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正文遺韻「仲田様御逝去」について

 天理教の真実を求めて、研究を始めてから、教祖の一番弟子とも言える高弟中の高弟である仲田儀三郎の出直し時のことを書いた『正文遺韻』諸井政一の「仲田様御逝去」のことが、ずっと気になっていた。知らない方も多いと思うので、少し紹介したい。
 著者の諸井政一諸井國三郎(山名大教会初代)の長男で十代の頃からおぢばに住み、、当時お屋敷に詰めていた高弟から聞いた話や、当時の記録などを書き留めていた人である。27歳という若さで出直したようだが、その記録は『正文遺韻』として山名大教会で残された。
 初めてこの「仲田様御逝去」の項を読んだ時、ショックであった。いったい何があったんだろうと思わずにはいられなかった。それで仲田儀三郎について書かれた本をとにかく片っ端から読んでいった。
 みんなから「さよみさん」と呼ばれ、人々の信望も厚く、教組から「私の一の子供や」とも言われた人が、どうして「くさってしまった」とまで言われるようになったのか長い間、私の中で謎であった。私だけでなく恐らく、多くの人がそう思ったに違いない。
 この『正文遺韻』は何度も改訂されているようだが、さすがにこの稿はまずいのか、それとも不都合なのかはわからないが、カットされているようなので、知らない人も多いのかと思う。以前の記事(私の「中山松枝」考 その3)で、少し私見を述べたが、『教祖様』芹沢光治良にも、この話に関する部分があったので、紹介することにする。読んでいただきたい。

それからまた、一か月ばかりすると、みきはふと言った。
「四方くらくなりて、わかりなきようになる、その時つとめの手あいまいなることにてはならんから、つとめの手稽古せよ」
この言葉は真之亮はじめ側近者をおどろかせ、あわてさせた。みきがまた警察で苦労するのであろうか。どんなことになるか。ニ、三人があつまれば、いつも心配して、そのことを語り合った。不安でならなかった。
 言葉通りに解釈すれば、ともかく、つとめの手稽古をはげまなければならないが、つとめをはげめば警察がやかましいから、どうしても公認ということを、まず解決しなければならないーと、いつも結論はそこへ行った。
 それは、側近者があくまで人間ごころをすてないからで、それまでも、いつもみきが不満にしていたことだが、しかし、側近者はそうとも気がつかなく、ただ律法にしたがうことばかり考えていた。それがまた、みきを悲しませていた。
 その側近者の一人中田が亡くなった。病の重い時に、側近者の一人がみきに助けを願ったが、みきは、
「にしきのきれと、みたてたものやけど、すっかりくさってしもうた。どんなものもって行っても、つぐにつかれん。どんな大河でも、こさしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、こすにこされんで」と答えたという。
 中田はその半年ばかり前に、みきとともに櫟本署で苦労した人である。このみきの言葉に、信仰のむずかしさが、りんりんとひびいているが、すっかりくさってしもうたと、みきがとがめなげいているのは、中田一人のことではなかったろう。
 命数のかぞえられたみきのせきこみが、側近者に、もとめられることが、はげしかったから、中田の場合をひながたにしたのを、側近者が気がつかなかったのではないだろうか。
 その頃、(旧六月六日)山田伊八郎が東矢田村へ行った帰りに、みきのところによった時、みきが喜んで迎えて、「人間のむねのうちというは、むずかしいものやなあ」と、熱心に話してきかせたことを、伊八郎は感動をもって、伝えている。

『教祖様』芹沢光治良 446-447頁

 この『教祖様』は作家の芹沢光治良が当時の養徳社岡島藤人(本名:善次)社長本部員の大教会長からの依頼で『天理時報』に連載していたものである。教組70年祭前後、多くの会長や信者が読んでいたものである。これを読むと、どうも私が書いた私見もあながち外れてはいなかったのかとも感じている。
 
 明治19年頃の状況から考えて、また警察に連れていかれるのかと皆は不安でならなかったとも思われる。しかし傍にいた人たちも、どうすればいいのだろうかと悩んだことと思う。教組の教えに忠実な「正統派」と、教えは素晴らしいと思っていながらも国家には歯向かえないから追従しようという「迎合派」になびいてしまった人たちへの警告だったのだろうか。
 歴史的に見れば最後まで「迎合派」だった秀司さんも出直し、真之亮さんもまだ二十歳そこそこの年代だったろうし、百姓を生業としている人がほとんどであったろうから、動くに動けない状況であったのかとも思われる。一番弟子と言われる儀三郎さんであるから、その心中はさぞや苦しかったとも思える。

