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0134「ボクサーパンツ」



 洗濯機から取り出した衣類のなかに糸井くんの下着が混じっていて、そういえば籠に入れていたな、とわたしは思い出す。
 半月ほど前の仕事終わり、わたしは糸井くんと一緒に家に帰って。ごはんを食べて、ベッドでセックスごっこをして、そのまま朝まで寝落ちしてしまって。ベッド脇に脱ぎ散らかした衣類のなかから自分の下着を見つけられなかった糸井くんは、遅刻するからとノーパンで家を出た。わたしはその日、病院に行くために午前休を取っていたから、糸井くんと一緒には出なかった。注射を打って、出勤して、ディスプレイの前で腕組みをしている糸井くんを残してひとりで退勤して。夜、部屋を掃除しているときに、わたしの肌着に埋もれていた糸井くんの下着を見つけて。
 ピンチハンガーをベランダの物干し竿に掛けて、つめたく湿ったキャミソールやショーツ、ブラジャーや靴下、タイツ、ハンカチ、バスタオル、それらを淡々と吊るしていく。糸井くんの下着に手が触れて、わたしはその深緑色のボクサーパンツを鼻に当てて、息を吸ってみる。わたしの洗剤のにおい。わたしの柔軟剤のにおい。湿った生地のにおい。その奥にたしかにある、糸井くんの洗剤のにおい。糸井くんの下着のにおい。糸井くんのにおい。なつかしい、わたしもこうだったかもしれない、男の身体のにおい。
−−ごめん、やっぱり石川、おれひとりで行ってくる
−−わかった
−−ごめんね
−−謝らなくていいよー。いってらっしゃ〜い!
−−ありがとー
 そのやりとりを最後に、糸井くんとは連絡をとっていない。とは言っても、同じ会社で働いているから日々顔を合わせるし、業務的な会話もする。それに、このLINEのやりとりだって、ほんの5日前のことだ。5日間くらい、連絡しないことなんて、ぜんぜんめずらしいことではない。なんてことはない。かもしれない。
「もし糸井くんが、たとえば子供を作りたくなったり、あるいはもっとふつうに、ふつうの人と、ふつうのセックスがしたくなったら、いつだってわたしと別れてもいいし、浮気だってしてもいいからね」
 ああわたしは、言ってしまったな。と、あのとき、糸井くんの表情の変化でようやくわかった。わたしはわたしの本心に、気づいていないフリをして、糸井くんにはわからないだろうとタカを括り、言ったのだ。
 そんなことないよ。ふつうなんてそんなのどこにもないよ。浮気なんてしないよ。俺は奈美ちゃんだけが大事だよ。
 わたしは糸井くんのことを考えているようでいて、真実わたしのためにそう言ってほしくて、あんなことを言ったのだ。最悪だ。
「え……?」
 そして現実の糸井くんは、わたしの願望の糸井くんとはまったく違う反応を示したのだった。
 洗濯機1回分の衣類をあらかた干したり吊るしたりして、わたしは2回目の洗濯機を回す。ずいぶん溜め込んでしまった。ベランダに干せないぶんはコインランドリーにでも行こう。ケトルのスイッチを入れて、コップに牛乳を注いで一息に飲んで、コップをシンクに置いてから、なんでケトルのスイッチを入れたのかわからなくてスイッチをカシンと上げる。自分の後ろ髪の軌道上にわたしの鼻が来てヘアオイルの残り香を他人の体臭みたいに感じる。網戸をして開けているベランダの窓からは人の往来の音やバイクのエンジン音、自転車のチェーンの空転する音がキッチンにいるわたしの耳まではっきりと届いていて、わたしは網戸から見える画素の荒いgifデータみたいな景色、景色というより光を、眺めるともなくぼんやりと感知していた。それでようやく自分の目が閉じていないことがわかる。そんな感じに。
 エマに。
 ……エマなら。
 エマなら、なんて言うだろうか。なんて言っただろうか。誰かと付き合っているとして、そんなこと言うだろうか。言わないかもな。トラに……。
 トラに、わたしはそんなこと言うだろうか。
 トラにこそ、言いそうだな。いやあ、どうかな。
 寝室のとなり、寝室とほとんど同じ造りの、6畳ほどの和室に入る。畳の上に直置きで壁際に立てかけてある、エマの描いたキャンバス画の前にしゃがむ。こんなものを手放せるなんて、ペインターはすごいな、とわたしは思う。ペインターって言ったら嫌がりそうだな。また描かないのかな、エマは。描いてもなんの意味もないじゃないかと冷たくあしらわれるだろうか。まんざらでもない顔を隠そうとしながら。
 みんな、いまごろなにしているのかな。とくに誰、と挙げていくことも想定することもせず、ただ漠然と、みんな、と思う。畳の凹凸に指の腹を沿わせて、こまかに登ったり降ったりする感触を楽しむうち、パンでも買いに行こうか、という気分になってきている。
 洗濯機はヘリコプターのような駆動音で脱水を行なっていた。

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