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小説[山門国の女王伝]

あらすじ(300字)
ヒナコ(日向子)は面上国の王イザギと巫女出身の妃イナミの娘として母の里、筑後の日向の岩屋で皆既日食の日(158年)に生まれた。
太陽の子と言われながら前国王スイショウの館で育った後、巫女修行をして、15歳で面上国の斎主になった。いたずら好きの弟スサオは諸国を旅した後、自国の産業を発展させ国の勢力を広げた。友好国の間の争いが多くなると、ヒナコは連合国山門王国の女王に推されヒミコ(日神子)と改名された。イザギは引退し、スサオが面上国改め山門国の首長となった。連合国はヒミコの下で国家として機能し始め、安定した。即位50年後ヒミコは魏の明帝に朝貢の使節を派遣し、名実共に山門(やまと)国家の女王となった。

(第1話) まえがき

 郷土史家村山健治氏に初めてお会いして、著書[誰にも書けなかった邪馬台国]にサインをいただいたのは1982年正月だった。その時、労作のご本に感動して、「いつか小説にしてみたかですね」とほざいてから40年が過ぎてしまった。八十路の旅に出かけて恥もかき捨てられそうなので、残り少ない余生をかけて初の小説の執筆にトライしてみることにした。具体的には村山氏の著作も参考にしながら、調べ物はAIチャット(*)を利用して、魏志倭人伝の記述と記紀の神話をひもといて日本人の起源に迫っていきたい。
 始める前にパズル作家として魏志倭人伝の二つのパズルを解かなければならない。  
一つは投馬国と邪馬台国の位置の再確認である。
邪馬台国探しで第一の関門は不弥国から先が里程から日程に変わっていることである。このことが江戸時代以来諸学者や小説家、郷土史家など多くの人々を迷走させてきた。
このヒントは[その道里を計るにまさに会稽の東治の東にあるべし]である。つまり、時は三国時代、魏が呉を牽制するためには金印を授ける邪馬台国はできるだけ呉に近い南の方にあると思わせるトリックが必要だったのである。魏は蜀を抑えるため西隣の大月氏国にも[親魏大月氏王]の金印を授けている。
しかし、実際は沖縄近くでは困るのでどうにでも解釈できる表現を捻出している。[南至投馬国水行二十日]と不弥国の説明に続いて記してあるが、これまでの里程から日程に変わっているため、明らかに文章の変換点になっている。つまり、これから先の日程の出発地はわざわざ不弥国などに寄る必要はないので伊都国になる。
また、これまで「水行」はすべて海路を表しているので、陸の川の上り、下りは考えない方がよい。
では、西回りか東回りで海路だけで二十日間かかる、不弥国より南の方向(ただし、邪馬台国より北)の国はどこか。外海の場合は天候待ち、潮待ちしながらの地文(沿岸)航法で、第一、漕ぎ手の人数によっても変わるので、日程ほどあいまいな表現はないが、西回りは「海に描かれた邪馬台国」で田中卓先生が推奨された五島列島の福江島がある。しかし、距離が余りに近すぎるのと5万戸(これも投馬国を大きく見せるために邪馬台国と共に倍増している可能性がある)は半分でも対馬国や伊都国と比較しても無理がありそうだ。
東回りは伊都国から沿岸沿いに200㎞強の豊(とよ)の国(宇佐)が有力である。「理系脳で解く日本の古代史」の斎藤茂樹氏によると手漕ぎの丸木舟の速度は瀬戸内海で1日に10~30kmを予想されている。外海の場合は平均の速さを10㎞/日と予想してもおかしくない。ちなみに、古代の瀬戸内海の航路は10km毎に船宿があったそうである。
戸数は日田まで含めなくても十分であろう。それと、ここが女王国圏であれば倭人伝に記されている、東に1000里に別の倭人の国(四国)がある。
邪馬台国は伊都国から水行十日、または陸行一カ月と考えれば(志田不動麿氏説)、村山氏も比定されている山門(やまと)郡(筑後平野)がどんぴしゃりである。水行十日は先の田中卓先生が示された「大村湾から船越を経て有明海に抜けるルート」が秀逸で、矢部川の5mを超える潮の満ち引きを利用すれば王城の地近くの船小屋までそのまま着けるのである。
陸行(一カ月)は先に述べたトリックであって、帯方郡から邪馬台国までの総里程である万二千里から伊都国までの万五百里を引いた千五百里を、机上計算で「唐六典」による「一日の歩行数五十里」で割って30日(一カ月)としているのである。
実際に、奴国や不弥国を経由してから筑後川を上流(日田近く)まで迂回して、村山氏が実際に歩いて確認した尾根道のルートを測定してみると約120kmになる。ジャスト倭人伝の短里(80m)で千五百里である。従って、一日平均20kmで歩いたとしたら6日で邪馬台国に到着できる。トリックの種明かしは「唐六典」の一里は約450mだったのだ。
 もう一つのパズルは卑弥呼が西暦何年ころに生まれ、何歳で死亡したかである。
 邪馬台国の場所探しに気を取られ、多分、だれも気にしなかったかもしれないが、卑弥呼を書くには必要なのである。
 余談だが、私が見つけた年令考証を怠った例として、元外務省官僚であられた某氏の「卑弥呼の生涯」という長編歴史小説(現代日本文芸作家大賞受賞)がある。魏の明帝との恋が後年のクライマックスであるためか、西暦249年頃に49歳で死亡した設定になっているが、冒頭の197年夏に召集された隣国との抗争の作戦会議の主催者が卑弥呼王女となっていて計算が合わない。恋は盲目というが、せっかくの大作が残念である。
 年令に関するヒントは倭人伝に「その人(倭人)の寿考、あるいは百年、あるいは八九十年」、また、卑弥呼が王となった時「年すでに長大なるも夫婿なく」とある。当時の平均寿命は40歳前後(AI)なのになぜ八九十年なのだろう。
 私の推理では、朝貢した時、「女王は今何歳ですか」と聞かれ、使節(難升米)が「80歳過ぎくらい」と答えたので、忖度(そんたく)したのではないだろうか。卑弥呼が女王になって50年ほど経っているので、「すでに長大な年」は30歳前後だったのだ。
 したがって、生まれたのは159年前後、亡くなった年齢は90歳近くとなる。
 これも余談だが、卑弥呼が亡くなったと思われる247年または248年はどちらも(洛陽で)皆既日食があった年と重なるので、そのため霊力が衰えたとして王位を下ろされたとか、殺されたなどの著作が見られるが、90歳だと知っていればどうだっただろう。なお、2012年の国立天文台報によると、247年(3月24日)の皆既日食だけが北九州で可能性があり、近畿地区(奈良)は両年とも部分日食だったと推測されるそうである。

