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小説[山門国の女王伝]

あらすじ(300字)
ヒナコ(日向子)は面上国の王イザギと巫女出身の妃イナミの娘として母の里、筑後の日向の岩屋で皆既日食の日(158年)に生まれた。
太陽の子と言われながら前国王スイショウの館で育った後、巫女修行をして、15歳で面上国の斎主になった。いたずら好きの弟スサオは諸国を旅した後、自国の産業を発展させ国の勢力を広げた。友好国の間の争いが多くなると、ヒナコは連合国山門(やまと)国の女王に推されヒミコ(日神子)と改名された。イザギは引退し、スサオが面上国改め山門国の首長となった。連合国はヒミコの下で国家として機能し始め、安定した。即位50年後ヒミコは魏の明帝に朝貢の使節を派遣し、名実共に山門国家の女王となった。

(第1話) まえがき

 郷土史家村山健治氏に初めてお会いして、著書[誰にも書けなかった邪馬台国]にサインをいただいたのは1982年正月だった。その時、労作のご本に感動して、「いつか小説にしてみたかですね」とほざいてから40年が過ぎてしまった。八十路の旅に出かけて恥もかき捨てられそうなので、残り少ない余生をかけて初の小説の執筆にトライしてみることにした。具体的には村山氏の著作も参考にしながら、魏志倭人伝の記述と記紀の神話をひもといて日本人の起源に迫っていきたい。
 始める前にパズル作家として魏志倭人伝の二つのパズルを解かなければならない。  
一つは投馬国と邪馬台国の位置の再確認である。
邪馬台国探しで第一の関門は不弥国から先が里程から日程に変わっていることである。このことが江戸時代以来諸学者や小説家、郷土史家など多くの人々を迷走させてきた。
このヒントは[その道里を計るにまさに会稽の東治の東にあるべし]である。つまり、時は三国時代、魏が呉を牽制するためには金印を授ける邪馬台国はできるだけ呉に近い南の方にあると思わせるトリックが必要だったのである。魏は蜀を抑えるため西隣の大月氏国にも[親魏大月氏王]の金印を授けている。
しかし、実際は沖縄近くでは困るのでどうにでも解釈できる表現を捻出している。[南至投馬国水行二十日]と不弥国の説明に続いて記してあるが、これまでの里程から日程に変わっているため、明らかに文章の変換点になっている。つまり、これから先の日程の出発地はわざわざ不弥国などに寄る必要はないので伊都国になる。
また、これまで「水行」はすべて海路を表しているので、陸の川の上り、下りは考えない方がよい。
では、西回りか東回りで海路だけで二十日間かかる、不弥国より南の方向(ただし、邪馬台国より北)の国はどこか。外海の場合は天候待ち、潮待ちしながらの地文(沿岸)航法で、第一、漕ぎ手の人数によっても変わるので、日程ほどあいまいな表現はないが、西回りは「海に描かれた邪馬台国」で田中卓先生が推奨された五島列島の福江島がある。しかし、距離が余りに近すぎるのと5万戸(これも投馬国を大きく見せるために邪馬台国と共に倍増している可能性がある)は半分でも対馬国や伊都国と比較しても無理がありそうだ。
東回りは伊都国から沿岸沿いに200㎞強の豊(とよ)の国(宇佐)が有力である。「理系脳で解く日本の古代史」の斎藤茂樹氏によると手漕ぎの丸木舟の速度は瀬戸内海で1日に10~30kmを予想されている。外海の場合は平均の速さを10㎞/日と予想してもおかしくない。ちなみに、古代の瀬戸内海の航路は10km毎に船宿があったそうである。
戸数は日田まで含めなくても十分であろう。それと、ここが女王国圏であれば倭人伝に記されている、東に1000里に別の倭人の国(四国)がある。
邪馬台国は伊都国から水行十日、または陸行一カ月と考えれば(志田不動麿氏説)、村山氏も比定されている山門(やまと)郡(筑後平野)がどんぴしゃりである。水行十日は先の田中卓先生が示された「大村湾から船越を経て有明海に抜けるルート」が秀逸で、矢部川の5mを超える潮の満ち引きを利用すれば王城の地近くの船小屋までそのまま着けるのである。
陸行(一カ月)は先に述べたトリックであって、帯方郡から邪馬台国までの総里程である万二千里から伊都国までの万五百里を引いた千五百里を、机上計算で「唐六典」による「一日の歩行数五十里」で割って30日(一カ月)としているのである。
実際に、奴国や不弥国を経由してから筑後川を上流(日田近く)まで迂回して、村山氏が実際に歩いて確認した尾根道のルートを測定してみると約120kmになる。ジャスト倭人伝の短里(80m)で千五百里である。従って、一日平均20kmで歩いたとしたら6日で邪馬台国に到着できる。トリックの種明かしは「唐六典」の一里は約450mだったのだ。
 もう一つのパズルは卑弥呼が西暦何年ころに生まれ、何歳で死亡したかである。
 邪馬台国の場所探しに気を取られ、多分、だれも気にしなかったかもしれないが、卑弥呼を書くには必要なのである。
 余談だが、私が見つけた年令考証を怠った例として、元外務省官僚であられた某氏の「卑弥呼の生涯」という長編歴史小説(現代日本文芸作家大賞受賞)がある。魏の明帝との恋が後年のクライマックスであるためか、西暦249年頃に49歳で死亡した設定になっているが、冒頭の197年夏に召集された隣国との抗争の作戦会議の主催者が卑弥呼王女となっていて計算が合わない。恋は盲目というが、せっかくの大作が残念である。
 年令に関するヒントは倭人伝に「その人(倭人)の寿考、あるいは百年、あるいは八九十年」、また、卑弥呼が王となった時「年すでに長大なるも夫婿なく」とある。当時の平均寿命は40歳前後と言われているのになぜ八九十年なのだろう。
 私の推理では、朝貢した時、「女王は今何歳ですか」と聞かれ、使節(難升米)が「80歳過ぎくらい」と答えたので、忖度(そんたく)したのではないだろうか。卑弥呼が女王になって50年ほど経っているので、「すでに長大な年」は30歳前後だったのだ。
 したがって、生まれたのは159年前後、亡くなった年齢は90歳近くとなる。
 これも余談だが、卑弥呼が亡くなったと思われる247年または248年はどちらも(洛陽で)皆既日食があった年と重なるので、そのため霊力が衰えたとして王位を下ろされたとか、殺されたなどの著作が見られるが、90歳だと知っていればどうだっただろう。なお、2012年の国立天文台報によると、247年(3月24日)の皆既日食だけが北九州で可能性があり、近畿地区(奈良)は両年とも部分日食だったと推測されるそうである。

