見出し画像

次男が産まれて思うこと

先日9/24に次男が産まれた.
コロナの影響で立ち会い,面会禁止で寂しいものだった.
ただ,出産というのは長男のときもそうだったが,嬉しさとともに身が締まる思いになるものだ.
自分のキャリアを考えた時に,家族のことはおざなりにできない.
博士課程1年のときに第2子が産まれるこのタイミングで,今考えることを書いておきたい.
愛知から広島へと帰る新幹線で書きなぐっている.

30歳で病院を辞め修士課程へ

私は30歳になる年に7年勤めた病院を退職し大学院修士課程に進学した.
私の中では一種の挑戦だった.(年収500万円程度,30歳で勤めていたら
妻と合わせて年収1000万円世帯だっただろう.悪くない.)
それとほぼ同じタイミングで結婚し,修士課程1年次には長男が産まれた.
大学院は広島だったので,愛知から広島へと引越した.
縁もゆかりも仕事も何もないところからのスタートだった.
自分は研究室やクリニックなどのコミュニティがあったが,妻は何もない.
ちなみに新婚旅行にも行っていない.
妻は,「広島がちょっと長い新婚旅行みたいなものだね」と笑ってくれる.
少しの罪滅ぼしの気持ちもあって,結婚指輪はハリー・ウィンストンで揃えた.銀座の本店でというのもポイントの一つだ.
NYの本店で磨いてもらうのが夢の一つだ.我ながらなかなかいい夢だ.

話がそれたが,妻に心身ともに苦労をかけていることは想像に容易い.

早稲田大学博士課程に進学

そんな苦労もわかっていながら,博士課程に進学した.
ベルギーの学会に参加し,帰ってきたら志望先は早稲田大学になっていた.えっ,という妻の反応が忘れられない.
これまでの,これまで以上の苦労が自動的についてくる.
しかも修士のように,2年間一定の努力をすれば与えられるものとは違う.
成果を残さないと修了できない.先のみえないプレッシャーとも闘う.
ちなみに「修士号は努力賞だ.博士は別ものだ」と教わった.
修士号をディスってるわけではない.
それほどまでに博士号というものは一線を画すものなのだろう.
今は肌身で感じる.賢い人はいくらでもいる.博士の壁はかなり高い.
博士の方に対する尊敬の念がやまない.

息子たちがプレッシャーを与えてくれる

30歳の修士1年目でうまれた長男は今,2歳.
博士課程での研究が順当に進み,2年後に無事修了できたとして私は34歳.長男は4歳.
長男が小学校に入るまでには定住したい気持ちがある.
7歳で小学校に入学するとして修了後2年の猶予?がある.
ここでもう一度挑戦してみたい.内容は未定だ.

いい意味で息子たちがプレッシャーを与えてくれる.
僕たちおおきくなっちゃうよって.
実際,お金がかかるのは小学校からと言われた.
もっと大きな視野でみれば中学校,高校かららしい.
ただ,一番かかるのはやはり大学.(もちろん行きたくないなら行かなくていいが)
お金のかかる頃には,不自由なく選択の幅を狭めないようにしてあげたい.
自分が親にそうしてもらったように.
それが今のモチベーションの一つでもある.

これだけは言いたくない

結婚したから,こどもが生まれたから,〇〇できないとは言いたくなかった.
将来,「お母さんと結婚したから,転職するのやめたんだよ」とか,「お父さんな,君たちが生まれたから大学院に行くのを諦めたんだよ」とか,言いたくなかったし考えたくもなかった.言い訳・理由につかわれるのも嫌だろうし,何より自分がそれだけは嫌だった.
改めて思う,どうやったらできるかを考えようと.

ドリームサポーターでありたい

ドリームキラーという言葉がある.直訳すると夢を殺す人,だ.
夢を語ると「それはやめておけ」という人たちをそう呼ぶ.
案外身近にいて,親だったり同僚・友人であったりすることがある.むしろ多い.
夢を叶えてほしくない,成功してほしくないのだ
成功されるとコンフォートゾーンにいる自分が不安になるのだ.

家族にとってのドリームキラーにはなりたくないと思っている.
ドリームキラーでなくドリームサポーター,挑戦したい時に後押しをしてあげられる存在でありたい.
自分が今後どういったキャリアを描こうとも,子どもたちのサポートはしてあげたい.まだまだ道半ばだが,自分は挑戦させてもらっているのだから.

実際に言われることだが,
「森戸に相談すると挑戦しろって言われるから気をつけろよー」って.
否定はしない.
挑戦したことがない人は,人に挑戦しなさいとはなかなか言えないものなのだ.

尊敬する人は両親だと言うようになった

尊敬している人は誰かと聞かれると,親だ,と言うようになった.
昔は歴史上の偉人の名前を言うとカッコいいなんて考えていたが,
年を重ねるごとに心から両親を尊敬するようになった.
子を持つと親の偉大さがわかるとは,本当にその通りだ.

私は3人兄妹で3つずつ年が離れている.ということは受験・入学が重なるということだ.
私は公立高校へ進学した時,姉は私立大学,妹は私立の中学校に進学した.
3年後,私は私立の大学(岐阜),妹はそのまま私立の高校へ
3年後,私は私立の大学4年生,妹は私立の大学(神奈川・青森)へ

大学生の時に試算したことがある.
私の学費が180万円/年,妹の学費も同等しかも妹は仕送りつき…
ざっとそれだけで500万円.
自分が親になった時にこの支払いができるか?と
年収だけが全てではないが,父親の年収は必ず超えたいし,息子に尊敬されうる父親になりたい.
30年後,親父を超えたいと思われる親父になりたい.と思う.
(最終的には子の自由だが)

母親は結構ふくよかな体つきで,変形性膝関節症を患った.(noteで醸して申し訳ない)
周りには理学療法士がいるクリニックや腕のいい治療院もあまりなく,
医師からは「やせるしかない」と言われたそうだ.
そこから知識を習得し,サロンに通って?確かにやせた.そして膝の痛みもなくなった.(PTとして考えさせられることもある…)
それらのノウハウを活かして50歳にして仕事を辞め,起業した.
今はサロンのオーナーとしてやりたいことをやっているようだ.

起業して自分の店を開くのは母の夢だったらしい.
そのサロンの建物・内装代は父が支払った.
母の夢をサポートする父親の姿,逆もしかり.こんな夫婦のあり方に惹かれた.

今では,息子が生まれ,博士課程に進み,やりたいことをやりたいだけさせてもらっている.こんな幸せなことがあるだろうか.

もう少し,もう少し落ち着いたら,少し遅めの新婚旅行に行きたい.
今度は国外だ.

幸せとはなにかと考えたくなる

この一ヶ月,里帰りのために長男と妻と離れて暮らした.
一ヶ月ぶりに会った長男は,話せる言葉も表現も増えていて,かなり成長していた.
嬉しかった反面,こんな大事な時期に一緒にいれないことが.寂しかった.

研究やキャリア,収入.もちろん大事なのだが,
久しぶりに家族と過ごした時間はそれらに代えられないくらい幸せなものだった.幸せとはなにかって問いにいきつく.

何かを得たから幸せってわけではない.きっと博士号も.
挑戦には終わりはないし,
挑戦しているまさに「今」が幸せだ.

自分の幸せの価値観には家族というものが並行して存在するから
家族との幸せを感じられた「今」はさらに幸せだ.


恥ずかしくなって消すかもしれない.
最後はのろけてしまったが,自分を内省できていい時間だった.

今から研究室に行って学会発表のスライドをつくる.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?