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ビルドゥングス・ロマンとしての『空の境界』──「新伝綺小説」の様相──

*本稿は、大学の卒業論文として書いた『空の境界』論を掲載しております。加筆修正を加えた改稿版もnoteにて掲載しています。↓




はじめに 「新伝綺小説」

 二〇〇四年、講談社から奈須きのこ『空の境界 the Garden of sinners』が刊行された。本作品は「新伝綺小説」と銘打たれて発表されるや否や、瞬く間に人気に火が付いた。
 それから二〇〇七年にはアニメ映画として劇場公開されるに至り 、同年には文庫版も刊行された。 人気はそれだけに留まらず、二〇一八年には映画のリバイバル上映がなされ 、さらには原作誕生二〇周年を記念して五〇〇〇部限定の愛蔵版が販売された。 

 奈須きのこは、元々ゲームブランド「TYPE-MOON」のゲームシナリオライターであるが、その一方で小説家としても活動していた。『空の境界』は一九九八年にブログ「竹箒日記」にて公開された。
 それから二〇〇一年のコミックマーケット61において、同人誌として頒布された。 その際に、『空の境界』に着目したのが講談社の編集者であった太田克史であった。太田は『空の境界』の商業出版を奈須へ申し出て、それによって商業誌として刊行されるに至った。 

 ところで、『空の境界』は「新伝綺小説」の先駆的作品として認知されている。それには、太田克史が二〇〇三年に編集を務めた雑誌『ファウスト』との関係がある。『ファウスト』に掲載されていた作品群もまた「新伝綺小説」と称されており、そのカテゴリーの中に『空の境界』も含まれたのだ。太田は「新伝綺小説」のコンセプトについて、次のように語っている。

 僕たちが“たった今”をすごしているゼロ年代 は、それまでの“非日常”が“日常”と溶け合って成立している。そんな時代だ。隣の国の核ミサイルも遠い国からやって来たテロリストも日本転覆を狙う宗教組織も小学生を惨殺するクラスメイトもひとつの都市を完滅させる大地震も、“たった今”確実にあなたの隣にある。

 そんな“たった今”だからこそ、新しい現実に対応した新しい小説の在り様は、よりアグレッシブに探られるべきだ。

 キーワードは“非日常”と溶け合って成立している“日常”────あるいは“日常”と溶け合って成立している“非日常”だ。そしてそのキーワードへのひとつの回答は、非日常を日常のものとして描ける最高のフォーマットである伝奇ものの延長線上に位置しているのではないだろうか?

 ’八〇年代伝奇ムーブメントの影響を受けて成立した’九〇年代以降のまんが・アニメ・ゲームといったヴィジュアル表現の影響を受けて再成立した新しい伝奇小説、“新伝綺”  
『ファウスト vol.3』(二〇〇四年、講談社)

 太田は『ファウスト』の作品群と関連付けて、『空の境界』を「新伝綺小説」と銘打って世に発表した。
 しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。果たして、「新伝綺小説」とはどのようなジャンルを示しているのか。「`八〇年代伝奇」と「`九〇年代のまんが・アニメ・ゲーム」が融合した小説とは一体どのようなものなのか。

 「新伝綺小説」を手掛けた作家として太田が挙げているのは、奈須きのこ以外では原田宇陀児、元長柾木、竜騎士07、錦メガネがいる。こうして列挙した作家陣に共通している点は、ゲームシナリオライターであるということだ。しかし、彼らの執筆する作品には明確な共通点が見受けられない。

 例えば、原田宇陀児の「新伝綺小説」と称されている『サウスベリィの下で』という作品は、ジャンルでいえばミステリー小説とも呼べる。この作品では、主人公の回想を通して、主人公と姉の確執に関する謎が徐々に開示されていく。
 また、竜騎士07の「新伝綺小説」と称される『怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る』という作品は、ホラーミステリーと呼べる。この作品では、主人公とその友人二人が冗談半分で始めた怪談話が、やがて彼らの手に負えない状態にまで膨れ上がってしまう過程を描く。

『ファウスト』においては、ジャンルがまるでバラバラな作品群が「新伝綺小説」という一つの枠組みに収められている。それは定義づけとしてあまりにも無理があるのではないだろうか。

 そもそも、「新伝綺小説」の元となっている「伝奇小説」というカテゴリーでさえ、その定義は曖昧だ。「伝奇小説」は「新編 日本国語大辞典」によると次の通りに定義づけられる。