 

(第2話) 第1章 ヒナコ誕生

九州は筑後平野の南端で、筑肥山地とぶつかる斜面の上の台地(旧・山門郡山川村野町面ノ上)に面上国の王城はある。王城のある野町は物々交換の市が立ち、ここから南へ原町、北の関、南関までは往来が多く、すれ違える幅(約2m)の道が整えられている。

道の東は佐野山(現・お牧山:標高405m)山系の山裾に、立山(たっちゃま)、赤山、日(ひ)当川(あてご)、待(ま)居川(てご)、佐野、谷(たん)軒(のき)、五位軒、青々(あおあお)、中原(なかばる)など、大小の集落が点在している。野町から西に向かうと、竹(たけ)飯(のい)から飯(は)江(え)川を渡って少し行くと有明海の海津(港)に着く。そこから南西に下ると黒崎海岸(現大牟田市)に至る。

北西の方へは面の坂を下って清水から清水川(現・大根川)を超えて、瀬高で矢部川に突き当たるので、少し遡ると船小屋に至る。


面上国の王イザギ(伊耶岐)は那国(奴国)の王族であったが、前国王スイショウ(帥升)が心酔する那国の前国王に懇願して後継ぎとして迎えたのであった。妃、イナミ(伊那美)は太陽を神として祭式を司る一族の巫女で、母アヤカ(阿夜可)が斎(いわい)主(ぬし)である面上国の祭殿に務めていたが、新国王イザギに見初められ、やや強引に妃にされたのであった。


イナミが懐妊して、お腹が目立ち始めた頃、アヤカから相談を受けた。

「お妃、出産が近づいとるけど、お産はどげんすっとね。一族の慣習じゃ矢部の日向(ひなた)に里帰りすっとばってんね」

「そうね。あたいも里帰りしたかばってん、王さんのどげん言わっしゃるか分からんもん」

「わしから聞いてみようか」

「いや、あたいが言うてみるけんよか」


後日、イナミから連絡があり、里帰りが決まった。

そうなると、アヤカは大忙しである。

女官長と祭祀部の大臣を呼んで、里帰りのお供の女官の人選と御輿の準備、担ぎ手の人選、道順などを至急手配するよう依頼した。自身は日向の一族の長(おさ)に産場や祈祷の祭壇、産婆の準備などを依頼した。


里帰りを数日後に控えた日に巫女の一人がアヤカのところに駆け込んできた。

「斎主しゃん、御輿の出来(でけ)たげな。祭殿の表に持って来とらっしゃるばんも」

「そげんね、出てみようかね」

祭祀大臣や大工の男衆が出来立ての御輿を囲んで集まっていた。

御輿は2本の長い乾燥孟宗竹の中央に、半割の竹を並べて座を固定し、四隅にこれも竹の柱を立てて屋根の骨組みを支えている。座には厚手の筵を敷いてその上に大きめの座布団が置かれている。座の両側には手すりがあり、屋根には日よけの簾が垂らしてある。

アヤカは「うあー、良か御輿の出来(でけ)たね。ちょっと、乗せてもろうてよかね」

と言いながら座布団にちょこんと座ってしまった。

担ぎ手の男衆が「ほんなら、担がせてもらいまっしょうか」と4人で担ぎ上げた。

「どげんね、重かね」

「思うたより軽か」「重なか」「いっちょん(少しも)重なか」と言いながら一回り担いで歩いた。

アヤカが下りてから、大臣が「ほんなら8人で交代で担いでよかか」というと、皆「よか、よか」と口をそろえた。

一段落して、アヤカが大臣に尋ねた。

「道順は決まったね」

「あい、山越えが近かばってん、御輿じゃちょっと無理のごたるけん、東山の山沿いを本吉を通って矢部川に突き当たると、川沿いを黒木まで歩き一泊しますたい。あくる日は矢部川沿いの木曳道を遡(さかのぼ)って矢部の日向(ひなた)に向かいますばい」

「清水川の橋はどげんね」

「梅雨時の大雨で流されてしもうたばってん、新しか丸木ば組んで、土を固めとるけん大丈夫ですたい」

「そんなら安心たい。途中の休み処もちゃんと頼んどってね」

「はい、そげんしとりますばい」


里帰り当日は早朝に宮殿前の広場に祭祀大臣と官史2人、道案内人2人と御輿担ぎ衆8人、護衛の兵士4人、荷物担ぎの下人数人があつまっていた。そこに斎主アヤカと巫女2人、女官長と女官2人に付き添われたイナミ妃が現れた。また、見送りのイザギ王はじめ数十人の大臣や官史たちもぞくぞくと集まってきた。

全員が揃ったところで、イナミ妃が御輿に乗り込み、30人近くの行列が出発した。どの顔もみな晴れやかで、浮き浮きとしていた。

行列は河原内まで坂をゆっくりと下り、次の休憩点、本吉に向かってにぎやかに進んでいった。珍しい大行列に、沿道には数日前からの道の整備の折に聞いたのか、大勢の村人が道の両側に座って手をたたいて見送った。本吉で一服した後、担ぎ手が代わり、矢部川と突き当たる唐尾に着くと持参の握り飯と飲み水が配られ、木陰で三々五々にぎやかに昼食を取った。

7月の川沿いの田んぼには青々とした稲が伸びて、渡る風が心地よかった。

食事が終わると、そこからは川沿いに、途中一度休憩を取って、まだ、陽の高いうちに今日の宿泊地である黒木(後世の黒木瞳の出身地)に着いた。

黒木は交換市が立つ大きな集落で、各地から来た商人たちの宿屋もある。一行が到着すると、邑(むら)長(おさ)や役人、大尽など多くの人々に出迎えられた。

イナミ妃とアヤカは邑長の家に迎えられた。夕方、湯浴みの後で歓迎の宴会になったが、二人は早めに切り上げて寝所に入ってゆっくりくつろいだ。

「お妃、体ん具合はどげんね」

「長か時間揺すられたけん心配したばってん、どげんなかったごたる」

「そらよかったたい。今夜は早よ寝ろたい」

「お母(っか)さん、二人だけん時、聞きたか事(こつ)んあっとよ」

「何ね」

「あたいの本当のお父(と)っあんな誰ね」

「いつか話さんじゃったかね。お日さんたい。春先に渓谷(たに)の滝に打たれた後、水ん冷たかったけん裸んまま岩に寝そべって温めとったら眠ってしもうとったたい。目が覚めたら仰向けになっとってお日さんに曝らされとったたい。だけんお前のお父っあんはお日さんに間違いなか」

