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私の「中山松枝」考…その3

 前回は『先人の面影』(松谷武一 天理教青年会本部出版部)や大道教の『御水屋敷並人足社略伝』から引用してまとめてみたが、『天理の霊能者』豊嶋泰國や『復元』第三号にも「まつゑ」さんの話が出ているので、引用していろいろ考えてみたい。まずは教祖や本席の守役として勤めていた「増井りん」さんの話を紹介したい。

 神とされるみきに仕える大役、それが守り役であり、けっしてゆるがせにはできるものではなかった。あるとき、りんは秀司からまつゑの付添いとして奈良まで一緒に行ってほしいと頼まれた。りんにとって秀司は「お上」(中山家)であり、お上のいうことは無条件に従っていたりんであったから、「私でよければ」と支度をしていると突然、目の前が暗くなり、全身に激痛が走って息がつまった。すぐにも死ぬのではないかと思われるほどの苦しみに襲われたのである。
そこへ人が来て「おりんさんが大変や、死にそうや」と騒ぎになり、駆け込んできた取り次ぎ役員の仲田佐右衛門(儀三郎)が「おりんさん。大丈夫かいな。お前さんはこんな苦しむような埃のある人ではないで。いったい、なにしたんや」と聞くので、「秀司先生からまつゑ様の付添いを頼まれて準備をしておりましたら、急にこうなりました」と正直に答えると、佐右衛門は「ああ、それや。それでわかった。神様(みき)のお守り役つとめておいでなのに、神様にお暇もいただかずに回り道をしようとしたから、こうなったのや。早くおいでなされ。私が神様にお詫びいたしますから」というので、お詫びをしてもらうと、みきは「さようかえ、行ってやってくれまするよう。御苦労やなあ」と言葉を告げた。それを聞くと、りんを襲った激痛は、うそのようにすっかり治まってしまったという。

『天理の霊能者』豊嶋泰國 インフォメーション出版局 105頁
『天理の霊能者』豊嶋泰國

 このエピソードからも教祖はどうも秀司、まつゑ夫婦とはうまくいっていなかったという印象を受ける。気の毒なのは「りん」さんである。教組は身内である「秀司夫婦」よりも理の上で「りん」さんを大事にしていたような印象も受ける。増井りんさんは最も教祖に忠実な人だったようであるが、どうも本部では軽んじられていたふしがある。

「存命の教祖」とその天啓者である本席にひたすら仕える、その忠勤ぶりは比類なきものであったが、りんが教会の建物や組織を大きくするよりも、人が天理を知って救われればそれで本望という立場であったため、天理教教会本部からは軽視されていた。そのため、本席は同三十一年に神懸かり状態で「男以上に天理にかなっている人体(りん)を、どう扱っているのか。女でも席(本席)をさせるとまでいうたる」と本部のりんに対する扱いを不当であると叱責した。つまり、りんは女ではあるが、状況によっては本席になりうる資格をもった誠の人物と告げたのである。本席のこの天啓は、まさに鶴の一声であった。

『天理の霊能者』豊嶋泰國 インフォメーション出版局 105頁

 りんさんは御存じのように女性初の本部員であり、別席の取次人でもあった。本席時代には本部の中は既に教祖の教え通りに従おうとする「正統派」国家神道に追従しようとする「迎合派」に分かれていたようだが、正統派は本席りんさんであるのはもちろんだが、他にも異端として離れていった飯田岩治郎高井猶吉などもいたと思われる。「教会の建物や組織を大きくするよりも、人が天理を知って救われればそれで本望という立場」から考えて、りんさんは「真の正統派」と言っても過言ではない。
 「迎合派」は真之亮、や松村吉太郎、平野楢蔵などであることは言うまでもないだろう。
 ここでハッと思ったのだが、教祖がお姿をお隠しになる少し前から天理教は神道部属六等教会となり、徐々に本部の中でも「正統派」でありながら、度重なる弾圧もあり、「迎合派」に流れてしまっていた人もいたのではないかと思った。前回の記事で書いた仲田儀三郎のことである。「にしきのきれと、みたてたものやけど、すっかりくさってしまふた。」というのはこのことではないのか?
「如何なる過ちのありしにや。」というのもこのことではなかったのだろうかと思ったが、読者の皆様はどう考えるであろうか。
 私がこう考えるに至ったのは明治16年に教祖がご休息所へ移られ、翌17年には奈良監獄へご苦労され、翌18年には神道部属六等教会になった頃で、仲田儀三郎も官憲に拘束されたり、「正統派」であり続けながら、度重なる迫害や苦労にも耐えていたからである。しかし、真之亮や松村吉太郎をはじめとする「迎合派」の動きにも抗しきれなかったのではないかとも思える。
 それだけでなく、教祖に最も近い高弟だけにご苦労もかなりあったと思われる。だから「にしきのきれ」と見立てられたほどの人物であったのに、最後には悲しいかな、教祖に「すっかりくさってしまふた」とまで言わせてしまうことになったのではないだろうか。仮説にすぎないが、私は現時点ではそう考えている。(私の仮説なので勝手にパクらないように…。)
 他にもまつゑさんがご在世中のおやしきの様子がうかがえる資料として『復元』第三号があるが、その中の「永尾芳枝祖母口述記」飯降尹之助から引用する。