 文芸用語としての伝奇は、中国唐代の小説の呼称として用いられたのがその初めである。 (中略) 伝奇ということばは、普通、唐代小説の総称として用いられるが、その中心は、中唐期の士人の創作である。その作法も初めのうちこそ六朝志怪の筋や枠組みを借りながら、独自の創意工夫によってモチーフを表出してゆくものが多かったが、しだいに六朝志怪の怪異の世界を離れ、現実的な人間の社会に根ざした小説が著されるようになってくる。 
『新編 日本国語大辞典』

 この辞書的な意義だけでは「伝奇小説」の全容を掴むことができない。また、岡崎由美によると、伝奇は「奇を伝える」ことを目的としていて、そのために物語の表現に重みを持たせていると述べている。「起伏に富んだファンタスティックな物語性と華やかな文体」、それから「虚構の物語の隆盛」という二点の特徴を有しているのが「伝奇小説」なのだという。 

 果たして、この字義的な意味づけは功を奏しているのか。「伝奇小説」に含められる作品として挙げられるのは、神話や伝承、怪異モノや異世界の物語、またはファンタジーやSF、果てはホラーやミステリーなど多岐にわたる。 確かに「奇を伝える」ということであれば、どのジャンルも該当するだろう。
 しかし、この状態では正確な定義づけが為されているのか、疑問の余地が生まれる。ただでさえ煩雑としたジャンルである「伝奇小説」なのに、それを継承したとなれば一層煩雑さが増すだけではないのか。それでは正常なカテゴライズとして機能するはずがない。

 その上、「新伝綺小説」のコンセプトである「“非日常”と溶け合って成立している“日常”────あるいは“日常”と溶け合って成立している“非日常”」についてだが、これと類似したジャンルがすでに存在している。それは「ロー・ファンタジー」と呼ばれる。
 「ロー・ファンタジー」とは、現実世界を主な舞台とし、そこに魔法や妖精など異質な存在(ファンタジー的な要素)が介入してくる物語のことだ。多くの場合は魔術や超自然的な要素が相対的に少ないファンタジー文学を指す。 
 現実世界が「日常」で、ファンタジー的な要素を「非日常」と当てはめれば、「新伝綺小説」も「ロー・ファンタジー」も同様の構図を有していることが窺える。このように言い換えができることからも、「新伝綺小説」というジャンルが判然としないことが分かり得る。

 そうした現状を受けて、本論では「新伝綺小説」というジャンルに囚われず、別視点でもって『空の境界』という作品を見つめ直す。そこから、現代文学における『空の境界』の立ち位置について検討する。




第1章 『空の境界』の構造

 考察を進めるにあたって、まずは『空の境界』の基本的な情報を整理したい。物語の梗概、作品の成立背景、作品の構成という観点を元に整理していく。

 『空の境界』は現代日本(一九九〇年代)を舞台にした「ロー・ファンタジー」作品である。
 主人公の両儀式は、人為的に造られた二重人格者で、正の側面、女の人格を持つと、負の側面、男の人格を持つが同一の体に宿っている。
 そのような在り方に何の疑問も抱かずに生きてきた彼女(彼)は一人の青年、黒桐幹也に出会ったことで、心境に変化が起きる。
 黒桐と交流を深めていくうちに彼へ好意を寄せる式だったが、その一方で黒桐と接することで自分が自分でなくなるのではないかという不安に苛まれる。
 ある日、式は交通事故に遭って意識不明の状態に陥る。それから二年後に目覚めた式は、もう一人の人格であった織が消失していることに気がつく。
 彼の消失と引き換えに、式は「直死の魔眼」という、あらゆる生命の死を視ることができる異能力を獲得する。その力を武器に、様々な異能力者、魔術師と邂逅していく中で、やがて式は織のいない自身の生を受け入れていくようになる。

 奈須が『空の境界』を執筆するにあたっては、三人の作家から強い影響を受けている。
 『魔界都市〈新宿〉』や『吸血鬼ハンターD』などの「伝奇小説」を手掛けた菊地秀行、『十角館の殺人』や『Another』などのミステリー作品を手掛けた綾辻行人、そして『矢吹駆シリーズ』などのミステリー作品や『ヴァンパイヤー戦争』などの「伝奇小説」を手掛けた笠井潔である。彼らから「伝奇」的要素「新本格」 的要素を取り入れたことで、それらのハイブリッドとして『空の境界』が誕生したことが窺える。 

 『空の境界』における「伝奇」的要素は、主人公である両儀式が持つ「直視の魔眼」であったり、敵対する登場人物達が持つ「魔術」と呼ばれる異能力に該当する。
 現実世界と表裏一体の形で存在する、魔術が用いられる世界。それこそが、『空の境界』に超常的な世界観を構築させている。

