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母の死「今晩から朝方までが山でしょう」と医師からそう、告げられた。

記録として、自分の中での整理として。令和元年2月23日午前4時30分。

母、危篤の連絡を受けた、日常がそこにあった。

「今晩から朝方までが山でしょう」と医師からそう、告げられた。母、危篤の連絡を受けたのは、木曜日の夜。血圧は上が69、下顎呼吸。そのまま妹と、母が入所している老健に泊まり込み一夜を明かした。「お母さんきたよ」の言葉に反応はなかった。意識はもう既になく、辛そうな呼吸はしているものの、ほんと母は気丈で頑固で我慢強く優しい昭和の母そのものだった。自分は金土日は、東京に行く予定があり、いくか、いかないか、考えた結果、母の意識はもどらないが、状態が安定していたこともあり、東京へ向かった。

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大変なことは何もなかった。日常がそこにあった。妹は美容師だが、金曜、土曜の日中は仕事。夜は母に付き添ってくれた。土曜日の午前中に、今度は、父の入所しているケアハウスから、携帯に何度か着信があった。「2、3日前から嘔吐を繰り返していたようです。」「今朝も吐いてしまい、ご飯も食べられず、お腹が痛いと訴えてます。」あー、うん。病院を受診。そのまま腸閉塞で緊急入院となった。「ご家族の方、入院手続きにすぐに来られますか?」と東京にいる自分に再び呼び出しがあった。かさねて「お母さん、呼吸も不安定になってきているので、すぐに来られますか?」との老健からの連絡。妹は昼間は仕事、夜は母に付いてくれている。父のいる笠間には自分がいくしかあるまい。その日やりたいことはたくさんあったが、少し考えた結果、水戸に帰ることを決断した。

母と父。その時父は。

父は、入院先の病院で、腸閉塞で詰まったものを口からクダで吸引する作業を、看護師さんにしていただく途中、「痛い、やめろ、俺は帰る」「続けるなら舌を噛んで死ぬ」と大暴れしたらしい。よりによってこのタイミングで、と娘たちを困らせた父だったが、もしかしたら、母の状態を何かしら、かんじとっていたのかもしれない。日本の敗戦を体験し、昭和、平成、令和と生きてきた母と父。

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生きているうちに伝えて置きたい言葉を母へ

母は呼吸が不規則になったり、安定したりと繰り返し、繰り返し。いまは付き添い、そばにいることができる。生きているうちに伝えて置きたい言葉を何度も耳もとで語りかけ、その度に、充分にお別れをいう時間をいただけている。感謝の言葉を幾度となく伝える時間をいただき、神様、ありがとう。覚悟は充分にできている。

今は、明け方午前4時半。また、呼吸も血圧も安定してきた。巡回の看護師さんに感謝。親切にして頂いている施設の皆さんには、本当に頭が上がらない。本日2月23日は、病院があく時間になったら、父の入院している笠間へ向かう予定。

人は生まれた瞬間から、死に向かっている。

人は生まれた瞬間から、死に向かっている。だから、悔いなく、今この瞬間を丁寧に大切に生きていきたい。やりたいことをやるんだ。そんな想いをあらためて、母から気づかされた。強く心に焼きつくように。そしていま、この瞬間、母、父、妹、相方、娘、息子、大切な人達に、ありがとうを伝えることができる、喜びを噛みしめている。自分は幸せだと。そんな令和元年2月23日、午前4時30分。老健さんの一室にて、母と二人きりで。


母永眠、すべてはニュートラル

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24日(月)17時57分、母永眠致しました。最後の瞬間には間に合いませんでしたが、悔いはなく。すべてはニュートラルですね。昭和8年生まれの87才。妹と話しをしていると、あれこれ思い出はつきませんが、来世があるなら、また会える気がしております。ありがとう、そして旅立ちおめでとう。

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