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0148「屋上」



 甲州街道裏の緑道のてきとうな場所に自転車をとめて、エマは古びた細長いビルの階段を上がった。街はとっくに静まっていて、牛丼屋やコンビニ、暖簾を下げた蕎麦屋くらいしか人のいる気配はしない。
 そのビルの屋上に、エマはたまに行くことがあった。一階は花屋、二階はカフェ、三階と四階にはそれぞれ会計事務所と商事会社が入っている。ビルの階段は街路と地続きになっていて、階段を上がるだけなら鍵もいらない。そして屋上へと出る扉の鍵はいつも開いていた。エマがまだ「Municipality Humidor」で働いていないころ、知人に連れられて行った新宿ゴールデン街の飲み屋であまり楽しくないお酒をしこたま飲んだ帰り、どこか伸び伸びと佇んだり、隠れたりできる場所はこの街にないものかと道をあてどなく彷徨っていた果てに、目に留まったビルの階段を半ばヤケクソで上がったすえ見つけた屋上だった。エマは見た目のわりに重い手応えのアルミ扉を押し開け、屋上の真ん中まで進み、大きく息を吸った。
 左手に持っていた紙パックの鬼殺しの残りを一気に飲み干し、エマはアダムに電話をかけた。一回、二回、三回、コール音が鳴る。四回、五回、六回。あと三回鳴って出なかったら切ろう。一回、二回、三回、いやあともう三回。一回、二回、三回、……四回。エマはそれをもう二回繰り返し、電話を切った。しばらくそのままスマホの画面を眺め、ポケットにしまおうと顔を上げたところで、アダムからの着信があった。
「ハーイ」
「ハーイ、アダム」
「どうしたの?」
「元気?」
「元気じゃなかったら、出ないよ」
「えー?」エマは小さく笑った。「えー。そんなことないだろ」
「エマは元気?」
「エマは……。どうだろうね。エマは元気なのかな」
「おれに聞かれても困るよ」
「元気なのかな」
「はは。どうした。泣いてる?」
「いまなにしてんの?」アダムの問いには答えず、エマは訊く。
 エマは目を閉じた。
 目を閉じると、アダムもこの屋上にいるみたいだ。
「んーいま? 昨日撮ったものをね、編集してた」
「そっか」
「うん。エマ、ほんとに泣いてない?」
「その質問禁止な」
「んっふふ。あいあい」
「どんなものを撮ったの?」
「えっとねえ。あれよあれ、昨日は〜……」
 エマはアダムの声を聞く。自分の呼吸が寝息のように骨を揺らす。アダムの低く淡々とした声を聞きながらエマは、ああ、おしっこしたいな、と思い始めている。

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