イナミは笑いながら「そん話は小まか時から知っとった。巫女になったけん都合んよかったばってん、本当はどげんじゃったとね。男ん人と寝た事(こつ)はなかったとね。」

「そら、斎主になる前は旅のえらか人ん相手ばさせられたり、夜這いされた事もあったばってん、名乗らっしゃらんと誰かわからんとたい。じゃけんお日さんにしとってくれんね」

「スイ爺(じい)(前国王)が時々来よらしたけど、関係なかとね」

「あんお人は冬の寒か時なんかに、温まらせてくれんねち言うて布団に入って来よらしたばってん、何もなかったとよ。スイ爺も父親になってやってもよかち言いよらしたよ」

「もう、妃になったけん父親はいらんよ。ようわかった。お母さん、話してくれてありがとう。なんだかすきっとした。もう寝ようか」

「そうね、おやすみ」


翌朝も早立ちで、邑の人たちに見送られながら全員そろって矢部川沿いの道を歩き出した。途中、支流が合流するところは川幅が狭いと丸木橋であるが、少し広いと筏(いかだ)を浮かべて杭で固定しているのだが、不安定なので、お妃には御輿を降りてもらって、二人の担ぎ手に両側から抱えてもらって渡った。

道のそばの木陰のある原っぱでお昼をとったが、黒木の人たちからいただいた握り飯や栃餅を皆美味しそうに頬張っていた。ご飯が済んだ頃、川上から木曳きの一行が大きな声を掛け合いながらやってきた。実は一行が通る間は木曳きをやめようかと相談を受けていたのだが、お妃はじめ誰も見たことがないので見てみたいと依頼していたのだ。

材木は直径2m近くで長さは優に10mはある、大型の丸木船用と思われるタブの木か楠木の大木である。前側と後ろ側を撚った太い蔦でくくり、長い両端を川の両岸の数人の曳き手が持って引っ張っている。長い竿を持った頭(かしら)は材木の先頭に乗って舵を取りながら号令をかけている。この勇壮な光景を邪魔にならない所から見物している一行は皆「すごかー」、「すごかねー」と感嘆の声を上げてよろこんでいた。

午後は思ったより長い道のりで、途中2度休憩して日向の里に到着したのは夕暮れ近くであった。日向の里は後世に市町村制がしかれた時、日本一人口の少ない村と言われた矢部村の奥に、稲作と太陽を信仰する一族がひっそりと暮らす隠れ里である。

一行は黒木に比べたら簡素な歓迎であったが、温かく迎えられた。

数日後(西暦158年7月13日)、日向の岩屋[現:神の窟(いわや)(高さ8m、幅30m、奥行き9m)]の一画に万幕が張られ、その中でイナミは陣痛に耐えながらイザギから贈られた銅鏡をしっかり握っていた。その鏡は後漢の光武帝から那国王に授けられた神獣鏡の一つであった。万幕の前には祭壇が設けられ、国王の第一子の安産の儀式が斎主アヤカにより行われていた。その日は晴天の暑い日で、太陽がまぶしく輝いていたが、お産は長引いていた。万幕になかでは、儀式を済ませたアヤカと産婆がイナミの体を擦り乍ら励ましていた。夕方近くになるとなぜかいつもより早く空が次第に暗くなってきた。西の空を見ると赤い太陽が少しずつ黒く欠けていき、ついには太陽が真っ黒になってしまった。生誕を見守っていた邑長(むらおさ)や邑人たち、王城関係者は皆仰天して大騒ぎになった。

「お日さんが死んしゃった!この世の終わりじゃ!」

「祟りじゃなかろうか!」

数分経って、甲(かん)高い赤子(ややこ)の泣き声が響き渡り、その後、少しずつ明るくなってくると、群衆は静かになった。真っ赤な夕陽が少しずつ大きくなり、真ん丸になって山の端に沈んでいくと大歓声が沸き起こった。

 「お日さんが生き返った!赤子のおかげじゃ!」

 「お日さんの申し子じゃ!めでたか!」

 しばらくすると村人の数人が手に手に火手(ほて)(松明(たいまつ))を持って現れた。この時期に行われる予定だった虫送り(虫追い)行事がお産騒ぎで延びていたのだ。数人が火手をかざして、「めでたか!」、「おめでたか!」と叫びながら田んぼの畦道を回り始めると、残りの邑人たちも火手を取ってきて続々と後を追っていった。薄暗くなった田んぼを照らしながら点々と続く火の行列は、王城の人々の郷愁を誘う夏の風物詩であった。

 虫送りを終えた人々は岩屋の前の広場に帰ってきて、火手を集めて大きな焚火をつくって囲んだ。串刺しの焼き鮎を肴に王様から振舞われた口噛み濁酒を飲んで、夜遅くまで歌って、踊って「陽(ひ)の王女」の誕生を祝った。

 イナミ妃が元気になって王城に帰ってから、斎主にヒルメ(日霊女)と名前を付けてもらったが、世間では口伝えに生誕秘話が評判になっていて、誰がつけたのかヒナコ(日向子)姫が通り名になっていた。   

翌年の稲穂がたわわに実ったころにはスサオ(須佐男)王子が誕生して、姉弟はすくすくと育っていった。


(第3話) 第2章 スイ爺の大冒険


 面上国の前国王スイ爺(スイショウ)は西暦107年に後漢の安帝に朝貢したことで名が知られていたが、友好国の那国や怡土国を通じての中国(楽浪郡)や朝鮮半島との交易に熱心で、鉄などの物品や船大工の技術などの導入を進め、急速に国力を大きくしていた。

 元々は有明海を漁場とする海人族を多く抱えていて、彼らが海産物との物々交換のルートを持っていたこと、丸木船に適したタブの木や楠木、杉などの大木を産出する肥筑山地の山々を抱えていたこと、肥沃で広い筑後平野で良質の米の生産量が多いことなどから那国や怡土国などの友好国や、対馬などの島々に木材や丸木舟や米などを供給していたのである。