 その一方で、『空の境界』が含有する「新本格」的要素は、本作の構成と深く関係している。『空の境界』は時系列とは関係なく物語が展開する。
 例えば、「一章 俯瞰風景」は一九九八年九月の出来事とされているが、続く「二章 殺人考察(前)」は一九九五年の出来事となっている。さらには、「三章 痛覚残留」は一九九八年七月の出来事とされる。複雑に時間が交互する作中の時系列について、最後尾にて年表として整理した。

 坂上秋成は著書『TYPE-MOONの軌跡』において、この構成に関して解説している。それによると、「時間的な順序が入れ替えられたそれぞれの章に触れながら、自身の頭の中で全体の物語をイメージしていく」ものだという。
 あえて時系列をバラバラに解体することで、読者へ断片的に物語の情報を提供することになり、章を重ねていくうちにその断片的な情報を脳内で再構成する。それによって、初期段階では謎だった情報が判明していく。
 その構造は、謎解きの面白さを追求する「新本格」ミステリに通じるものがある。この「新本格」的要素と「伝奇」的要素の融合、つまり「伝奇と新本格ミステリの融合」 こそが『空の境界』の特色といえる。

 以上の内容が、従来の『空の境界』に対する評価である。しかし、冒頭で述べた通り、「新伝綺小説」というジャンルはとても不確定的だ。
 「新伝綺小説」に疑問の余地が生まれている限り、本当に「伝奇と新本格ミステリの融合」によって『空の境界』の物語が形成されているのか、という追究は不可欠だ。従来の作品観に囚われない視点から分析し直す必要がある。
 このことを念頭に置き、次章からは「伝奇」的要素と「新本格」的要素にそれぞれ個別に着目して、『空の境界』の読解をさらに深めていく。




第2章 両儀式の成長

 まずは「伝奇」という側面に焦点を当てていく。『空の境界』の「伝奇」的要素は主に物語のストーリーラインによって形成される。よって、ここからは本作の物語に焦点を当てていく。

 作中において、両儀式が対峙する敵は四人登場する。「一章 俯瞰風景」より巫条霧絵、「三章 痛覚残留」より浅上藤乃、「五章 矛盾螺旋」より荒耶宗蓮、「七章 殺人考察(後)」より白純里緒と、それぞれ対峙することになる。
 この一連の戦いを通して、両儀式はもう一人の織のいない自らの人生、または殺人鬼として生まれた両儀式という自身について見つめ直す。

 ここで注目したい点は、五章に登場した荒耶宗蓮が事実上の黒幕だということだ。荒耶は世界の根源に到達するため、その鍵となる両儀式を捕獲しようと試みた。その計画の一部として、巫条霧絵や浅上藤乃に能力を与えて、式と戦わせた。
 白純里緒もまた、荒耶の計画のために能力を与えられていたが、彼が式と対峙する前に荒耶が敗れた。つまり、『空の境界』における式の戦いの中心には荒耶が存在していた。

 このことについて、作者である奈須きのこは荒耶宗蓮を「古典的な伝奇ヒーロー」と称している。 「古典的な伝奇ヒーロー」とは、「超越性、外部に突きぬけたいという欲望によって駆動されているキャラクター」のことだと奈須と笠井潔は述べている。
 それはつまり、己が生きる日常世界に不満を抱き、その世界から脱却して自由を得たいという感情を示している。そのようなキャラクター像が一九八〇年代の「伝奇小説」では多く描かれていたという。

 だが、そんなキャラクターの一人である荒耶宗蓮は、両儀式や黒桐幹也にとっては「〝和〟を乱す者」と見做される。何故なら、式も幹也も共通して日常世界の中に生きることを肯定しているからだ。荒耶のように日常を壊そうという考えは持ち合わせていない。そのため、荒耶と式・幹也は対立せざるを得ない。
 その結果として、「五章 矛盾螺旋」において荒耶と式は戦うことになった。この五章がいわば『空の境界』の大きな山場となる。

 ところで、『空の境界』がブログで掲載されていた当初の段階では、山場となるこの五章で物語が完結する予定だった、と奈須は述べている。その時期の題名は『空の境界式』とされている。奈須曰く、『空の境界式』は荒耶宗蓮の物語であり、荒耶は『空の境界式』の主人公的存在だった。
 それから同人誌として刊行される際に六章と七章が追加されたのだが、その話はあくまで両儀式と黒桐幹也のための話として執筆したという。
 ここで、主人公が荒耶宗蓮から両儀式・黒桐幹也へと交代したことが窺える。その表れとして、『空の境界式』から『空の境界』へと改題された。