お屋敷にいる人の中にも、飯降の家族は多人数で、殊に子供の食いつぶしが多いとか、毎日遊んでばかりいるとか口喧しく言う人もある。父様は『人を不足にしては教祖様に申訳がない、神様に不幸や』と言ふて、体の悪い時でも休まんと仕事をしやはった。そやけど色々言い散らした人は教祖様の御在世中に出直さはった。

『復元』第三号 「永尾芳枝祖母口述記」飯降尹之助 129頁

 当時は警官がしきりに来て、おやしきには中山家、飯降家以外の人はいなかったとのことや「御在世中に出直さはった」ということから、口喧しく言う人というのは「まつゑ」さんで間違いないだろう。本席と定まる前に伊蔵さんは瀕死の状態になったようだが、娘の芳枝さんはもし伊蔵さんが出直し、お屋敷を追い出されたら、行くところがない、大阪へでも出ようかとその悲壮な胸の内を回顧している。また教祖様がお隠れ後の明治20年2月頃の話として次のようなものがある。

教祖様の御昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、永の年月教祖様唯お一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らして貰ふたのに、その教祖様はこの世のお方ではなく、そんな時にこの有様やから、とてもとても苦しみは一通り二通りではなかったのや。口ではとても言ふことが出来ん。

『復元』第三号 「永尾芳枝祖母口述記」飯降尹之助 133頁

 伊蔵さんが本席と定まる少し前の話のようであるが、「人間心ばっかりで」というのは「正統派」がおらず、「迎合派」ばかりだったことを裏付けているようにも感じる。

 歴史的に見ればこの「迎合派」が多勢に無勢で今の天理教教団になっているわけであるが、戦後の「復元」とは完全なものではなく、「正統派」にはなっていないことにあると個人的に思っている。つまり今の本部に異を唱える者は「異端」として排除するが、最も「異端」なのは何も変えようとしないばかりか、自らを正統派のように装っている教団ではないのだろうかとも思えてくる。やはり教理的にも組織・制度的にも改革していかなければならないのではとも思う。

 しかし、私の耳に入ってくる噂ではなかなかどうして、若い人でも熱心に研究したり、やはり現状はおかしい、だめだと勉強したり、研究している(大・分)教会子弟もいると聞く。たのもしい噂である。
 
 話を「まつゑ」さんに戻すが、秀司さんの正妻となり、おやしきへ来てからは波乱万丈の人生だったのかと思える。普通の家に嫁いで、普通の主婦として暮らしていれば、ちょっと性格もきついけど倹約家のしっかりした奥さんという感じではなかったのかとも思う。たいしょくてんの魂ということで、人を分け、切るという役割を担い、引き寄せられた方ともいえるが、これもひながたであり、話の台であるのかとも感じる。

 今の教典、教祖伝では美談ばかりであり、カットされたことも多く、心の奥底まで染み渡るものがないようにも思う。あまりに理路整然として「息吹」が感じられないと思うのは私だけだろうか。
 「まつゑ」さんについて調べていると過去に調べたことなどと連動していることが多いと感じた。『おふでさき』執筆時と「まつゑ」さんがおやしきにいた時期がぴったり重なるのだから、当然と言えば当然のことかもしれない。

 ふと思ったのだが、今の教祖殿は昭和8年に建っているので、もし「まつゑ」さんがイタチになっておやしきに留められていたのなら、教祖殿のどのへんにいるのだろう?とバカなことも考えたが、その後、何度も生まれ変わっているとも考えられる。どうなったのか気になるところである。
 
 3回にわけてまとめた私の「まつゑ」考だが、最後まで読んでいただき、感謝する次第です。ご感想やご意見をいただければ幸いです。

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