 スイ爺が国王の座に就いたのは、父親が急死した関係で19歳の時だった。最初は戸惑ったが、喪が明けた頃には政務を引き継いでくれていた重臣たちとも打ち解けていた。その重臣たちに、「葬儀の時に会った、父親が親しくしていた怡土国や那国の国王にもう一度会っていろいろ相談したい」と話したら、「今、怡土国駐在員が帰っとって、怡土国で新しく建造する準構造船の木材に関して、関係大臣たちが出張するけん、王様もご一緒されて、怡土国王や那国王にお会いになって葬儀参列のお礼も述べられたらどげんでっしょか」と恰好の話が返ってきたので、若いスイ爺は大喜びで、手はずを整えるよう伝えた。

 前国王の大塚も出来上がり、随行の人員など準備が整ったので出立することになった。大型の丸木舟2隻で、漕ぎ手を除くと20人の一行となった。朝方の満潮の日を待って、引き潮に乗って船小屋から矢部川を一気に下り、有明海を対岸の多良岳を目印に20㎞余りを横断して、大浦に着く。そこから海岸を少し南下して本明川の河口の長田で潮が満ちてくるのを待つ。満潮に乗って諫早の船越まで遡ったら、船をそこにおいて陸路を数百メートル歩くことになる。小船越では怡土国が用意してくれた準構造船が待っていた。陸路を土産物などの荷物を運んでくれた16人の漕ぎ手はそこで引き返していった。

怡土国の船は大村湾から針尾瀬戸(現:西海橋)、佐世保湾、平戸の瀬戸を抜けて、松浦の海岸を伝って怡土国に到着した。途中、夕方になると舟を岸につけて、翌朝明るくなって出発した。船小屋を出発してから陸に上がって泊ったのは大浦、長田、小船越、大村、佐世保、平戸、唐津などで船小屋から水行十日かかっている。

 怡土国では国王はじめ重臣たちに丁重に迎えられた。若いスイ爺は恐縮していたが、面上国はあくまでも友好国の盟主として扱われた。歓迎の宴席で、怡土国王から今後の抱負を聞かれたスイ爺は、少し酒の酔いが回っていたこともあって、とっさに「奴国の前国王のように、後漢に朝貢したか。できれば自分が直接洛陽に行きたか」と言ってしまった。

 国王はちょっと驚いた様子だったが、「それはよか考えですばい。ぜひ、実現してくだっしゃれ。私は楽浪郡の王(ワン)太守とも話ができるけん、全面的に協力しますばい」と賛同してくれた。

「ところで、朝貢するにはお名前が要りますばってん、王様のお名前は何ち言われますか」

「小さか時は王子や御(お)子で、国王になったら王さまで、名前はなかとです」

「そうですか。少しお待ちください」と言って、国王は席を立っていった。

しばらくすると、両手で小さな四角い包みをもって帰ってきた。

「これは即位のお祝いの献上しようと用意していたもんですたい」といいながら、包みをほどいて中の木箱のふたをあけた。取り出して真っ赤な絹の布をひらくと真ん丸な透き通った玉があらわれた。思わずスイ爺が「おおっ」と声を上げるほど見事な美しさであった。

「これはスイショウ(水晶)ち言う硬い石ですたい。楽浪郡の太守からの頂きもんじゃが、なんでも太守の先祖が漢の武帝から下賜された由緒あるもんげな。本来は占いに使うもんらしかばってん、玉の中に剣の模様があり、これを持った人は戦いに負けたこつがなかげなですたい」

「うわー、そげん大事かもんを手放してよかとですか」

「私の国は商売中心で、戦争はしまっせんので、王さまが持って、私どもを守ってくだされ。それで、王さまのお名前ですけど、スイショウと名乗られてはどげんでしょか」

「国王が名づけ親ならありがたか。喜んで頂戴しますばい。それと、このお宝は我が国の国宝にさせてもらいますばい。ありがたかー」

「国宝でもよかばってん、スイショウ王が見込んだ巫女が現れたなら、国を助ける占いに使ったらよかですたい。易の書物もあるけん差し上げますばい」

その後二人は打ち解けて、亡き国王とのことや楽浪郡の出来事などいろいろな話をしてくれた。 

 翌日の新しい大型準構造船の商談にもスイショウは陪席して、積極的に話に加わった。

話の主題は、従来は丸太を購入して怡土国で制作していたが、丸太の運搬が大変なので、面上国の川の近くに準構造船専用の工場を立てて制作できないか、設備や工作道具、造船の技術者や熟練の船大工は怡土国から派遣してもよいとのことだった。国王がいるだけに、話はすぐにまとまり、今後のスケジュールは担当大臣どうしで打ち合わせることになった。

昨日の思いつきがすぐに実現しそうで、スイショウは自国で造った大型船を連ねて、後漢を訪問する姿を想像して、夢見心地であった。

翌日、造船関係者を残して、怡土国王に別れを告げ、一行は那国に徒歩で向かった。

那国王もスイショウを我が子を迎えるように歓迎してくれた。父の葬儀に列席してもらったお礼を言った後、後漢朝貢の話を持ちだすと、国王は父上の前国王や当時の使節から聞いた話をいろいろと話してくれた。

 「あれからもう50年近くになっとやね。当時は国が百国くらいに分かれとって、競って朝貢しとったげなばってん、皆、楽浪郡までで、洛陽まで行って光武帝に会ったのは初めてじゃったげな。紫綬金印を授かるのも初めてじゃったげな」

 「あの金印は王様と一緒に埋葬したとですか」

 「いや、有っとよ、見てみるね」と言って、さりげなく隣の部屋から持ってきて、スイショウの前で金糸の刺繡の施された袱紗(ふくさ)を広げられると金色に輝く紫綬印章があらわれた。息をのんで見つめていると、手に取って渡してくれた。小さいいながらずしりと重い。紫色の紐が通されたつまみはよく見ると蛇で、印面は3行2段に初めて見る字体がきれいに刻まれている。「何ち書いてあるとですか」と尋ねると、国王は指をあてながら「2文字分にこれが「漢」で、「委」の「奴」、「国王」ちなっとるですたい」と教えてくれた。「きれいかですね。貴国(おくに)のお宝ですたい。ありがとさん」と言いながら返した。国王も「よかもんでっしょ。貴国も貰って来なはれ」と言いながらほほえんでいた。