 講談社文庫版『空の境界(下)』のあとがきで、笠井潔「荒耶こそ、物語の主人公にふさわしい。〝根源の渦〟に達することを渇望して闘う魔術師とは、真の世界=私を求めて遍歴を重ねる騎士や、教養小説の主人公の子孫ともいえるからだ」 と語っている。
 しかし、これはあくまで五章までの物語を読んだ上での評価に過ぎない。七章までを含めた物語を読めば、やはり主人公が両儀式であることは自ずと判明する。ここからは、主人公としての両儀式の在り方に着目していく。

 五章で荒耶宗蓮が敗北を喫して作中から退場する形になったのは、なるべくしてなったといえる。何故なら、五章における両儀式はまだ成長過程にあるからだ。確かに、式にとって荒耶は超えるべき存在であり、そのことは奈須きのこも述べている。
 しかし、五章での戦いはいわば外敵を排除しただけに過ぎない。この戦いを経て、式が大きく成長したかと問われればそうではない。織を失ったことに真正面から向き合うことも無ければ、黒桐幹也との関係が発展したわけでもない。
 むしろ、式が精神的に成長するきっかけとなるのは、七章における白純里緒との戦いになるだろう。

白純里緒は「二章 殺人考察(前)」「七章 殺人考察(後)」における連続殺人事件の犯人である。かつて両儀式に告白した際、「弱い人は嫌いです」 と断られてしまう。
 それから、里緒は強い自分になることに執着するようになる。そんな矢先、彼は不慮の事故によって人を殺めてしまう。自らの殺人が露見してしまうことを恐れた彼は、死体を隠すことにした。
 しかし、一人の人間を運ぶことは容易なことではない。どうしたものかと考えた末、里緒はその死体を食すことを思いつき、そして実行した。どうにか死体を丸々食した里緒の元へ荒耶が現れる。その常軌を逸した行動に感銘を受けた荒耶は、里緒に魔術を授けた(作品に即するならば、「起源を覚醒させた」)。そうして「強い自分」を手に入れた里緒は、殺人鬼となって人々を手にかけるようになる。

 殺人鬼と化した白純里緒と、生まれつき殺人衝動を抱える両儀式はとても近しい存在だ。式は織を失ってもなお、殺人衝動を抱えたままだ。一度も人を殺めたことがないとはいえ、殺人鬼としての資質を備えていることは間違いない。
 それゆえ、里緒と式は鏡写しのような関係となる。だからこそ、式は里緒を強く意識する。

 私は、殺人鬼に嫉妬していて、そいつを探している。もし殺人鬼がいるのなら、それは転じて四年前の事件の犯人が織ではないという事にもなるし  何より、そんな相手と、私は殺し合ってみたい。(中略)織は人殺しをする事しか知らなかっただけで。殺人を嗜好していたのは、他の誰でもない私だった(以下略)   
講談社文庫『空の境界(下)』318頁より

 かつて式に恋した里緒は、四年の月日を経て式を追い求める。その一方で、式もまた己の殺人衝動に駆られるようにして、里緒を探し出す。

 かくして二人は対峙するのだが、そこに黒桐幹也が介入することでその様相は深化していく。里緒と対峙することで式は殺人鬼としての自分と向き合う。さらに、幹也と過ごす日常を想う気持ちも相まって、式の自己探求は一層の意味付けを要する。

 式は幹也と出会ったことで、普通の日常に憧れる(作中でいえば「ユメをみる」)ようになる。それは、二重人格者として両儀家に生まれた自身の出生や、生まれながらにして殺人衝動を持つという異常性を背景に持つからこそ、普通というものに対する気持ちはより強まる。
 しかし、普通に生きるということは異常な側面を一手に引き受けている織を否定することに繋がる。式にとって、織の存在は友人や実の家族よりも大切なものだ。そう簡単に切り捨てられる存在ではない。
 そうしたジレンマに苛まれて、式は「ユメをみる」度に苦痛を味わうことになる。その苦痛は「ユメ」(=普通)の象徴である幹也を殺せば解消される(と式は思っている)。
 実際、二章において、式は幹也に刃を向けた。しかし、すんでのところで式は刃を止めた。

 ……たしかに幹也を殺せばそんな苦しみに囚われる事もなくなって、以前の自分に戻れる。けれど  そのかわりに、もうそんなユメそのものさえ、みる事が出来なくなってしまうんだと。
 (中略)結局。最後の瞬間まで幹也殺しを阻止したのはあの黒い男でも式でもない。なによりユメ見る事が好きだった、それしか出来なかった織が、幹也というユメのカタチを壊したくなかったんだ。 
講談社文庫『空の境界(下)』405頁より

 異常の中でしか生きることができなかった織。だからこそ、何一つ狂いのない普通の日常というものに憧れを抱いた。
 その願いの尊さは、彼と同じ時を生きてきた式にもよく理解できた。理解できたから、幹也を殺すことができなかった。

