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鏡のなか

 いまから十数年前のこと。病院に併設している施設で働いていたとき「友人がいるから」と、まるい手鏡を持ち歩いている男性がいた。時間があればいつも手鏡を開いてのぞきこみ、話をしている。わたしから顔をそむけ、手のひらの中に手鏡を包むようにして、ひそひそと何かを語りかけていた。会話をしたかったけれど、いつも鏡の中を見ているので、わたしの方は見ない。
「話をしませんか?」
と声をかけても
「今、友人と話をしているから」
と、こちらを見ずに返答する。 病院を退職して、しばらく経つけれど、今あの男性と、男性の友人はどうしているかと考える。

 別の場所で、別の仕事をしているとき。わたしは関わりのある家族の家に訪問し、話を聞いている。話は長く、ときには数時間におよぶこともある。マンションの九階にある部屋は、清潔で整頓されているけれど、わたしにとってはソファもエアコンも大きなテレビも、窓から見える景色もすべて灰色がかって見え、帰るときはぐったり疲れた。エレベーターに乗って事務所に戻るとき、エレベーターの中の鏡に自分の顔が映る。目の周りに黒い隈を作って、げっそりと垂れた頬の顔は灰色がかっていて、わたしは鏡に映る人物が「わたし」とは違う他人に見えた。鏡に映る自分が嫌で、いつも見ないようにしていた。

 大学生の頃、事務のアルバイトをしていた。ときどき社員あてにお客さんが来て、わたしを見て「誰かいる?」と尋ねる。電話が鳴ってわたしが出るときにも「誰かいる?」という人がいた。「アルバイトではなくて、正社員の人はそこ(事務所)にいますか?」という意味での「誰かいる?」ということだとはわかっていたけれど、目の前にいるわたしは「誰か」じゃないんだなと感じて、奇妙な気分になった。たびたび続くと、わたしは「誰」なのかな、と思うこともあった。

 同じようなことがあった。職場でわたしは、わたししかしていない仕事をしているので、他の社員は「あなたが何をしているのかわからない」と口にする。仕事をしながらわたしも「職場で、わたし以外に誰にもわからない仕事をするのは妙な気分だな」と感じている。感じながら外出して、関わりのある利用者の家で話を聞く。
「あなたは、わたしみたいな人がこの世の中にいるって、わからないでしょう? こんな人もいるって、たいていの人は知らない」
と話すのを聴きながら「何をしているのかわからない」と言われているわたしが、「たいていの人は知らない」利用者の話を聴く行為は、鏡をのぞきこむ行為にすこし似ているなと感じている。何も映らない合わせ鏡だ。

 ときどき、骨董品の鏡を目にすることがあるけれど、美しいと思うと同時に、すこし怖いなと思う気持ちがわきあがる。鏡には「何かを映す」だけでなく、映したものをどこかに残しているのではないかという気がするからだ。つるっとした表面に映るヒトやものの影、のぞきこんだ人の感情、風景や空気、においが鏡の中に沈んでいる……そんな気がしてならない。エレベーターの中、居酒屋のトイレの奥、病院のトイレ、食堂の手洗い場、ビジネスホテルの中、いたるところに鏡があって、わたしの記憶以上にわたしの行動を記憶している。自分の記憶とは別に、「わたし」を記憶している何かの存在について、ときどき思いをめぐらせる。