 翌日は午前中、鞴(ふいご)(風入れ)の造りなど鍛冶場を見せてもらって、一振りの柄と鞘のついた鉈(なた)をお土産にもらって帰途についた。

次の訪問国は宇美国で、帰路は徒歩で、葬儀に参列してもらった行路近くの国に立ち寄りながら帰ることにしていた。復路の主な国は宇美国の後、鳥栖国(吉野ヶ里)、朝倉国、日田国で、矢部邑に1泊して山越えで王城に帰る6泊7日の陸行となった。


 それから一年後、スイショウは国事にも慣れてきたので、いよいよ漢国への朝貢の準備に取り掛かることにした。まず、国内のあらゆる職種から若者を中心に最低2年間の留学研修生をできるだけ多く募集するよう関係大臣たちに申し渡した。

参考

[工業]大臣;青銅、鉄による農具、大工道具や木造船(切断、加工技術)、兵器などの最新の製造方法

[建設]大臣;木造船(切断、加工技術)、運搬、家屋建築、土木(河川、道路、橋)技術、

[農林]大臣;稲作、畑作、果樹、養蚕(桑作)、綿花、植林などの栽培技術

[水産]大臣;水産、漁労方法(網など)

[手工業]大臣;製糸(麻、綿、絹)、機織り(はたおり)、染色(班布(さらさ))、縫製技術や勾玉、管玉、宝飾品の製造技術、陶器、石工、木工など、

[商業]大臣;商取引(通貨)など

[兵站]大臣;兵器、兵糧など

[祭祀]大臣;暦日、天文、易学

他に[兵部]将軍、[検察]長官、[外交]大臣、斎主、女官長など。 


各部門からの希望者の人数は300人を超えてしまったので、既婚者は除くなどとりあえず半数近くに絞ることにした。上記の重臣たちが集まって調整した結果、160人が選ばれた。

 この人数を怡土国駐在員に朝貢の主旨と共に伝え、怡土国王を通じて楽浪郡の太守に伺いをたててもらったところ、本国に帰って検討するので、しばらく待つようにとのことだった。

 1月ほど過ぎて返事が届いた。「国王が直接朝貢することに安帝は満足されている。生口の人数が多すぎるが、楽浪郡でも中国の最新技術を研修できるので全員郡で受け入れる。洛陽には国王と随員のみとし、王太守が案内する」とのことだった。

 スイショウは大喜びで、さっそくお礼の返答と、随行員の人選や船団、貢物などについて、怡土国に相談してまとめるように命じた。


 西暦107年(安帝永初元年)9月中頃には準備万端整った。斎(いわい)主(ぬし)からのご神託では10月10日以後であれば、大風(台風)や大雨の心配はないとのことだったので、10月10日に6隻の大型準構造船を怡土国から廻してもらい、怡土国の大臣に楽浪郡まで同行して案内してもらうことになった。

いよいよ出発である。航路は有明海を横切って島原国に一泊し、首長から祝宴をしてもらった。翌日は島原湾を通って日本海に抜け、五島列島の福江国に着く。ここでも首長の祝宴を受けた。ここから対馬海流に乗って対馬国に着き、一泊して大官の接待を受けた。対馬から伽耶国(倭領狗邪韓国)に着き、一泊する。ここでも大官の挨拶を受け、駐在員を慰労した。そこから馬韓の沿岸を、途中の港で一泊して楽浪郡に無事に到着した。。ここでは到着した日に王(ワン)太守から怡土国と自国の大臣たちと共に歓迎の宴を設けてもらい、通訳を通して歓談した。翌日は研修員の派遣先の中から養蚕場と製糸場、さらに製鉄鍛冶場や造船所を案内してもらい、その後160人の研修員に激励の言葉をかけた。研修員たちは皆目を輝かせて期待に満ちた表情をしていた。スイショウも自分の思いつきが間違っていなかったと満足であった。

乗ってきた準構造船は1隻だけ残してもらい、残りの5隻は怡土国の大臣や官たちの差配で、楽浪郡や弁韓、伽耶国から鉄てい(鉄材)や鉄製品などの荷を積んで帰るそうであった。

 2泊した楽浪郡からは王(ワン)太守の案内で、群の大型外洋船に乗って黄海、渤海を渡り、黄河を遡って洛陽に到着した。

 黄河を遡上する船内で、王太守から洛陽の政情について話があった。「実は昨年第5代皇帝の殤(しょう)帝(てい)(2歳)が没し、元服前の安帝(あんてい)が13歳で即位されたばかりである。朝政を担っている鄧(とう)将軍は西域で反乱が勃発し、その鎮圧に奔走しているが大苦戦を強いられていて同席できない」とのことであった。

 翌日、怡土国王と那国王の紹介状を持って、3人の大夫(大臣)と共に安帝に朝貢した。

貢物は生口(研修生)160人の他にヒスイの勾玉と管玉の首飾り5連と、班布(さらさ)5丈(約10m)、干し鮑(あわび)5斤(約1Kg)だった。

 安帝と共に臨席した張太尉からは「生口160人には驚いたが、国王自らはるばる遠いところから貢献してくれて安帝は満足されている。生口は喜んで受け入れ、楽浪郡の王太守は必ずや我が国の進んだ技術を伝授してくれるだろう。また、貢ぎ物に答えて銅鏡、白絹等を見繕って賜う。また、硬貨をほしいままに賜うので、市中で欲するものを買って帰ればよい」、安帝からは「ご苦労であった。面上国の発展を願っている。今後も忠孝を尽くしてほしい」との言葉をいただいた。

 不安定な政情からか金印の下賜はなかったが、スイショウにとっては160人の研修生を受け入れてもらったことが何より嬉しくて、後漢国の寛容な国柄に感服するばかりであった。

