブーメランである。
 この著者は、三木市の朝日神社へ出向いていって、実地調査したこがあるのだろうか。天理からすぐの安堵村へ行って、話を聞いたことが、あるのだろうか。もし、していればそのようなことは、書けないとも思うのだが…。本部の人であれば、そんなことはできないであろう。
 まずは、ご自身の目で見て、耳で、実際に井出国子の詳細を聞いてもらいたいものだとも思う。
 上記の言に従えば「ちゃんとした教理の教育を受けて、教学の勉強もしない」と正しく教えを理解できないようである。
 では、東大にでも入って、宗教学を勉強しないと、天理教は、正しく理解できないものなのだろうか?「計七十年の教えはじつに広く深く、そう簡単に理解できるものではない」のなら、宗教学を勉強したこともない人は、とうてい理解できない教えなのだろうか? 私は、そうは習わなかった。
「本部から教えられることを、素直に信じ、自分の悟りや、考えを絶対とせず、常に先人の声に耳を傾け」た結果が、今の衰退しつつある教団の姿ではないのだろうか。
 天理教学が、ストップしているとも聞くが、ここに原因が、あったのかとも感じた。それと同時に、それは知識人特有の、人を見下したような物言いにも感じた。素直に信じろというより“洗脳”に近いんじゃないか、とも感じた。これも、完全にブーメランであると感じたが、読者の皆さんは、いかがだろうか。

 天理教批判派というような人たちは、むしろ「都合のいいように解釈して、教えを狂わせ、ゆがめてしまった」教えに、おかしいと気づき、改善していかなければ「先がない」と思うからこそ、批判覚悟で、SNSなどを駆使し、いろいろ、述べているのではないかとも思う。
 「知らぬが仏」はインターネットが普及した今では、もはや、通用しないようにも思う。昔のように紙媒体だけで、情報発信している時代ではない。

 私は批判派でもなければ、擁護派でもない。敢えて、カテゴライズするなら「真実追及派」だと思っている。だからこそ、親の代から、教えてもらったこと、信じるに値する教理や、先人の逸話にも、感動し、自らの信仰の糧にしているつもりだ。異端だとか、異説だとか言って、簡単に片づけてしまう前に、天理教の歴史にも、目を向けて、今の天理教が、なぜ衰退するのか、教理面でも、制度面でも再度、検証して、改革すべきところは、変えていった方がいいのではないだろうか。
 “異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者”としては、今の天理教の方が、よほど“異端”に思えてならない。言い古された言葉だが、天理教ではなく、中山教なのかとも思えてくる。一通り、読んだだけでは解毒はできないようだから、繰り返し、読んでみて、納得する部分は、素直に取り入れ、おかしいと思った部分については、また書いていきたいと思う。

 まだまだ、書きたいことはあるが、4,000字を越える長文になってしまったので、次回に譲ることにする。

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