 (*)AIチャットはマイクロソフトBringを利用している。検索は出典を示してくれるので助かる(今までの小説家は資料集めが大変だったろうに)。小説や要約を「チャット」や「作成」で試してみたが和文を英文に訳して、回答も英文を和文に翻訳するためか、思い通りにならなくて(ヒナコとスサオを姉弟でなく恋人にしてしまうなど)、くどく訂正を求めると英文で断ってくる(一度答えてしまうと訂正できない?)。やり取りで遊ぶのは面白いが、創作は自分で書くべきであることがわかった(当たり前のことだが)。

(第2話) 第1章 ヒナコ誕生

九州は筑後平野の南端で、筑肥山地とぶつかる斜面の上の台地(旧・山門郡山川村野町面ノ上)に面上国の王城はある。王城のある野町は物々交換の市が立ち、ここから南へ原町、北の関、南関までは往来が多く、すれ違える幅(約2m)の道が整えられている。

道の東は佐野山(現・お牧山:標高405m)山系の山裾に、立山(たっちゃま)、赤山、日(ひ)当川(あてご)、待(ま)居川(てご)、佐野、谷(たん)軒(のき)、五位軒、青々(あおあお)、中原(なかばる)など、大小の集落が点在している。野町から西に向かうと、竹(たけ)飯(のい)から飯(は)江(え)川を渡って少し行くと有明海の海津(港)に着く。そこから南西に下ると黒崎海岸(現大牟田市)に至る。

