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「君たちはどう生きるか」私の考察


いろんな人が書いているが私が感じたことを少しまとめてみたい。
この映画は一切の左脳的な情報を与えず、
見た人がどう感じるのかが大きな映画だと思うので
まだ見ていない人は見てから読んでみて。
ネタバレになってしまうので。


この作品は宮崎駿監督のおそらく最後になるのでは?
という長編アニメだ。
短編はまだ作るかもしれない。
引退宣言したものの、残しておきたいという思いから作られたのだろう。
いわば遺言のようなものだ。
前の「風立ちぬ」から10年たっているわけだから
次は難しい。

見てまず感じたのは
夢の世界のような話だった。
夢は現実ではないかもしれないが、ある意味では現実である。
無意識を扱う心理療法のような世界では
夢はその人の内面をあらわす。

とするとこれは宮崎監督の内面なのだろうか。
ある意味ではそうだ。
しかし、以前彼のドキュメンタリーを見ていた時に
たぶん言ってたかと思うけど、世にだす商業作品である限りは
個人のものではないみたいなことを言ってなかったかな。
だからメッセージでもあると。

だからタイトルの「君たちはどう生きるか」は原作があるけれど
問いかけになっているのだ。
この時代をどう生きるのか。

物語はかなりファンタジー色が強い。
不思議の国のアリスのように主人公はアストラルな世界にまきこまれていく。
その発端は母の死であった。

これはこれまで宮崎さんの作品にあるテーマでもある
「文明と自然」というものから考えると
空襲の火によって母がいる病院が焼けたということだが
文明の火によって母なるもの (大自然) を喪失する、つながりを失うことも
考えられる。
のちに出てくるが父は軍事工場で働いている設定かたくさんの戦闘機の部品が家にもちこまれる。父は文明側の人間なのだ。

これまでナウシカやもののけ姫、風立ちぬでも火によって破壊されてきたことがあらわされた。
主人公の少年は母を火によって失うことで彼の中の母なるものとのつながりが断ち切られ、新しい母が受け入れられない。
この母の妹である新しい母は次の時代の象徴かもしれない。
彼女には新しい命を宿している。

そこへ自然界のメッセンジャーである鳥が出現する。
それがアオサギである。
アオサギはあくまで不気味で得たいがしれないような描き方をしている。
主人公が夢見手だとすると、アオサギは彼にとってはずるく賢く生きようとする象徴でもあり、内面世界につなげていく導き手でもある。
彼は母を探してアストラルな世界へと足を踏み入れていく。

そこで最初に出会ったのはいっしょにまきこまれて入っていった老婆のキリコが若い姿となってあらわれる。彼女の姿はどこか「千と千尋の神隠し」に出てくるリンのように私は見えた。女性であるがどこか男っぽい。
母のようないかにも女性というのではなく、中性的な存在である。
同志に近い。モンスリーやクシャナも連想される。

そして火を扱うヒミという少女に出会う。
宮崎作品にはかかせなかった快活でかわいい少女だ。
すでにそれが母であるという暗示はあるけれど
主人公の真人と同世代くらいであることも意味があるのかもしれない。

ヒミが大いなる自然の象徴であるとすると
彼女が扱う火は文明の火ではない。
日本にはコノハナサクヤヒメという火に燃えながら出産した女神がいる。
何かを産み出すのには火が必要なのだ。
これは生命の源である火なのだ。
だから彼女は火を肯定する。
これは宮崎監督がずっと産み出し続けたクリエイターとしての火でもあるのだ。
この創造性は誰にも必要なものだ。
だからそれにつながる必要がある。

ちなみに「崖の上のポニョ」ではお母さんは海だった。
もうひとつの生命の源の水だ。
水で育まれ、火によって表現される。
宮崎作品に出てくるエレメントは本当に面白い。

真人は最後には塔にこもっていた大叔父に出会う。
彼にとっては賢者のような存在かもしれない。
他の方の解説ではアニメという仕事を引き継ぐことに
象徴されているのではという見方がある。
何かを引き継ぐ、選択するということが主人公には与えられる。

彼は悪意がある世界でも友達がいると生きていけるということで
現実世界のほうを選択する。

これは社会の中で想像で完璧な世界を作り、そこにこもるのではなく、
新しい世界を受け入れ、自然を含め内面世界につながって生きていくこともあらわしているかもしれない。

ファンタジーの本質は今生きている現実世界を受け入れていくことを助けるものではないだろうか。

私たちは簡単に現実を受け入れることはできない。
つらいこともいっぱいある。

soul-makingにはファンタジーが必要である。しかし、あまりにもファンタジーにとらわれすぎると、それは自我を弱めることになってしまわないだろうか。

「日本人と心理療法」河合隼雄

ヒルマンがsoulはファンタジーを通してしか語れないという言葉を用いながら河合隼雄さんが書いたものだ。
だから自我の形成が弱い日本人の場合はファンタジーであるアニメや漫画文化がかなり拡大化し、オタクたちが大量にでてきた。
その中でも宮崎アニメは多くの日本人にとって代表的なものとなった。

だから河合先生は日本人の場合、自我形成というのとsoul-makingは並行していくものとしている。

なんというかこの作品の結末もそれに近くはないだろうか。
真人は彼の自我でもって現実世界を選択したのだ。
しかしあちらに戻ってもsoulの世界を忘れてなかった。
これもすごい。
彼にとってはアストラルな現実もともに生きる必要があるのだ。

生まれた妹と家族で疎開先から戻る場面では
なんとなくだが高畑監督の「火垂るの墓」を連想させる。
戦火から逃れ、生き抜くことで
新しい時代に参加もできるというあらわれなのかもしれない。

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