バリアフリー小史(4)2 身体障害者の公共交通利用権獲得運動小史

2.1 1970年代の生活圏拡大運動

 1970年頃から、各地で身体障害者等の「生活圏拡大運動」が取り組まれるようになった。

 これは、障害者団体等が一致して取り組んだわけではなく、さまざまな人々が個人あるいは少人数で、いわば自然発生的に進められたものがほとんどである。

 たとえば、宮城県仙台市では、ソーシャルワーカーと学生ボランティアらが生活圏拡張運動の中心的な役割を果たしたことが知られている。また、東京都内では、東京都技能開発学院の学生を中心とした人々が関東地方の私鉄の設備改善交渉を行った。また、大阪市、京都市の地下鉄では「誰でも乗れる地下鉄にする運動」が取り組まれ、既存駅へのエレベーター導入が進められた。このほかにも、たとえば駅単位のエレベーター設置運動、歩道橋や地下道などの設置反対運動などが各地で取組まれていたことが伝えられている。ただし、それらの運動が相互に交流して全国組織になったり、運動の成果が網羅的に記録されているわけではない。そのため名称だけは伝えられていても具体的な運動が不明であったり、そもそも運動があったことも忘れられてしまう事例も出てきている。また、ある象徴的な出来事が説明不十分に伝えられて誤解を生じたり過大あるいは過小な評価を受けている場合もある。

 本章では、身体障害者による公共交通機関利用に関する運動を、便宜的に「利用者による「直接行動」」、「広範な市民運動」、「法廷闘争」の3種に分類して概説する。もちろん、これはそれぞれが独立しているわけではなく、また、どれが「高度」であるということでもない。なお、1970年代以降の主な運動については不十分なものではあるが別表を参照されたい。

 

2.2 利用者による「直接行動」

 1970年代から、多くの障害者が公共交通機関を利用しようとし、そして拒絶されることで直接行動をとることが多くなったとされている。

 たとえば、1973年には小田急電鉄をはじめ関東地方の私鉄で、車いす利用者が単独で電車に乗車することを認めさせる運動が取り組まれた。これは、小田急線千歳船橋駅で車いす利用者が乗車拒否に遭い、その後車いす利用者に介護人をつけるよう求める掲示がされたことを発端にした運動である。この利用者は、小田急電鉄をはじめ関東地方の大手私鉄と日本民営鉄道協会に要望書を送付するとともに、デモや署名活動も行った。その結果、日本民営鉄道協会は「協会としては、身障者のための問題に取り組んでいる。小田急をはじめとする私鉄に要望の趣旨を伝え、実現に努力する」旨回答した。また、当事者の小田急電鉄も「全線・全駅にわたり、車いすひとり乗車を認める。当分は駅員の助力によって手伝うが、その一方で施設改善を急ぐ」とした。現在も、小田急線をはじめとする関東地区大手私鉄のいくつかの駅には、一般の改札口とは別に、ホームから直接街路に出られる斜路等を備える駅があるが、エレベーター等の普及とともに廃止、撤去されている。

 当事者による直接行動で最も知られているものは、日本脳性マヒ者協会青い芝の会(以下「青い芝の会」と略す)による川崎市内の路線バス乗車運動である。1977年4月12日に、青い芝の会の会員約100人が国鉄(当時)川崎駅前のバスターミナルのバス28台に一斉に乗り込み「運転しろ」と要求したことから、午後1時からほぼ終日運行が混乱したというものである。これは、1976年に川崎市内に青い芝の会の事務所が設けられ車椅子利用者の乗車機会が増加したところ、12月1日に一方的に車いすから通常座席に移乗しない場合は乗車拒否をする取扱いとなったことに抗議するものであった。1976年12月12日には、東急バス溝の口駅前でバス運転士が運転を拒否して放置したバス車内で障害者や支援者が一夜を明かす事件も起こっている。

 