北西の方へは面の坂を下って清水から清水川(現・大根川)を超えて、瀬高で矢部川に突き当たるので、少し遡ると船小屋に至る。


面上国の王イザギ(伊耶岐)は那国(奴国)の王族であったが、前国王スイショウ(帥升)が心酔する那国の前国王に懇願して後継ぎとして迎えたのであった。妃、イナミ(伊那美)は太陽を神として祭式を司る一族の巫女で、母アヤカ(阿夜可)が斎(いわい)主(ぬし)である面上国の祭殿に務めていたが、新国王イザギに見初められ、やや強引に妃にされたのであった。


イナミが懐妊して、お腹が目立ち始めた頃、アヤカから相談を受けた。

「お妃、出産が近づいとるけど、お産はどげんすっとね。一族の慣習じゃ矢部の日向(ひなた)に里帰りすっとばってんね」

「そうね。あたいも里帰りしたかばってん、王さんのどげん言わっしゃるか分からんもん」

「わしから聞いてみようか」

「いや、あたいが言うてみるけんよか」


後日、イナミから連絡があり、里帰りが決まった。

そうなると、アヤカは大忙しである。

女官長と祭祀部の大臣を呼んで、里帰りのお供の女官の人選と御輿の準備、担ぎ手の人選、道順などを至急手配するよう依頼した。自身は日向の一族の長(おさ)に産場や祈祷の祭壇、産婆の準備などを依頼した。


里帰りを数日後に控えた日に巫女の一人がアヤカのところに駆け込んできた。

「斎主しゃん、御輿の出来(でけ)たげな。祭殿の表に持って来とらっしゃるばんも」

「そげんね、出てみようかね」

祭祀大臣や大工の男衆が出来立ての御輿を囲んで集まっていた。

御輿は2本の長い乾燥孟宗竹の中央に、半割の竹を並べて座を固定し、四隅にこれも竹の柱を立てて屋根の骨組みを支えている。座には厚手の筵を敷いてその上に大きめの座布団が置かれている。座の両側には手すりがあり、屋根には日よけの簾が垂らしてある。

アヤカは「うあー、良か御輿の出来(でけ)たね。ちょっと、乗せてもろうてよかね」

と言いながら座布団にちょこんと座ってしまった。

担ぎ手の男衆が「ほんなら、担がせてもらいまっしょうか」と4人で担ぎ上げた。

「どげんね、重かね」

「思うたより軽か」「重なか」「いっちょん(少しも)重なか」と言いながら一回り担いで歩いた。

アヤカが下りてから、大臣が「ほんなら8人で交代で担いでよかか」というと、皆「よか、よか」と口をそろえた。

一段落して、アヤカが大臣に尋ねた。

「道順は決まったね」

「あい、山越えが近かばってん、御輿じゃちょっと無理のごたるけん、東山の山沿いを本吉を通って矢部川に突き当たると、川沿いを黒木まで歩き一泊しますたい。あくる日は矢部川沿いの木曳道を遡(さかのぼ)って矢部の日向(ひなた)に向かいますばい」

「清水川の橋はどげんね」

「梅雨時の大雨で流されてしもうたばってん、新しか丸木ば組んで、土を固めとるけん大丈夫ですたい」

「そんなら安心たい。途中の休み処もちゃんと頼んどってね」

「はい、そげんしとりますばい」


里帰り当日は早朝に宮殿前の広場に祭祀大臣と官史2人、道案内人2人と御輿担ぎ衆8人、護衛の兵士4人、荷物担ぎの下人数人があつまっていた。そこに斎主アヤカと巫女2人、女官長と女官2人に付き添われたイナミ妃が現れた。また、見送りのイザギ王はじめ数十人の大臣や官史たちもぞくぞくと集まってきた。

