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たったひとつの命同士が繋がるための、祈りのような──映画「正欲」を観て

小説「正欲」をはじめて読んだ時は「朝井リョウ、なんてことしやがる……………」とグロッキーになり、多様性を謳うメディアに嫌悪感を抱き、友達と下ネタを話す際には背徳感がつきまとい、性的欲求に訴えかける類の広告やSNSでの投稿を目にする度にひどく落ち込んでいた。

ただ月日が経てばそんな気持ちはすっかりなくなり、性的嗜好がマジョリティど真ん中の自分は毎日を楽しく生きていた。最近まで。

先週、映画「正欲」を観た。そして小説を読み返した今、再び「朝井リョウ、なんてことしやがる……………」とグロッキーになっている。



それにしても「正欲」が映画になると知った時は驚いた。多分、似たような人も多いと思う。俺が知っている「正欲」は人に薦めるのを躊躇うくらいにはグロテスクで、多様性を謳う時に匂う薄っすらとした肌寒さや、暴力的ですらある常識の押し付けが剥き出されている。そんな「正欲」が映画という広い窓口に晒された結果、世間からありえないバッシングを受けるんじゃないかという不安があった。

けど、それは今のところ杞憂に終わりそうだ。公開して二週間くらい経ったけれど、FilmarksやSNSを観る限り概ね好評なようで一ファンとして普通に嬉しかった。

映画はけっこう、というか、かなり良かった。
小説と異なる箇所が幾つかあったけれど、それが映画「正欲」としては良い方に作用していたように思う。いったん映画だけの感想を書いて、その後小説版との違いについて書きます。めちゃくちゃ内容に触れるのでまだ観ていない or 読んでいない人は気を付けてくださいね。





【映画の感想】

【水位=性的欲求の高まりの映像、かなりよい】

映画が始まって数分で死んだ目をした夏月(ガッキー)が出てきて「俺たちのガッキーがキラキラしていない………」と不安になった。映画ドラマCMなど各種作品で溢れ出る華やかさが無くなっていて「この人普通じゃないな」という予感が滲む。心なしか肌ツヤや髪質までもが失われているような。

そしてその予感は自室での自慰場面にて確信へと変わる。鏡台に写る自分と目を合わせないように布で覆い隠し、部屋を真っ暗にして自分の性的欲求を満たす準備を始める。その対象が水の映像であることや、性欲や快感の高まり具合を表情のみならず水位の上昇で表すことで、水に対して異質な感情を抱えた人間というのが序盤で分かる。自分は原作を読んでいたので夏月の性的嗜好を知っていたが、それを知らない人に初めて「正欲」ないしは「世間に許されない性的嗜好を持つマイノリティ」を理解させるという点でかなり効果的だったと思う。

「正欲」というタイトルが出てくる時、夏月が水の上に浮いているようだった。原作の表紙と重なってかなりグッと来た。


【神戸八重子という作中唯一の人間】

「正欲」では「人間の性的嗜好には<マジョリティ><理解されるマイノリティ><理解されないマイノリティ>が居る」ことを明示した上で、作中人物にそれぞれの性的嗜好を付与している。ただ、「理解されるマイノリティ」として出てくるのは一人しかおらず、それが神戸八重子という人物だ。

彼女が抱えているマイノリティな部分は端的に言えば「男性が嫌いだけど男性を好きになってしまう」というものだ。原作での神戸の人物像は(諸橋にとって)最も軽蔑の対象になる軽薄な人間だったように思うが、映画では彼女の浅ましさは薄れ、真に迫った激情を伴って諸橋に告白をする。

ここでの告白はそれまでの90分で佐々木や夏月、諸橋が抱えている<理解されないマイノリティ>である人の最たる主張だった。それを<理解されるマイノリティ>側の神戸に言わせているのが、劇中を通して最も印象に残った場面だった。同じマイノリティでも決定的に異なる二人がいて、世間一般の多様性に内包されている神戸にそれを言わすんか~という二重構造が非常にグロテスク。その場面を完遂しきった東野絢香さんの演技、本当に痺れた。

