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【徒然和菓子譚】その22

今回は墨型落雁のお話です。これにて一旦、徒然和菓子譚はおしまいとさせていただきます。

墨型落雁は長方形の墨を象った落雁で、金沢だけに限られた品ではありませんが、その発祥から発展に至る過程や文化的価値の高さ、更に藩主前田家のこだわりが結実して名菓「長生殿」を生んだ歴史などから考えても、加賀・金沢の菓子文化の一翼を担う存在と言えます。落雁と言えば、木の型に砂糖や米粉などを詰めて固めたものでありますが、16世紀以前のそれは形も素朴で意匠などは何もなく、単に穀物の粉を押し固めた程度のものであったと思われます。これが様々な意匠を持ってデザインされ、菓子の中でも献上品として用いられるほどの格の高さを備えるようになったのは、落雁の木型の技術的、造形的な発達があってはじめて実現できたことです。この落雁の発達のカギを握る木型こそが加賀藩を発祥とするものであるとする説が有力です。加賀藩三代藩主前田利常公は、当時支藩であった富山の井波町に真宗の名刺瑞泉寺を創建しましたが、藩領内はもとより遠く京都からも木彫刻の職人を多数呼び寄せ、特に欄間彫刻を得意とする一大職人集団が出来上がりました。これら欄間職人の「余技」として菓子木型が彫られ、その技術が伝承され、後に分業制となって「菓子木型師」という専門職が誕生したと言われています。落雁木型の発達が寛永年間(1624~44)以降とされるゆえんです。

「落雁」という呼び名の由来ですが、これは黒胡麻をちらした白の墨型落雁を天皇に献上した所、帝はこれをご覧になり、「田の面(も)に落つる雁のやう」と仰せになったことから「落雁」の呼び名がついた、というのが定説です。この帝は何天皇であって、献上した人物は誰か、となりますと幾つかの説に分かれています。

最も古い説では後小松天皇説(第100代、1377~1433)、ついで後土御門天皇説(第103代、1442~1500)、更に後陽成天皇説(第107代、1571~1617)、そして後水尾天皇説(第108代、1596~1680)と分かれますが、森八に伝わる口伝では後水尾天皇が名づけ親とされており、献上した人物は三代藩主前田利常公であるとされています。

一方、記録に残されている「らくがん」なる菓子の初見は、寛永年間というのが定説で、これは先述の木型の発達の時期とも符合しており、かなり信憑性が高いです。そうすれば、先の二説は天皇が名づけてから「らくがん」初見までは百数十年以上とあまりに隔たり大きすぎるように思えます。後に名菓「長生殿」を生み出し、加賀の落雁を他の追随を許さぬほどの圧倒的存在に高めた前田利常公のこの「墨型落雁」に対する思い入れの深さを見ると、後水尾天皇ー利常説が有力に思えてなりません。いずれにしろ加賀藩においては以後の歴代藩主をはじめ、上級武家たちの落雁の愛好もあり、また領内に無数にある寺院群などの需要層もあり、この落雁という菓子が全国にも例のないほどの発達を見せました。

現存する唯一の加賀藩御用菓子司である森八には、文化・文政期(19世紀初め)のものをはじめ、約1500丁もの落雁や金花糖の木型が今も保存されています。参勤交代の折に徳川幕府へ献上されたもの、藩主や家老たちの用命により誂えたもの、格式ある冠婚葬祭に彩りを添えたもの、さなに明治以降は宮内省や軍のもの等々、おびただしい数の木型が今も眠っています。この木型たちが見てきたものは、それこそ加賀藩の歩んできた歴史の名場面の数々であったことでしょう。加賀藩御用菓子司の懐に抱かれたこの歴史の生き証人たちが、時を越え、加賀・金沢の歴史を未来永劫に語り続けていくことを祈り、徒然和菓子譚、これにておしまいです。これまで22話、お読みいただき本当にありがとうございました。

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