全員が揃ったところで、イナミ妃が御輿に乗り込み、30人近くの行列が出発した。どの顔もみな晴れやかで、浮き浮きとしていた。

行列は河原内まで坂をゆっくりと下り、次の休憩点、本吉に向かってにぎやかに進んでいった。珍しい大行列に、沿道には数日前からの道の整備の折に聞いたのか、大勢の村人が道の両側に座って手をたたいて見送った。本吉で一服した後、担ぎ手が代わり、矢部川と突き当たる唐尾に着くと持参の握り飯と飲み水が配られ、木陰で三々五々にぎやかに昼食を取った。

7月の川沿いの田んぼには青々とした稲が伸びて、渡る風が心地よかった。

食事が終わると、そこからは川沿いに、途中一度休憩を取って、まだ、陽の高いうちに今日の宿泊地である黒木(後世の黒木瞳の出身地)に着いた。

黒木は交換市が立つ大きな集落で、各地から来た商人たちの宿屋もある。一行が到着すると、邑(むら)長(おさ)や役人、大尽など多くの人々に出迎えられた。

イナミ妃とアヤカは邑長の家に迎えられた。夕方、湯浴みの後で歓迎の宴会になったが、二人は早めに切り上げて寝所に入ってゆっくりくつろいだ。

「お妃、体ん具合はどげんね」

「長か時間揺すられたけん心配したばってん、どげんなかったごたる」

「そらよかったたい。今夜は早よ寝ろたい」

「お母(っか)さん、二人だけん時、聞きたか事(こつ)んあっとよ」

「何ね」

「あたいの本当のお父(と)っあんな誰ね」

「いつか話さんじゃったかね。お日さんたい。春先に渓谷(たに)の滝に打たれた後、水ん冷たかったけん裸んまま岩に寝そべって温めとったら眠ってしもうとったたい。目が覚めたら仰向けになっとってお日さんに曝らされとったたい。だけんお前のお父っあんはお日さんに間違いなか」

イナミは笑いながら「そん話は小まか時から知っとった。巫女になったけん都合んよかったばってん、本当はどげんじゃったとね。男ん人と寝た事(こつ)はなかったとね。」

「そら、斎主になる前は旅のえらか人ん相手ばさせられたり、夜這いされた事もあったばってん、名乗らっしゃらんと誰かわからんとたい。じゃけんお日さんにしとってくれんね」

「スイ爺(じい)(前国王)が時々来よらしたけど、関係なかとね」

「あんお人は冬の寒か時なんかに、温まらせてくれんねち言うて布団に入って来よらしたばってん、何もなったとよ。スイ爺も父親になってやってもよかち言いよらしたよ」

「もう、妃になったけん父親はいらんよ。ようわかった。お母さん、話してくれてありがとう。なんだかすきっとした。もう寝ようか」

「そうね、おやすみ」


翌朝も早立ちで、邑の人たちに見送られながら全員そろって矢部川沿いの道を歩き出した。途中、支流が合流するところは川幅が狭いと丸木橋であるが、少し広いと筏(いかだ)を浮かべて杭で固定しているのだが、不安定なので、お妃には御輿を降りてもらって、二人の担ぎ手に両側から抱えてもらって渡った。

道のそばの木陰のある原っぱでお昼をとったが、黒木の人たちからいただいた握り飯や栃餅を皆美味しそうに頬張っていた。ご飯が済んだ頃、川上から木曳きの一行が大きな声を掛け合いながらやってきた。実は一行が通る間は木曳きをやめようかと相談を受けていたのだが、お妃はじめ誰も見たことがないので見てみたいと依頼していたのだ。

材木は直径2m近くで長さは優に10mはある、大型の丸木船用と思われるタブの木か楠木の大木である。前側と後ろ側を撚った太い蔦でくくり、長い両端を川の両岸の数人の曳き手が持って引っ張っている。長い竿を持った頭(かしら)は材木の先頭に乗って舵を取りながら号令をかけている。この勇壮な光景を邪魔にならない所から見物している一行は皆「すごかー」、「すごかねー」と感嘆の声を上げてよろこんでいた。