「自分に正直になって」と歩み寄ろうとする神戸に、諸橋は「自分に正直って言うけど、その正直の部分が終わってるからそれは無理」と切り捨てる。ただ引き下がらなかった神戸の告白によって、諸橋も自身の本音を僅かに見せていた。その後の感謝の一言も含めて映画全体の救いポイントになっていて、観客の精神状態を上向きにしてくれていた。

俺は小説版神戸のうっっっっすいマイノリティ理解が現代社会を皮肉っていて好きだったので、神戸の変貌具合には若干落胆した。それでも映画版ならではの温かみを感じられて、寧ろ原作にはない救いポイントになっていた。繋がりが出来そうで良かったな諸橋。神戸も頑張って生きような。でも神戸、もう少し見た目を気にしても良いんじゃないか。普通にホラー映画かと思ったぞ。


【映画で気になった所】

その他、映画で気になった点について

① 夏月と佐々木の同級生の男、「西山修」。彼はデリカシーの無い正直者なのだが、それが案の定渡辺大知で笑ってしまった。「勝手にふるえてろ」「彼女が好きなものは」に続いて俺の推しがまた無礼者を演じている……

② スペードのダンスシーン、「音源、チコカリートの声に似てるな…」と思ったらやっぱりチコカリで笑った。売れてて嬉しい。

③細かいけど佐々木が水の映像を観ながらご飯食べていたのがモヤった。俺はAV観ながらご飯は食わないけどな…ってなった。でも推し的な意味でアイドルのライブ映像とかを観る感覚と近いのかな………けど性的嗜好って言ってるしな……

④ エンドロールで流れたVaundyの「呼吸のように」、水が滴るようなピアノイントロとたゆたうAメロはかなり良かったのに、サビの音量が大きくて余韻が冷めてしまった。曲自体は凄く良いんだけど「正欲」のエンドロールに合っていたかと言われれば……


【小説との違い】

【原作と映画の違い① 性的嗜好と事件が明らかになるタイミング】

映画では序盤に夏月の性的嗜好が発覚する。それに対して小説では物語が大分進んだところで(146頁)佐々木と夏月の性癖が明らかになる。それまでも水に対する拘りや偏愛が見え隠れしているが、映画と小説を比較した際、二人の性的嗜好が露見するタイミングは映画の方が早い。それは前述した通り2時間という制限下において物語の特色を早めに馴染ませる意図で<理解されないマイノリティ>の存在を序盤に示唆しているんだろう。

また最後の事件が明らかになるタイミングも小説と映画で異なる。小説では【街を歩くとします】の後に事件の記事が書かれており、佐々木や諸橋、矢田部が逮捕されたことを知る。そこから小説「正欲」の物語が進んでいくので、佐々木や諸橋が出てくる度に「この人、逮捕されちゃうんだよな…」と頭を抱えることになる。見えてる絶望にズンドコ進むの、地獄か?

反対に映画では最後まで事件が発生せず、このままハッピーエンドで終わるか……?と匂わせといてのアレ。タイミングも最悪で、佐々木と夏月が人としての存在を肯定し合う場面でやっと心が休まったのに急転直下の絶望でかなりしんどくなる。事件が起きることを知っていた筈なのに、映画を観ながら「どうしてそんなことをするんだ…」と打ち拉がれてしまったよな。


【原作と映画の違い② 寺井と夏月が偶然出会う場面】

寺井と夏月の邂逅は映画独自のシーンだった。買い物帰りの夏月の傍スレスレを自転車に乗った学生が追い越し、夏月は転んでしまう。偶然近くに居た寺井が手助けし、僅かの間だが二人は会話を重ねる。お互いの素性は不明なままだが、観客は寺井と夏月だということを当然知っている。原作を読んだ人は二人があのタイミングで出会うことに驚いたのではないだろうか。