 政情とは関係なく、洛陽の街の物と人の溢れるばかりの賑わいは想像を超えていて、スイショウは唯々呆然とするばかりであった。

(第4話) 第3章 ヒナコとスサオ  
 
  9歳を少し過ぎたヒナコは祖母のアヤカと二人で王城内の前国王スイ爺の館近くの竪穴住居に住んでいた。スイ爺の館は小じんまりした高床住居で部屋が明るいので、昼間は自由に出入りさせてもらっていて、食事も毎日いっしょだった。近くの煮炊きの堀立(柱の)小屋から炊事人が運んでくるのだ。
 1年前から毎日、午前中はスイ爺の住居で半分遊びながら論語を学んでいた。仲良しの一つ年上の祭祀太臣の娘アキナ(明菜)もいっしょだった。祭祀大臣も同じ日向の一族なのである。
 先生はスイ爺が伽耶国(狗奴韓国)から探してきた和語と漢語ができる通訳のキム(金・泰希)女史である。
若いキム先生が変な筑紫弁を使うと二人は転げまわって笑うのであった。
 「キム先生、筑紫の方言わかるとね?」
 「伽耶国にいる和人はほとんど筑紫人じゃけん、筑紫弁が和語じゃんね」
「ほら、ふてり(二人)とも次を始めちょるばい」
それを聞いてまた二人は笑い転げてなかなか先に進めない。
それでも、聡明な二人はこの一年間で数えきれないほどの「子曰く、―――」をおぼえてしまった。
「子曰く、学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずして憂みず、亦君子ならずや」¹。
「子曰く、巧言令色、鮮なし仁」。
「子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり」。
「子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず」。
「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」。
これらの金言の意味もすべて理解しているのである。

 午後になってもうすぐ8歳になるスサオが遊びに来た。スサオは王宮近くの住居で母のイナミと住んでいる。スサオは王城からひとりで外に出ることは禁じられていたが、王城内なら自由に遊びまわることができた。
「ヒナ姉(ねえ)、一緒に遊ぼー」
「何ばして遊ぶとねー」
「物見櫓(やぐら)に登りたかー」
「えっ?櫓?ばってん、櫓は危なかよ」
「ちゃんとしたはしごんあるけん大丈夫たい。櫓ん上から見る景色はすごかげなよ!」
スサオは、目を輝かせて言った。彼は好奇心旺盛で冒険好きな性格で、いつも無鉄砲であった。ヒナコは、どちらかと言えば慎重でおとなしい性格で、スサオの無茶な提案にはよく困らされていた。

「ばってん……櫓は高かろうが?落ちたらどげんすっとね?」
「大丈夫たい!俺(おり)が守ってやるけん!」
「そげん言ったっちゃ……」

ヒナコは不安そうに言ったが、スサオは聞く耳を持たなかった。彼はヒナコの手を引いて、櫓(やぐら)に向かって走り出した。

「来んね!ヒナ姉!楽しかばい!」
「ちょっと待たんね!スサオ!」

ヒナコは仕方なくスサオについて行った。二人は櫓に着くと、はしごを見上げた。
背丈の10倍以上もありそうだ。ヒナコは何度もやめたいと言ったが、スサオは聞かなかった。
仕方なくヒナコが先に登ることになった。
ヒナコは苦しそうだった。やっとはしごを登りきると、大人が3人ほど立てる、手すりのついた物見台に着いた。

「わぁ!すごか!」

スサオは感嘆の声を上げた。王城や王国の風景が一望できた。北の方は広々とした筑後平野の緑の田んぼと清水川とその先の矢部川も見晴らせた。ヒナコもつられて景色に見とれた。
「きれいかね……」
「だろー、俺はここが大好きばい」
「あっ!初めてじゃなかったつね?」
「えっへっへ」
西の方は畑や竹林の向こうに有明海と多良岳や島原半島が見渡せる。東から南の方には佐野山と筑肥山地の山並みが連なっている。

ヒナコはスサオの顔を見た。彼は真剣な表情で景色を眺めていた。

「スサオ……」
「ん?どげんしたつ?」
「……ありがとね。ここに連れてきてくれて」
「え?なんで?」
スサオは不思議そうに言った。ヒナコは笑って言った。
「ばってん(だって)、こげん素敵な景色ば見せてくれたんじゃもん」
「あっ、ヒナ、下ば見てみんね。王城ば上から見っとは初めてじゃなかね」
「そうたい!うっかりしとったばい!」

 王城は広い高台に築かれいて、周囲には先のとがった棒を埋め込んだ柵と内側に土塁がめぐらされていたが壕(ほり)はなかった。門(入口)は2か所で、門番の兵士の詰め所がある。王城の中央部に王宮と祭殿がならんでいて、奥に自分たち(国王とその一族)の住居が集まっていた。
中央南側には集会所とその奥に大臣たちの住居が集まっていた。中央北側は兵站用の高床倉庫と、生活用の食料や濁酒などを貯蔵する竪穴の屋根倉がずらりとならんでいた。
 また、北側の柵近くまでは蚕小屋、製糸、機織り、染色の小屋や勾玉などの手工業の小屋がずらりと並んでいた。南側には、池があって、その周りには田んぼや桑畑などがあった。
ヒナコとスサオは指さしながら、「あれがスイ爺の館じゃん」などとはしゃいでいたが、いつの間にか櫓の周りに人が集まってきていて、騒がしくなっていた。
 「こら、誰ね!子供はそこに登ったらでけんばい!危なかぞ!」
 「堪忍(かんにん)してくれんね!すぐ下りるけん!」スサオが叫ぶと、王子と姫だと知れて騒ぎはさらに大きくなった。
 「御子(おこ)たちね!ちょっと待っとって!莚(むしろ)ば取ってくるけん!じっとしとかんね!」
しばらくして、はしごの下に6人の大人が筵の端を引っ張って広げると、
 「よかよ、一人ずつゆっくり降りてこんね!」と叫んだ。
 スサオはさっさと下りてきて、筵に飛び込んでみんなの笑いを誘ったが、ヒナコは怖くて足は震えるし、下から貫頭衣の中のお尻を見られているんじゃないかと思うと、恥ずかしくて顔を真っ赤にしながらそろりそろりと下りてきた。
 無事下りきると拍手が起こったが、二人はお礼もそこそこに逃げ帰ってきた。  