午後は思ったより長い道のりで、途中2度休憩して日向の里に到着したのは夕暮れ近くであった。日向の里は後世に市町村制がしかれた時、日本一人口の少ない村と言われた矢部村の奥に、稲作と太陽を信仰する一族がひっそりと暮らす隠れ里である。

一行は黒木に比べたら簡素な歓迎であったが、温かく迎えられた。

数日後(西暦158年7月13日)、日向の岩屋[現:神の窟(いわや)(高さ8m、幅30m、奥行き9m)]の一画に万幕が張られ、その中でイナミは陣痛に耐えながらイザギから贈られた銅鏡をしっかり握っていた。その鏡は後漢の光武帝から那国王に授けられた神獣鏡の一つであった。万幕の前には祭壇が設けられ、国王の第一子の安産の儀式が斎主アヤカにより行われていた。その日は晴天の暑い日で、太陽がまぶしく輝いていたが、お産は長引いていた。万幕になかでは、儀式を済ませたアヤカと産婆がイナミの体を擦り乍ら励ましていた。夕方近くになるとなぜかいつもより早く空が次第に暗くなってきた。西の空を見ると赤い太陽が少しずつ黒く欠けていき、ついには太陽が真っ黒になってしまった。生誕を見守っていた邑(むら)長(おさ)や邑人たち、王城関係者は皆仰天して大騒ぎになった。

「お日さんが死んしゃった!この世の終わりじゃ!」

「祟りじゃなかろうか!」

数分経って、甲(かん)高い赤子(ややこ)の泣き声が響き渡り、その後、少しずつ明るくなってくると、群衆は静かになった。真っ赤な夕陽が少しずつ大きくなり、真ん丸になって山の端に沈んでいくと大歓声が沸き起こった。

 「お日さんが生き返った!赤子のおかげじゃ!」

 「お日さんの申し子じゃ!めでたか!」

 しばらくすると村人の数人が手に手に火手(ほて)(松明(たいまつ))持って現れた。この時期に行われる予定だった虫送り(虫追い)行事がお産騒ぎで延びていたのだ。数人が火手をかざして、「めでたか!」、「おめでたか!」と叫びながら田んぼの畦道を回り始めると、残りの邑人たちも火手を取ってきて続々と後を追っていった。薄暗くなった田んぼを照らしながら点々と続く火の行列は、王城の人々の郷愁を誘う夏の風物詩であった。

 虫送りを終えた人々は岩屋の前の広場に帰ってきて、火手を集めて大きな焚火をつくって囲んだ。串刺しの焼き鮎を肴に王様から振舞われた口噛み濁酒を飲んで、夜遅くまで歌って、踊って「陽(ひ)の王女」の誕生を祝った。

 イナミ妃が元気になって王城に帰ってから、斎主にヒルメ(日霊女)と名前を付けてもらったが、世間では口伝えに生誕秘話が評判になっていて、誰がつけたのかヒナコ(日向子)姫が通り名になっていた。   

翌年の稲穂がたわわに実ったころにはスサオ(須佐男)王子が誕生して、姉弟はすくすくと育っていった。


(第3話) 第2章 スイ爺の大冒険


 面上国の前国王スイ爺(スイショウ)は西暦107年に後漢の安帝に朝貢したことで名が知られていたが、友好国の那国や怡土国を通じての中国(楽浪郡)や朝鮮半島との交易に熱心で、鉄などの物品や船大工の技術などの導入を進め、急速に国力を大きくしていた。

 元々は有明海を漁場とする海人族を多く抱えていて、彼らが海産物との物々交換のルートを持っていたこと、丸木船に適したタブの木や楠木、杉などの大木を産出する肥筑山地の山々を抱えていたこと、肥沃で広い筑後平野で良質の米の生産量が多いことなどから那国や怡土国などの友好国や、対馬などの島々に木材や丸木舟や米などを供給していたのである。