夏月が持っている二つのコロッケに対して「旦那さんの分ですか?」と寺井は呼びかける。自然と人妻として見られていた夏月は「結婚しているように見えますか?」と自身が正しい命の循環に入っている(実際には違うとしても)ことを確認しようとしていたし、そう認識されている事実を嬉しそうにしていた。それまでの30年間人間の振りをし続けていた宇宙人が、ようやく人間として存在を認められたことへの嬉しさ。かなり良いシーンだった。

さらに、二人が駅前で邂逅したことで、最後の場面での二人に因縁が付与されていた。人妻に見えていた夏月が小児性愛者の夫を庇い「居なくならないから」と宣言したことで、寺井は「何だこの人…おかしいのか?………いやおかしいのは俺か………?」と自分の理解の及ばない世界があることに呆然とする。余りにもBITTERS END

でも40歳を超えて自分の常識を改編される寺井に俺は同情するよ。息子は不登校で同世代のYouTuberにハマってるし、嫁はNPO法人の右近さんに頼りっきりだし、自分の稼ぎで二人は生活してるのに悪者扱いされてな。お前も大変だよな。でも流石にゴム風船くらいは膨らませられた方が良いな。


【原作と映画の違い③ 小説の設定やパンチラインがカットされていて悲しかった(けど仕方ないか…)という個人的な話】

行為中に由美が流す涙に興奮する寺井や、川に飛び込んだ西山、八重子のその後。それらを始めとする数々の要素が映画では無くなっていた。きっと2時間という制限の中で「正欲」を伝えるためにはやむを得なかったんだろう。

また、個人的に好きなパンチラインたち(「なんか人間って、ずっとセックスの話してるよね」「そんなの私の考えることじゃないでしょうよ」など)もカットされてた。

ただ後者に関しては全体の描写があまりにも暴力的な点と、寺井が「自分が異常なのか…?」と悟るラストシーンを際立たせていたので結果として良いと思えた。
けれどやはり前者に関しては劇中に登場してほしい台詞だった。人間社会に馴染めない宇宙人二人から見たマジョリティの異質さを端的に表した言葉で、自分も「確かに…」としばらく引き摺ったパンチラインだったから。


【たったひとつの命同士の繋がり】

とはいえ、小説でも映画でも「正欲」が伝えたいメッセージは変わらない。

 多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉の筈だ。

正欲 本文より引用

「多様性」という言葉は幅広いマイノリティを理解するという意味合いが強い。けれどそれも認知できる範囲のみに焦点を当てているだけで、小児性愛者や凶悪犯、倫理的にアウトな言動をした人は自然に排除されている。

作中で、<理解されないマイノリティ>の諸橋が<理解されるマイノリティ>に立つ八重子に「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、それは気持ちいいよな」と言う台詞がある。「正欲」は、この一言に集約されていると思う。


ただ、「正欲」は「多様性」を安易に使う人を糾弾したいだけでは無い。
もっと単純に、この世に生きているすべて人間が一人の人間として生きていることを心に留めて欲しいのではないか。<マジョリティ>も<理解されるマイノリティ>も<理解されないマイノリティ>の境界線なんて、何も関係なく。たったひとつの、命同士として。

あってはならない感情なんて、この世にない。
それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ。

正欲 あらすじより引用

正しい命の循環に内包されなくとも構わない。
誰も一人で居ないよう、命同士が繋がるように願う。
そんな祈りが込められている作品だと思う。


小説「正欲」をはじめて読んだ時は「朝井リョウ、なんてことしやがる……………」とグロッキーになり、「多様性」という言葉を迂闊に使えなくなった。メディアでその言葉を耳にする度に気持ちが沈み、画一化される社会に反して自分には想像すら出来ない世界があることを静かに考えてしまう。

「正欲」は決してハッピーエンドではない。誰も幸せにならないまま終わる、本当に救いの無い話だ。

けれど「正欲」のお陰で救われる人は確かに居るだろう。自分は一人ではないと感じるかもしれない。明日を生きたくないと街を歩いていたのは、自分だけではないと気付けるかもしれない。命の循環に入っていない自分のことを、少しだけ楽な目で見れるようになるかもしれない。

一人でも多くの人がこの作品に触れることを、心から願っています。

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