 ここで疑問が起こるのだが、神が憑依して不思議な能力も備えているのに、どうして警察ごときを追い払うことができないのか?教祖は神じゃなかったのか?逆に考えれば、今の教団は中山みき様を神格化しすぎているのではないか?あるいは、みき様は傍の高弟と言われるような人たちも試していたのだろうか?とも思われる。つまり冷静に見分けていたのかとも思われるのだが、どうなのだろう。仲田儀三郎は最後の最後で教祖の目に適わなかったのかと思うと『正文遺韻』の「如何なる過ちのありしにや。誠に口惜しき極みにこそ」というのも納得がいく。

 YouTubeで「先人の足跡」という仲田儀三郎に関する動画も見たが、最後が「にしきのきれとみたてたものやけど」で終わっていたが、その後ろの「すっかりくさって…」は省略されている。これは『先人素描』高野友治著もしかりである。教組から赤衣も頂戴している、一の子供とまで言われ、いつもそばにいて、取次として大活躍し、おつとめもしっかりやって、指導もしていた高弟中の高弟とも言えるのだが、人間心を捨てきれなかったために残念なことになったようだ。
 
どうもこういったマズい部分はカットして、いい部分だけを取り上げるのはいかがなものだろうか。こういった体質が見え隠れするから、会長や信者の中にどうも信じられないという人が出てくるように思う。私もその一人だが。
 こういった場合、何というのだろう。「偽造」でもない、「捏造」でもない、「粉飾」でもない、やはり「隠蔽」なのだろうか。隠して、あとは相手に判断を任せ、いいように取り繕うということが、けっこう行われてきたのだろうか。しかし、それでは逆効果なのではないか。本当の信仰は伝わらないのではないか。

 飯降政甚氏隠蔽体質と言ってるのはこのことかとも思ったが、大正期から既に始まっていたのかと思うと、やるせない気持ちになってくる。
 私はプラス部分もマイナス部分もあって、人間だと思っている。だからこそマイナス部分をカットして、神格化するような偉人伝を作るのはよくないと思っている。それを繰り返したがために、今のような上の人はとにかく崇めろという風潮ができているような気がする。偉人伝にも名前があり、古い信者で教祖のそばにいた人の子孫だからと、本部で高い立場にいるような人も多いようだが、天理教の歴史を調べていくほど、教祖の思いとは隔たっているようにも感じる。教祖は身内であっても公平無私であったと政甚氏も述べているように家柄や立場で人を分けてしまうようなことはなかったようだ。しかし、それでは教会本部という組織の中ではまずいわけで、秀司さんが存命の頃からずっと続いているようだ。その中にもあって、真の正統派の人はそんなことにはおかまいなく、教祖から教えられたことをしっかり守り、実践していたのかとも思う。

 よく信仰に入ったばかりの人向けの話と、長く信仰して更に深く研究したい人向けの話があるようにも感じるが、今、お読みの方々は相当長い信仰歴をお持ちで、様々なお道の経験を持っている方ばかりだろうと想像している。そうでなければ、ここまで読んで、内容を把握することができないであろう。話題の登場人物にしろ時代的な背景や先人の逸話なども読んでいなければ、何の話かさえ、わからないことと思う。

 自分がそうであったようにもっと勉強しなければと、先人の逸話などの本も、読んでは来ていたが、道友社発行の本ばかりでは、きれいすぎて何か真実が見えてこない気もしていた。恐らく、偽造でも捏造でもないのだが、肝心かなめの部分でマズいことは伏せたり、表には出さないようになっているのではないかとも思える。若い世代に信仰が伝わらないのはそういった隠蔽体質にもあるのではないかとも思うがいかがだろう。
 
 信仰歴が長い人は納得がいかないこともあるから、答えを探しにインターネットであちこち情報を探しているのではないだろうか。
 
 共に真実を求めていければ幸いだ。ご意見や他の情報があれば教えていただきたい。
 

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