 キム先生は通訳の仕事もしており、都合で学習が休みになったある日、ヒナコが一人でスイ爺の館に遊びにいくと、スイ爺が「上がって、ちょっと待っとらんね」と言って、奥の部屋から四角い箱を大事そうに持ってきた。 箱から取り出し、赤い布をひらくと水晶珠(だま)が現れた。
ヒナコはびっくりして、「うわぁ、きれいかね!」と言いながら、見とれていた。
 「こりは爺が国王になった時、お祝いに怡土国の前の国王に貰うた物(もん)たい。水晶ち言うて爺の名前ん由来ちなったつたい。こん国の宝物(たからもん)ばい」
 ヒナコはスイ爺の顔を見つめて次の言葉を待った。
「こりは中国の占いの道具の一つで、身ば清め、心ば無にしてじっとながむっと、ご神託の現るっとげなよ。」
 「へえー、鹿ん骨ん占いより面白かごたるね」
 「そうじゃろね。ばってん水晶占いばかリじゃなく、占いをすんなら難しか易(えき)ん本ば習わんといけんとよ」
 ヒナコは目を輝かせて、「勉強する、したかぁ」と叫んだ。
「そんなら、論語は卒業して、易経ば教えてもらうごつキム先生に頼のんでみゅうかね」
 「アキ姉も一緒でよかつね」
 「よか、よか」

櫓の一件のほとぼりが冷めた頃、スサオがまたヒナコを誘いに来た。
「ヒナ姉、一緒に遊ぼ-」
「今度は何ばしてあそぶとね」
「城んなか(内)ばっかりじゃ面白なかけん外に出かけてみんね」
「外に出るとは止められとっとじゃなかね?」
「一人じゃでけんばってん、二人ならよかつよ」
「ちょっと待って、スイ爺に聞いてくるけん」
「山さん入るなら、干し柿と鉈(なた)ば持って行けち言うて袋に入れて渡してくれたよ。この鉈は那国の前国王からいただいた物(もん)げな。自分の足ば切らんように用心せろげな」
 止められはしないかと心配していたスサオは、大喜びで布袋を受け取り、
「俺(おり)が道ば作ってやるけん、ついてこんね。さあ、行くばい」と張り切って裏門に向かった。
二人は王城の裏手にある山道を歩き始めた。山道は緑豊かで、いろんな鳥の声が聞こえてきた。ヒナコは道べりの花や木の実に興味を示したが、スサオは「もっとよかところんあるよ」と言って先に進んでいった。
やがて、二人は山間(やまあい)の谷川に出た。浅瀬には清らかな水が流れており、沢蟹(がね)がうようよ這い回っていた。何時だったか、スイ爺が砕いた沢蟹の塩漬けを食べていたことを思い出したスサオは干し柿と鉈をヒナコに預けて、布袋に沢蟹を捕まえて入れていった。
「スイ爺のお土産にするんだ」と面白いほどたくさん獲れた。
 ヒナコは水辺で石を拾ったり、冷たい水に足を浸けて干し柿をかじりながらスサオの蟹獲りをながめていた。袋がいっぱいになったので、蟹獲りをやめて、谷川沿いに歩き続けたが、そのうち道が分からなくなってしまった。       ヒナコは不安になって泣きそうになったが、弟は元気に「大丈夫だよ。帰れるよ」と言って励ました。
 二人が手をつないで歩いていると、突然、がさがさという音がして、少し離れた茂みから大きな猪(いのしし)があらわれた。二人は恐怖に震えて尻餅をついてしまったが、猪は二人の方に向かって突進してきた。絶対絶命のその時、2本の矢が飛んできて猪の首と胴に命中して、猪はばったり倒れた。  二人が驚いて顔を上げると、そこには王城の兵士が2人立っていた。兵士は二人を見て安堵した様子で、「姫様、王子様、無事で良かったばい。一緒に帰りまっしょ。ちょっと待ちょってくんさい」と言った。

弓を置いて、スサオから鉈を借りて、二人は藪を分け入って、木の棒と蔦を採ってきた。大猪の足を木の棒に括(くく)りつけて、二人で担ぐと「さあ帰ろうかね」と言って谷川を下っていった。
王城に無事に帰って兵士に礼を言うと、兵士の一人が前国王に頼まれていたことを明かした。
二人はスイ爺のところにいって、鉈を返し、お土産の沢蟹を渡してお礼を言った。
スイ爺は「沢蟹は大好物たい。これで飲む酒はうまかもんね。山は面白かったね?また出かける時は爺に言うてから行くとばい」と笑いながら言った。
ヒナコはその日から山に出かけることはなかったが、スサオとの冒険は忘れられない思い出となった。

友達のアキナは10歳になったので、日向渓谷(ダムができる前の日向神峡)の高取山の祭殿に預けられることになった。
山の中腹の祭殿は日向の一族や近隣諸国の王族や大臣の姫たちが巫女修行をする道場で、一緒に寝泊まりして修行に明け暮れるのだ。ヒナコもあと1年したら預けられることになっている。
 スイ爺の館ではヒナコ一人だけでキム先生から易経を習い始めた。本はスイ爺が若い時に前怡土国王から水晶と一緒にもらったものだが、何冊も積まれていた。
 キム先生は「ヒナちゃんにはちぃっと難しかかもしれんばってん、あたいも初めてで難しかとよ。あたいも頑張って勉強したけんね」と言ってから、「易経を読む前にざぁっと説明するね。まず、世の中や宇宙の動きというか、自然の決り(法則)を知らんと占いは出来んとよ。 易経によると、陰と陽という変化する二つの気があって、すべての物(万物)が生まれたり消えてしまう(生成消滅)といった変化はこの二つの気によって起こるとよ。陽と陰は、それぞれいろんなものに分けられるとたい。
例えば、光と闇、明と暗、剛と柔、火と水、夏と冬、昼と夜、動物と植物、男と女など。これらはけんか(相反)しながらも、一方がなければもう一方も存在できんとよ。、世の中(宇宙)のあらゆる物(森羅万象)は、陽と陰の気によってどうにでも(消長盛衰)なって、陽と陰の二つの気が仲良くなって(調和して)初めて良くなる(自然の秩序が保たれる)とよ。
易経は人々がいろんなことの動き(物事の変化)を予測するために使われるとよ。」

「今の説明でわかったね?」
ヒナコは目を輝かせながら言った。「わかったばい。インとヨウは女と男じゃね!」
「解り過ぎ!」と言って二人は大笑いした。

 「さあ、今日から少しずつ易経の本を読んでいこうね。易占いの「易経」を見る前に、ヒナちゃんは1年間論語を習ってきたから、孔子さまの作とも言われている「易経翼伝」の方から読んでいくよ。孔子さまはおじいちゃんになってから易経が大好きになったそうよ。こちらの本は本文を補足して、易の理論を分かり易く説明しとるとよ。」
と言いながら、「繋辞伝(上巻)」の本を取り出して開いた。
 キム先生は「この上巻は八卦(はっか)と六十四卦の起源と意義について書いてあるとよ。あたしが漢文を指しながら和語で読むから、ヒナちゃんは論語の時と同じように、暗唱してね。あんまり分らんでも、後で易経を読んだらわかるとたい。でも、難しか所はすぐ訊いてよかよ」と言って第1章から読み始めた。