 式は幹也と過ごす日常を守ろうとした。それから四年後、その日常を壊さんとして白純里緒が現れた。であれば、式は里緒と対峙しなければならない。
 かつて織が願った「ユメ」を守るために。結果として、式は里緒を殺すことになる。
 だが、それは単に殺人衝動に駆られたからではなく、里緒の手で幹也が殺された(実際には生き延びているが)ことへの怒りから起こった殺人だ。幹也を喪ったことによる怒りと、それから絶望。それらの感情がもたらした殺人は、殺したいから殺すというトートロジーな動機による殺人とは決定的に質が異なる。
 それはつまり、己の欲望のために殺人を犯してきた白純里緒のような殺人鬼に堕落せずに済んだことを意味する。

 とはいえ、式は殺人という禁忌を犯した。そのような状況下で、果たして元の日常に戻ることは可能なのか。その疑問に対して、解答とも見て取れる一文が作中に書かれている。「人は、一生に一人しか人間を殺せない」 と書かれたこの一文は、両儀式の祖父が幼い頃の式へ遺した言葉である。

 作中において、殺人という行為は「自分ではどうする事もできなくなった憎しみ」から逃れるため、その悪感情を引き起こす要因となった相手を葬るために行われるもの、と定義づけられている。その際、殺した側の人間は「人を殺した、という意味も罪も背負う」ことを強いられる。
 ただし、背負うことのできる十字架は一人分だけである。それ以上の殺人を犯してしまえば、十字架の重みに耐えきれなくなり、ついには人間としての尊厳すら放棄してしまう。それは最早「殺戮」であり、それを行う者は「殺人鬼」と化す。 

 このことを踏まえた上で、両儀式と白純里緒を対比させてみる。式が殺したのは里緒一人だけである。また、その罪を黒桐幹也も共に背負った。
 それによって、式は殺人という罪を認識しつつも罪悪感に押し潰されることのない、人間として生き続けられるようになった。

 一方の里緒は、作中で判明している数だけでも十一人を殺害している。それに加えて、違法ドラッグを摂取していたことも相まって、真っ当な人間としての理性や感情は失われていた。故に、彼が殺人鬼へと変貌を遂げたことは歴然である。

 そうした里緒との対峙を経て、式は殺人鬼ではなく一人の人間として生きていくこと、もっといえば、かつて織が願った普通の日常という「ユメ」を黒桐幹也と共に生きていく決意を固める。
 ここにきて、式は精神的に大きく成長することができたといえる。「魔術」という非現実的な要素を孕んだ世界観の中で描かれたのは他でもなく、両儀式という人間の成長物語だったのだ。

 それを踏まえると、『空の境界』という作品から「伝奇小説」とは異なる別の側面が浮かび上がってくる。
 それは「教養小説」という側面である。「教養小説」とは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく物語を書いた小説を指す。 

 魔術を代表とする「伝奇小説」という側面は、あくまで式の成長物語という「教養小説」的なストーリーラインを補強するための一要素でしかない。それを裏付けるように、「古典的な伝奇ヒーロー」と称された荒耶宗蓮との対決が中盤に据えられており、その付属物でしかなかった白純里緒との対決が終盤に据えられた。
 このことから、物語の主軸に置かれているのは式が一人の人間として成長していく姿にあることが窺い知れる。

 また、荒耶が式に倒されたことは「伝奇」的な世界との決別ともいえる。「伝奇」の代表として現れた荒耶に立ち向かう式は、日常を求める者である。それは言い換えれば、魔術などの異能力が跋扈する「異常」と相反する「正常」の立場に立っていることとなる。

 そのように対立する二人であるが、奈須や笠井はその二人を『空の境界』の主人公だと述べている。特に笠井は「荒耶こそ、物語の主人公にふさわしい」と述べている。
 しかし、その見解はあくまで『空の境界式』というプロトタイプの物語にしか当てはまらない。『空の境界』という物語においては、やはり両儀式こそが主人公だといえよう。そのことを決定づけているのは、式と荒耶の世界に対する姿勢の違いに起因する。

 まずは荒耶についてだが、彼は世界に絶望していた。この世には苦しみがあり、不条理に人が死ぬという現実を知った荒耶は、「根源の渦」に到達することを望んだ。
 「根源の渦」には世界の全てが内包されていると言われており、荒耶はそこへ辿り着くことで何故この世には苦しみが存在するのかという理由を知ろうとした。世の理を理解することが救いを見出す唯一の方法だと考えたのだ。
 そのために両儀式を利用しようとするのだが、結果として荒耶の願いは叶わないまま彼は消滅する。

