「里の仙人」とは言うが

 真実を知りたいといろいろ調べたりもしているが、いまだに暗中模索という感じがする。一般的におたすけにかかっている人にとっては、教団の歴史がどうのこうの、教理がどうのこうのと言ってる場合ではないとも思う。言葉が乱暴だが、そんなことはどうでもいい、それより身上・事情で苦しむ人に助かってもらうことが大事だと考えるものだとも思う。人間である自分が助けるのではない。助かるように神に働いてもらうのだと真実込めて祈るのかとも思う。

 自分に不思議な霊能力が備わり、それを自覚もしているのなら、はっきりとあなたを助けられるとか、あなたは助かるとも言えるであろう。その逆もあるだろう。しかし、所詮、人間である以上、そんな超人的なことはできない。もしやっていたら、詐欺師役者かとも思う。しかし、苦しんでいる人は何とか助かりたいだろうし、おたすけしている人も助かってほしいと願うであろう。こう書きながら今の自分の心情を吐露しているような気もする。
 
 私は霊能者になりたいとも思わない。飯降伊蔵が本席になる時、脂汗をかいて、苦しんで骨がブキブキと音を立てて組み直されるというような話を読んだことがあるが、そんな苦しみを味わいたいとも思わない。だいたい痛いのは嫌だ。どうしてもというなら麻酔でも打ってもらわなきゃ、まっぴらごめんだと思う。

 やはり伊蔵さんは神の仕事場として教祖に仕え、認められた人なのかとも思う。本席という人の上に立たなければならない立場になっても心は一番低いところにおいていたとも読んだが、なかなかできることではない。人間なら偉くなれば高慢にもなり、人に崇められれば調子にも乗ってしまうであろう。やれ本部員になった、大教会長になった、大きい教会を継いだと人に崇められるような立場になって道を誤ってしまったという姿をけっこう見てきたような気がする。
 生まれながらにそうならざるを得ない環境に生まれ、本人の思いとは関係なく、担ぎ上げられるケースも宗教団体には多いように思う。本当に気の毒だ。気の毒だとは思ってもどうすることもできないのも人間だ。しかし、人間ならどうすることもできなければ、限界を超えてしまう前に逃げ出すべきだ。心まで病んでしまうことはいけないとも思う。また周りもそうさせてはいけないとも思う。
 
 こんなことを書いているとなぜか、子供の頃に読んだ芥川龍之介の「杜子春」を思い出す。不思議な力を持てるように仙人になりたいと修行もするが、最後には仙人にはなれない。それでも人間でいい。人間として平和で心穏やかに、皆と仲良く暮らしていければそれで充分であると私は思う。
 案外、自分が幸せな暮らしの中にいるのに気づかず、身上、事情で知らしてもらっているのも気づかず、苦しんで暮らしている人も多いのかもしれない。「里の仙人」とも言われるが、私はそんな特殊な能力を備えた仙人になりたいとは思わない。いや、なれるはずもないし、仮に神が言ってきても申し訳ないがお断りである。人間のまま、与えられた寿命まで、やれることをやり、自分の能力や専門性を活かして働き、人が喜ぶのを見て自分も喜べるような人生を全うしたいとも思う。

 果たして、それを神は許してくれるのだろうかとも思う。
わからないから、暗中模索を続けるだけの話だとも思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?