「天は尊(たか)く地は卑(ひく)くして、乾(けん)坤(こん)定まる。」
ヒナコ「乾坤って?」
キム先生「易の言葉で天と地のことだけど後でもっと詳しい説明が出てくるよ」
「卑(ひ)高(こう)もって陳(つら)なりて、貴賤位(くらい)す。」
「動静常有り、剛柔断(さだ)まる。」
「方は類をもって聚(あつ)まり、物は羣(ぐん、)をもって分れて、吉凶生ず。」
「天に在りては象(かたち)を成し、地に在りては形を成して、変化見(あら)わる」
「象(かたち)って?」
「天の象(かたち)は日、月、星で、地の形は山川草木たい」

「是の故に剛柔相い摩(ま)し(ふれあい)、八卦相い盪(うご)く」
「八卦とは?」
「これも易占いの用語で乾坤など八つの掛の言葉があるとたい。」

この調子で読み続けて、第一章を終わると、
キム先生「第一章はこれでおしまい。ばってん、ちょっと難しかったので、明日は易占いについて説明するね」
  ヒナコ「わかった。頑張るばい」
 
 
 翌日はキム先生が「今日は外で教えるね」と言って、用意してきた、たくさんの竹を削った短い棒を土の上に広げた。どれもみな同じ形で、竹の表面が一本棒の「陽」で、裏側が中央部を削って溝を付けた二本棒の「陰」になっている。
 キム先生は細い竹の棒で地面に漢字を書き、陰陽の棒(爻(コウ))をきれいに並べてから、
「この爻ば上、中、下の3本組合わすっと、8種類の違う組合わせが出来っとよ。これが八卦(け)たい。」
「わかった。」
「☰乾(けん)(天)、☱兌(だ)(沢(たく))、☲離(り)(火)、☳震(しん)(雷)、☴巽(そん)(風)、☵坎(かん)(水)、☶艮(ごん)(山)、
☷坤(こん)(地)の八卦にはそれぞれ違った意味があっとたい。乾と坤は習ったろうが。」

「天と地じゃったね。」
「そうたい。他の卦の意味も後で本を見ながら詳しく教えるね。」

 【参考】

竹製爻

 
「次にこの八卦を二つ重ねて6層の爻にすると、64種類の卦が出来るとよ。これが易占いの卦で、この易経上伝、下伝で番号順にその意味を説明しとっとよ。」といって爻の棒を並べて見せた。

 
 【参考】
 ☷☷2.坤為地、☶(上)☷(下)23.山地剥、☵☷8.水地比、☴☷20.風地観、
☳☷16.雷地豫、☲☷35.火地晋、☱☷45.沢地萃、☰☷12.天地否、
☷☶15.地山謙、☶☶52.艮(ごん)為山、☵☶39.水山蹇(けん)、
☴☶53.風山漸(ぜん)、☳☶62.雷山小過、☲☶56.火山旅、☱☶31.沢山咸、☰☶33.天山遯、☷☵7.地水師、☶☵4.山水蒙、☵☵29.坎為水、
☴☵59.風水渙、☳☵40.雷水解、☲☵64.火水未(び)済、☱☵47.沢水困、
☰☵6.天水訟、☷☴、46.地風升、☶☴18.山風蠱(こ)、☵☴48.水風井(せい)、☴☴57.巽(そん)為風、☳☴32.雷風恒☲☴50.火風鼎(てい)、☱☴28.沢風大過、☰☴44.天風姤(こう)、☷☳24.地雷復、☶☳27.山雷頤(い)、
☵☳3.水雷屯(ちゅん)、☴☳42.風雷益、☳☳51.震為雷、
☲☳21.火雷噬嗑(ごう)、☱☳17.沢雷随、☰☳25.天雷无妄、
☷☲36.地火明夷、☶☲22.山火賁(ひ)、☵☲63.水火既済、☴☲37.風火家人、
☳☲55.雷火豊、☲☲30.離為火、☱☲49.沢火革、☰☲13.天火同人、
☷☱19.地沢臨、☶☱41.山沢損、☵☱60.水沢節、☴☱61.風沢中孚(ふ)、☳☱54.雷沢帰妹、☲☱38.火沢睽(けい)☱☱58.兌(だ)為沢、☰☱10.天沢履、☷☰11.地天泰、☶☰26.山天大畜、☵☰5.水天需、☴☰9.風天小畜、☳☰34.雷天大壮、☲☰14.火天大有、☱☰43.沢天夬、☰☰1.乾為天

 「六十四卦の意味は易経の本の「卦辞」で少しずつ覚えていくたい。それと、六爻は下から初爻・二爻・三爻・四爻・五爻・上爻と云ってそれぞれ意味があり、その一つを反転させた場合の変化も同時に「爻辞」として書かれているとよ。
易占いでは筮(ぜい)竹(竹ひご)を使って本卦と之(し)卦を決めるとばってん、方法はそんなに難しゅうなかけん、また竹ひごを作って持ってくるたい。」
 「わー、楽しみ!」

 このようにして、易経(上経、下経)と繋辞伝(上伝、下伝)を1年近くかけて習い、易占術と共に帝王学ともいえる聖人の心得を幼心に植え付けていったのである。

【参考】
繋辞上伝第七章
 子曰く、易は其れ至れるかな。夫れ易は、聖人の徳を崇(たか)くし業を広むる所以なり。知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に効(なら)い、卑きは地に法(のっと)る。天地位を設けて、易その中に行なわる。性を成し存すべきを存するは、道義の門なり。

同第十一章
 子曰く、それ易は何する者ぞ。それ易は物を開き務めを成し、天下の道を冒(おお)う。かくのごときのみなるものなり。この故に聖人はもって天下の志に通じ、もって天下の業を定め、もって天下の疑いを断ず。
ここをもって天の道を明らかにして、民の故を察し、ここに神物を興してもって民用に前(さき)だつ。聖人はこれをもって斉戒し、もってその徳を神明にするか。

 (この章の読み下し文は「易経を学ぼう(plala.or.jp/kigaku)」による。)

 (第5話) 第4章 ヒナコの巫女修行 に続く




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