 何故荒耶の悲願は達成されず、消滅という末路を辿ってしまったのか。それは、単に式の力が上回っていたからではない。式の方が、荒耶以上に世界と向き合っていて、その一方で荒耶はかえって世界から目を背けてしまっていたが故に、荒耶は敗北を喫したのだ。

 式は積極的に世界と向き合おうとしていたというわけではない。彼女は人類全体といった大規模なことではなく、自身と周囲の人達の生きる空間に限定して注目してきた。織という半身を喪った欠如感、織が望んだ日常という名の「ユメ」、幹也への複雑な想い。
 式が向き合ってきたのは、あくまでも自身と地続きになった狭い範囲の世界だった。しかし、その姿勢こそが荒耶との差を決定づける要因となった。

 荒耶が重視していたのは、人類全体を視野に入れた広い世界だった。しかし、それは荒耶自身とはとてつもなくかけ離れた世界でもあった。その広すぎる世界に目を向ける代わりに、自分自身やその周りに留まる狭い範囲の世界、いわば日常からは目を背けることとなる。
 それはつまり、本来荒耶が向き合わなければならない現実から、彼自身が逃避していたことを示していた。そのような荒耶の姿勢に対して、蒼崎橙子が次のように語る。

 おまえは人々を生き汚いと言うが、おまえ本人はそうやって生きる事ができまい。醜いと、無価値だと知りつつもそれを容認して生きていく事さえできない。自身が特別であろうとし、自身だけがこの老いていく世界を救うのだという誇りを持たなければとても存在していられない。   
講談社文庫『空の境界(中)』341頁より

 荒耶は「根源の渦」への到達という壮大な目標に向かって生きてきた。しかし、その一方で、彼は一人の人間として生きることを、知らず知らずのうちに断念していた。
 その在り方は、最期の時まで人間として救われることのなかった白純理緒の姿と重なる。彼らが生きていた世界とは、つまるところ「伝奇」的要素で形成されたモノだ。
 荒耶が用いた魔術であったり、白純が覚醒させた起源であったり、超常的な概念が跋扈する世界は、一見するとロマンを感じさせる。しかし、彼らの末路を見る限り、人間の望む生き方は到底叶いそうもない。人間が生きていくことができる世界は、あくまで日常の中にしか存在しない。
 それを証明するかのようにして、荒耶は敗れて、式は日常の世界へと戻っていったのだ。




第3章 「境界」の物語

 前章では、『空の境界』の「伝奇」的な側面について再検討して、そこから「教養小説」という側面を見出した。
 だが『空の境界』には、「伝奇」的な要素の他に「新本格」の要素も含まれていると、太田や坂上らは述べている。本稿の第一章で先述した「複雑に時間が交互する時系列」がその最たる例である。

ちなみに『新編 日本国語大辞典』によれば、「新本格」とは、

 推理小説のジャンルの一つ。本格推理小説のように、犯行のトリックを重視し、謎解きの面白さを追求した作品を指す。日本では1980年代から1990年代にかけて、社会派推理小説(松本清張を代表とする、現代の社会情勢や人間の心理を追求する作品)の隆盛に対して登場した一連の作家(綾辻行人、法月綸太郎、有栖川有栖など)の作品が知られる。

*括弧内は筆者が注釈として書き加えた。
『新編 日本国語大辞典』

 この「新本格」の要素については、時系列の他にも、「五章 矛盾螺旋」における小川マンションの構造の特異性を用いた、いわゆる「二つの部屋」トリック が書かれている。
 「二つの部屋」トリックとは、内装が全く同じ部屋を二つ用意することで、被害者や目撃者などの認識を撹乱させる手法。「五章 矛盾螺旋」の小川マンションは、東棟と西棟に別れており、それぞれの棟に全く同じ内装の部屋が造られていた。

 とはいえ、坂上が注目している点は『空の境界』の複雑な章立ての方である。そのため、小川マンションのトリックは深く取り扱わないものとして、本論では『空の境界』の章立てに重点を置いて分析していく。

 当作では、時系列をバラバラにした構成を用いることで、読者に謎を提示している。
 そして、その謎は章を重ねていく中で解明される。例えば、「二章 殺人考察(前)」で発生した殺人事件の犯人については、「七章 殺人考察(後)」で判明する。
 さらに、「一章 俯瞰風景」での巫条霧絵、「三章 痛覚残留」での浅上藤乃が式と対峙するように仕向けた存在について、「五章 矛盾螺旋」と小幕「境界式」で判明する。