 スイ爺が国王の座に就いたのは、父親が急死した関係で19歳の時だった。最初は戸惑ったが、喪が明けた頃には政務を引き継いでくれていた重臣たちとも打ち解けていた。その重臣たちに、「葬儀の時に会った、父親が親しくしていた怡土国や那国の国王にもう一度会っていろいろ相談したい」と話したら、「今、怡土国駐在員が帰っとって、怡土国で新しく建造する準構造船の木材に関して、関係大臣たちが出張するけん、王様もご一緒されて、怡土国王や那国王にお会いになって葬儀参列のお礼も述べられたらどげんでっしょか」と恰好の話が返ってきたので、若いスイ爺は大喜びで、手はずを整えるよう伝えた。

 前国王の大塚も出来上がり、随行の人員など準備が整ったので出立することになった。大型の丸木舟2隻で、漕ぎ手を除くと20人の一行となった。朝方の満潮の日を待って、引き潮に乗って船小屋から矢部川を一気に下り、有明海を対岸の多良岳を目印に20㎞余りを横断して、大浦に着く。そこから海岸を少し南下して本明川の河口の長田で潮が満ちてくるのを待つ。満潮に乗って諫早の船越まで遡ったら、船をそこにおいて陸路を数百メートル歩くことになる。小船越では怡土国が用意してくれた準構造船が待っていた。陸路を土産物などの荷物を運んでくれた16人の漕ぎ手はそこで引き返していった。

怡土国の船は大村湾から針尾瀬戸(現:西海橋)、佐世保湾、平戸の瀬戸を抜けて、松浦の海岸を伝って怡土国に到着した。途中、夕方になると舟を岸につけて、翌朝明るくなって出発した。船小屋を出発してから陸に上がって泊ったのは大浦、長田、小船越、大村、佐世保、平戸、唐津などで船小屋から水行十日かかっている。

 怡土国では国王はじめ重臣たちに丁重に迎えられた。若いスイ爺は恐縮していたが、面上国はあくまでも友好国の盟主として扱われた。歓迎の宴席で、怡土国王から今後の抱負を聞かれたスイ爺は、少し酒の酔いが回っていたこともあって、とっさに「奴国の前国王のように、後漢に朝貢したか。できれば自分が直接洛陽に行きたか」と言ってしまった。

 国王はちょっと驚いた様子だったが、「それはよか考えですばい。ぜひ、実現してくだっしゃれ。私は楽浪郡の王(ワン)太守とも話ができるけん、全面的に協力しますばい」と賛同してくれた。

「ところで、朝貢するにはお名前が要りますばってん、王様のお名前は何ち言われますか」

「小さか時は王子や御(お)子で、国王になったら王さまで、名前はなかとです」

「そうですか。少しお待ちください」と言って、国王は席を立っていった。

しばらくすると、両手で小さな四角い包みをもって帰ってきた。

「これは即位のお祝いの献上しようと用意していたもんですたい」といいながら、包みをほどいて中の木箱のふたをあけた。取り出して真っ赤な絹の布をひらくと真ん丸な透き通った玉があらわれた。思わずスイ爺が「おおっ」と声を上げるほど見事な美しさであった。

「これはスイショウ(水晶)ち言う硬い石ですたい。楽浪郡の太守からの頂きもんじゃが、なんでも太守の先祖が漢の武帝から下賜された由緒あるもんげな。本来は占いに使うもんらしかばってん、玉の中に剣の模様があり、これを持った人は戦いに負けたこつがなかげなですたい」

「うわー、そげん大事かもんを手放してよかとですか」

「私の国は商売中心で、戦争はしまっせんので、王さまが持って、私どもを守ってくだされ。それで、王さまのお名前ですけど、スイショウと名乗られてはどげんでしょか」

「国王が名づけ親ならありがたか。喜んで頂戴しますばい。それと、このお宝は我が国の国宝にさせてもらいますばい。ありがたかー」

「国宝でもよかばってん、スイショウ王が見込んだ巫女が現れたなら、国を助ける占いに使ったらよかですたい。易の書物もあるけん差し上げますたい]