2.3 広範な市民運動

 鉄道をはじめとする公共交通機関がより使いやすくなるように、広範に呼びかける運動が各地で取り組まれた。その中でも、路面電車を廃止して地下鉄を設置する計画が進められていた京都市では、1972年に「誰でも乗れる地下鉄をつくる運動」が結成された。まずは「車いすで歩ける街づくり運動」として実態調査を行い、1973年には署名活動を行った。その結果、一駅置きではあるがエレベーターが設置されることとなった。京都市の運動に触発される形で、大阪市でも延長計画があった地下鉄谷町線の駅にエレベーター設置を求める運動が取り組まれた。この運動では、たとえば地下鉄の助役を車いすに乗せて既存駅の階段を昇降する「体験会」を実施するなどの方法で、問題を分かりやすく伝えることを心がけたという。その結果、1980年に開業した喜連瓜破駅にエレベーターの第一号が設置されることとなった。 これらのほか、東京都営地下鉄や福岡市営地下鉄においても、エレベーター等の設置を求める市民運動が取り組まれたようである。

 東京都小平市では1976年、養護学校PTAを中心に「小川駅の改善をすすめる会」が発足し、アンケート調査や西武鉄道との交渉、小平市議会への陳情等を行った。小平市が1979年に国の障害福祉都市」に指定されたこともあり、1981年に小川駅にエレベーターが設置された。

このような個別駅のエレベーター設置運動は、国鉄(当時)高崎線沿線をはじめ各地で取り組まれた。その取り組みは、単に障害のある人ばかりではなく、すべての人の利便性の向上につながること、そして1981年の国際障害者年を契機とした障害のある人の生活環境等への関心の高まりなどもあって、広く共感を得たものと考えられる。ただし、その記録は必ずしも残されているとは限らない点が、残念なことである。

 

 

2.4 法廷闘争

 1973年2月1日国鉄(当時)山手線高田馬場駅(東京都新宿区)で全盲の上野隆司さんがホームから線路に転落し電車とホームの間に挟まれて死亡した。事故の責任は国鉄にあるとして、親族が国家賠償請求訴訟を起こした。この事故では、隆司さんを知る人々をはじめ、盲学校や国鉄労働組合などの広範な人々の参加で「上野裁判を支援し、国鉄利用者の生命と安全を守る会」が組織され、裁判傍聴や集会等に取り組んだ。隆司さんの兄の上野正博さんがかつて自身の裁判闘争(電柱にビラを貼ったところを検挙され、軽犯罪法違反に問われた)に取り組んだ際に、支援組織の存在の重要性を認識したという。1979年に下された一審判決は、国鉄の責任を認めた。判決理由では「盲人と雖も自ら十分注意して行動すべきであり、電車等の交通機関を利用する場合には介護人の附添をつけることが望ましいことではあるが、それを常に期待し要求することは酷で、社会生活上不可能に近いものというべきであるから、被告のように一般旅客の大量輸送を目的とする機関にあつてはできるだけ事故の発生防止のための人的物的設備をなすべき義務があり」「本件高田馬場駅ホームは、ホームとして本来有すべき安全性を欠いており、その設置保存に瑕疵があつたものといわざるを得ず、右瑕疵によつて本件事故が発生したものと認めざるを得ない」とした。国鉄が控訴した第二審では、国鉄側の責任を認める形で和解が成立し、その中で「(国鉄は)公共の高速度交通機関であることに鑑み、今後とも視覚障害を有する乗客の安全対策に努力する」とされた。現在普及が進んでいるいわゆるホームドアは、開発時期からいってもこの和解に則したものといえるだろう。なお、視覚障害者の転落事故をめぐっては、本件のほかにも1973年に国鉄大阪環状線で弱視の大原隆司さんが重傷を負った事故(大原訴訟)、1995年大阪市営地下鉄御堂筋線で佐木理人さんが重傷を負った事故(佐木訴訟)がある。

 

障害者自立支援法に基づく移動介護の利用時間を一方的に削減されたとして、大田区に住む鈴木敬冶さんが削減処分の取り消しと、従前の支給時間を求めた行政訴訟が2005年に提訴された「鈴木訴訟」である。本件は、訴訟中に障害者自立支援法及び支援費制度が廃止され、障害者総合支援法が施行されたため、主文では請求が棄却されたものの、判決理由では本件処分の違法性が指摘されるものとなった。2006年11月の判決では、「社会参加に必要な外出時間は障害者ごとに異なり、支給量の上限を一日約一時間と定めた区の要綱に合理性はない」と指摘したうえで「それまで必要と認めていた支給量を激減させたのは身体障害者福祉法などの趣旨に反し、社会通念上も妥当性を欠く」と指摘している。この裁判は、障害者の交通機関を利用する権利に直接触れるものではないが、社会参加の権利の前提として移動支援を位置付けていることが重要である。

 

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