 この他にも、大小様々な謎が作中に設定されている。それらを構築するために、綿密な計算によって小説の構成が練られていることは想像するに難くない。

 だが、その構成はあくまで付加的要素に留まっているように考えられる。そもそも、「新本格」では謎解きの面白さを重視することが前提条件だ。
 そのために、不可解な事件を設定して、その謎を解き明かす探偵役を配置させる、といった手法が「新本格」ミステリで採用されている。

 その点を踏まえると、『空の境界』において謎解きの要素は物語の主軸に据えられていない。
 確かに、当作の二章と七章で起きた連続殺人事件は、両儀式と黒桐幹也との因縁が深く、作中においても二人はそれぞれのアプローチから事件の真相に迫っていく。
 しかし、事件の謎はこの物語の本題ではない。謎を解き明かした先に待っている日常への回帰こそが、式と幹也が真に求める答えであり、当作の主題なのだ。

 本論の二章で考察したように、「伝奇」の側面は両儀式という主人公が成長していくストーリーを補強するための一要素に過ぎなかった。
 それと同様に、「新本格」に影響を受けた『空の境界』の複雑なプロットもまた、「教養小説」的なストーリーを支えるための副産物なのだ。

 ここまでの考察によって、『空の境界』における「伝奇」的側面と「新本格」的側面がこの作品のメインストリームではないことが判明した。それとともに、「新伝綺小説」という枠組みは十分に機能しないことも証明された。
 そうなれば、『空の境界』という作品をどのように定義づけるのが適切と言えるのだろうか。

 ここで注目したいのは、『空の境界』のテーマについてである。奈須きのこが当作に託したテーマに着目することで、この作品の本質を正確に捉えることができるのではないだろうか。
 『空の境界』は、端的に言えば「境界性についての物語」である。

 日常と非日常、異常と正常、自己と他者、世界と自分があって、お互いがどうぶつかり合い、それらは交わることがあるのかという話で、結局は交わらないまま、でも手に手を取りあっていく(以下略) 
『ユリイカ5月号』(二〇〇八年、青土社)

 『空の境界』のアニメ化に際して行われた『ユリイカ』のインタビューで、上記の引用のようなことが語られている。
 ここで語られていることは、両儀式と黒桐幹也の関係を主軸に、式と荒耶の対峙、式と織の在り方など、作中のあらゆる場面において想定され得る構図である。それぞれの立場は必ずしも交わり合えるわけではない。
 式は半身である織を喪い、荒耶は式に敗れた。互いに譲れない信念や価値観があって、それが損なわれそうになってしまった時、両者は対立していった。その間にはまるで目に見えない境界線が引かれていて、それが両者を隔てているようだと感じるかもしれない。
 しかし、奈須きのこは『空の境界』を通して、次のように訴えている。

 世界はすべて、空っぽの境界でしきられている。だから異常と正常を隔てる壁なんて社会にはない。──隔たりを作るのはあくまで私達だ。
講談社文庫『空の境界(上)』292頁より

 式に代弁させる形で書かれたこの文章は、『空の境界』のテーマを的確に示している。二項対立のようにして、この世界のあらゆる事物が隔てられているように感じる気持ちは、実のところ私達人間の錯覚でしかない。
 自分と相手との間に引かれていると感じる境界線というのは、実際にこの世界に存在するモノではなく、自分または相手が頭の中で想像することで生まれ得るのだ。
どれだけ両者の在り方が異なるものだとしても、その違いがどれだけ許容しがたいものだとしても、共に同じ世界の中で生きていくことができる。
 それこそ、二重人格と殺人衝動という異常を抱え持った式と、至って平凡的な日常を過ごしてきた幹也が手を取り合って生きていこうと決意したように。

 ここまでで『空の境界』のテーマを明確化させたところで、もう一つ考えなければならないことがある。それは、黒桐幹也についてである。本論の二章で、『空の境界』の主人公は両儀式であり、彼女が成長していく過程こそが当作のメインとなるストーリーだと述べた。
 しかし、その一方で『空の境界』という物語を捉える上で、黒桐幹也の存在を見落としてはならない。何故なら幹也は、単に式の相方役として登場しているのではなく、当作のテーマを語る上で非常に重要なキーパーソンの役割を担っているからだ。

 黒桐幹也は、自他ともに普通だと称されている。彼は異能力を有しておらず、魔術の世界からは半ば縁遠い世界を生きている。類稀なる情報収集の能力を見込まれて、魔術師である蒼崎橙子の事務所で働いているが、魔術や異能力を用いる他の人物と比べると、至って平凡な立ち位置に属しているといえる。一見すると、幹也という人物は何の特徴もないように思える。しかし、『空の境界』の世界観において普通であるということは、重要な意味合いを持つことになる。