その後二人は打ち解けて、亡き国王とのことや楽浪郡の出来事などいろいろな話をしてくれた。 

 翌日の新しい大型準構造船の商談にもスイショウは陪席して、積極的に話に加わった。

話の主題は、従来は丸太を購入して怡土国で制作していたが、丸太の運搬が大変なので、面上国の川の近くに準構造船専用の工場を立てて制作できないか、設備や工作道具、造船の技術者や熟練の船大工は怡土国から派遣してもよいとのことだった。国王がいるだけに、話はすぐにまとまり、今後のスケジュールは担当大臣どうしで打ち合わせることになった。

昨日の思いつきがすぐに実現しそうで、スイショウは自国で造った大型船を連ねて、後漢を訪問する姿を想像して、夢見心地であった。

翌日、造船関係者を残して、怡土国王に別れを告げ、一行は那国に徒歩で向かった。

那国王もスイショウを我が子を迎えるように歓迎してくれた。父の葬儀に列席してもらったお礼を言った後、後漢朝貢の話を持ちだすと、国王は父上の前国王や当時の使節から聞いた話をいろいろと話してくれた。

 「あれからもう50年近くになっとやね。当時は国が百国くらいに分かれとって、競って朝貢しとったげなばってん、皆、楽浪郡までで、洛陽まで行って光武帝に会ったのは初めてじゃったげな。紫綬金印を授かるのも初めてじゃったげな」

 「あの金印は王様と一緒に埋葬したとですか」

 「いや、有っとよ、見てみるね」と言って、さりげなく隣の部屋から持ってきて、スイショウの前で金糸の刺繡の施された袱紗(ふくさ)を広げられると金色に輝く紫綬印章があらわれた。息をのんで見つめていると、手に取って渡してくれた。小さいいながらずしりと重い。紫色の紐が通されたつまみはよく見ると蛇で、印面は3行2段に初めて見る字体がきれいに刻まれている。「何ち書いてあるとですか」と尋ねると、国王は指をあてながら「2文字分にこれが「漢」で、「委」の「奴」、「国王」ちなっとるですたい」と教えてくれた。「きれいかですね。貴国(おくに)のお宝ですたい。ありがとさん」と言いながら返した。国王も「よかもんでっしょ。貴国も貰って来なはれ」と言いながらほほえんでいた。

 翌日は午前中、鞴(ふいご)(風入れ)の造りなど鍛冶場を見せてもらって、一振りの柄と鞘のついた鉈(なた)をお土産にもらって帰途についた。

次の訪問国は宇美国で、帰路は徒歩で、葬儀に参列してもらった行路近くの国に立ち寄りながら帰ることにしていた。復路の主な国は宇美国の後、鳥栖国(吉野ヶ里)、朝倉国、日田国で、矢部邑に1泊して山越えで王城に帰る6泊7日の陸行となった。


 それから一年後、スイショウは国事にも慣れてきたので、いよいよ漢国への朝貢の準備に取り掛かることにした。まず、国内のあらゆる職種から若者を中心に最低2年間の留学研修生をできるだけ多く募集するよう関係大臣たちに申し渡した。


[工業]大臣;青銅、鉄による農具、大工道具や木造船(切断、加工技術)、兵器などの最新の製造方法

[建設]大臣;木造船(切断、加工技術)、運搬、家屋建築、土木(河川、道路、橋)技術、

[農林]大臣;稲作、畑作、果樹、養蚕(桑作)、綿花、植林などの栽培技術

[水産]大臣;水産、漁労方法(網など)

[手工業]大臣;製糸(麻、綿、絹)、機織り(はたおり)、染色(班布(さらさ))、縫製技術や勾玉、管玉、宝飾品の製造技術、陶器、石工、木工など、

[商業]大臣;商取引(通貨)など

[兵站]大臣;兵器、兵糧など

[祭祀]大臣;暦日、天文、易学

他に[兵部]将軍、[検察]長官、[外交]大臣、斎主、女官長など。 


各部門からの希望者の人数は300人を超えてしまったので、既婚者は除くなどとりあえず半数近くに絞ることにした。上記の重臣たちが集まって調整した結果、160人が選ばれた。

 この人数を怡土国駐在員に朝貢の主旨と共に伝え、怡土国王を通じて楽浪郡の太守に伺いをたててもらったところ、本国に帰って検討するので、しばらく待つようにとのことだった。

 1月ほど過ぎて返事が届いた。「国王が直接朝貢することに安帝は満足されている。生口の人数が多すぎるが、楽浪郡でも中国の最新技術を研修できるので全員郡で受け入れる。洛陽には国王と随員のみとし、王太守が案内する」とのことだった。

 スイショウは大喜びで、さっそくお礼の返答と、随行員の人選や船団、貢物などについて、怡土国に相談してまとめるように命じた。


 西暦107年(安帝永初元年)9月中頃には準備万端整った。斎(いわい)主(ぬし)からのご神託では10月10日以後であれば、大風(台風)や大雨の心配はないとのことだったので、10月10日に6隻の大型準構造船を怡土国から廻してもらい、怡土国の大臣に楽浪郡まで同行して案内してもらうことになった。

いよいよ出発である。航路は有明海を横切って島原国に一泊し、首長から祝宴をしてもらった。翌日は島原湾を通って日本海に抜け、五島列島の福江国に着く。ここでも首長の祝宴を受けた。ここから対馬海流に乗って対馬国に着き、一泊して大官の接待を受けた。対馬から伽耶国(倭領狗邪韓国)に着き、一泊する。ここでも大官の挨拶を受け、駐在員を慰労した。そこから馬韓の沿岸を、途中の港で一泊して楽浪郡に無事に到着した。。ここでは到着した日に王(ワン)太守から怡土国と自国の大臣たちと共に歓迎の宴を設けてもらい、通訳を通して歓談した。翌日は研修員の派遣先の中から養蚕場と製糸場、さらに製鉄鍛冶場や造船所を案内してもらい、その後160人の研修員に激励の言葉をかけた。研修員たちは皆目を輝かせて期待に満ちた表情をしていた。スイショウも自分の思いつきが間違っていなかったと満足であった。

乗ってきた準構造船は1隻だけ残してもらい、残りの5隻は怡土国の大臣や官たちの差配で、楽浪郡や弁韓、伽耶国から鉄てい(鉄材)や鉄製品などの荷を積んで帰るそうであった。

 2泊した楽浪郡からは王(ワン)太守の案内で、群の大型外洋船に乗って黄海、渤海を渡り、黄河を遡って洛陽に到着した。

 黄河を遡上する船内で、王太守から洛陽の政情について話があった。「実は昨年第5代皇帝の殤(しょう)帝(てい)(2歳)が没し、元服前の安帝(あんてい)が13歳で即位されたばかりである。朝政を担っている鄧(とう)将軍は西域で反乱が勃発し、その鎮圧に奔走しているが大苦戦を強いられていて同席できない」とのことであった。

 翌日、怡土国王と那国王の紹介状を持って、3人の大夫(大臣)と共に安帝に朝貢した。

貢物は生口(研修生)160人の他にヒスイの勾玉と管玉の首飾り5連と、班布(さらさ)5丈(約10m)、干し鮑(あわび)5斤(約1Kg)だった。

 安帝と共に臨席した張太尉からは「生口160人には驚いたが、国王自らはるばる遠いところから貢献してくれて安帝は満足されている。生口は喜んで受け入れ、楽浪郡の王太守は必ずや我が国の進んだ技術を伝授してくれるだろう。また、貢ぎ物に答えて銅鏡、白絹等を見繕って賜う。また、硬貨をほしいままに賜うので、市中で欲するものを買って帰ればよい」、安帝からは「ご苦労であった。面上国の発展を願っている。今後も忠孝を尽くしてほしい」との言葉をいただいた。

 不安定な政情からか金印の下賜はなかったが、スイショウにとっては160人の研修生を受け入れてもらったことが何より嬉しくて、後漢国の寛容な国柄に感服するばかりであった。

 政情とは関係なく、洛陽の街の物と人の溢れるばかりの賑わいは想像を超えていて、スイショウは唯々呆然とするばかりであった。

(第4話) 第3章 ヒナコとスサオ に続く





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