 おそらく読者が唯一共感できるのは黒桐幹也なんですが、読者には平均的なパーソナリティである彼を通してまずこの世界に入ってもらって、最後の最後で「でも最も普通であるっていうのはこういうことなんですよ」というところに着地する。読者に対して「この物語にはいっぱい特別な人間が出てきたけど、あなたも特別なんですよ」って説教くさいことを言ってるんです(笑)。
『ユリイカ5月号』(二〇〇八年、青土社)

 『ユリイカ』のインタビューにおいて奈須きのこは、幹也が読者を『空の境界』という物語の世界へ案内する役割を担っていることを示唆している。だからこそ、幹也の人物像は普通の一般人として設定されているわけだが、その一方で幹也自身もまたこの作品において「特別」なのだと称されている。

 その「特別」さについて、作中では「六章 忘却録音」から窺うことができる。この章では、幹也の妹である黒桐鮮花の視点で物語が展開していく。その中で、鮮花は子供の頃の夢を見る場面がある。

 ある日、鮮花と幹也は親しい仲だった隣家の老人が亡くなったことを知る。その晩、悲しげな顔で夜空を眺める幹也に対して、鮮花は「どうして、泣かないの?」と尋ねる。

"ねえ。なんで泣かないの?"
"うん。泣きたくても、泣けないんだ"
 それは、特別な事だからね。
 それだけ口にして、兄は夜空を見上げる。
 その横顔は今にも泣きだしそうで、けれど、決して涙は流れなかった。
講談社文庫『空の境界(下)』246頁より

 その時、鮮花は幹也が涙を流さない理由を悟った。「何かの為に涙する」ことは「とても特別な行為」なのだという。「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」ことをモットーとする幹也は「たとえ自分がどんなに悲しくても、何かの為に涙する事さえできない」。自分が普通の人間として生きていくためには、そうしなければならないのだと、幼少期の幹也は自身に義務づけていた。

 この場面を通して、幹也は自ら普通であろうと心掛けていたことが分かる。それは言い換えれば、普通になろうと意識し続けなければ、人間は知らぬ間に特別な存在となってしまうということだ。ここに、普通と特別の境界の曖昧さが見てとれる。

 そもそも、『空の境界』の登場人物は何かしら突出した個性を有している。式や橙子は言うまでもなく、鮮花さえも魔術の才能を見出されて橙子の弟子となっている。その中で、唯一何の特性も持っていない幹也は、かえって異質な存在として認知され得る。

 つまり、それまで普通だと見做されていた幹也は、違う見方をすれば特別な存在にもなり得るということだ。それを裏づけているのは、やはり式との関係性であろう。
 二重人格者であり殺人衝動を持つ式は異常な側面を受け持っている。そのように異常性を有した式に恋をしたのが幹也だった。この構図は単なる男女間の恋愛に留まらない。
 普通であることを自身の生き様と考えていた幹也が式に恋をすることは、普通とは正反対に位置する異常に心惹かれたということでもある。この時、幹也は普通から異常へ、または普通から特別へ揺れ動いている状態となる。

日常を「ユメ」見ていた式(ないし織)と、特別なモノに心惹かれた幹也。その二人が紆余曲折を経て、手を取り合うということこそが、二項対立的な隔たりを超えて生きていくことへの可能性を示唆しており、それが『空の境界』のテーマと深く結びつく。

 『空の境界』という作品は、黒桐幹也と両儀式が内面で分かりあえなくても触れあうことはできる……ということをきちんと表現できれば、テーマとしてはクリアされると思うんです。 
『ユリイカ5月号』(二〇〇八年、青土社)

 そうした奈須の想いの元で書かれてきた式と幹也の物語は、「解り合えない隔たりを空っぽの境界にする」 ことを訴えかけている。このことから、『空の境界』は「境界」の物語だと定義づけるのが最もふさわしいと考える。




おわりに ゼロ年代の新たな文学

 以上の考察を踏まえると、『空の境界』が「新伝綺小説」であるという評価が必ずしも即しているわけではないことが分かった。
 確かに、「ゼロ年代」に『空の境界』は「新伝綺小説」と銘打たれて商業展開を果たし、多くの読者を獲得してきた。しかし、その理由が「伝奇小説」の継承作だったから、もしくは「新本格」の要素を取り入れた作品だから、と捉えることはできない。
 『空の境界』は「教養小説」というストーリーラインを軸に、「伝奇小説」的な世界観と「新本格」から影響を受けたトリックを掛け合わせることで、重層的な作品として形成されている。
 そして、何よりも注目すべきは、式と幹也の関係に仮託した「境界」にまつわる物語だという点であろう。そのため、どの要素が多くの読者の心を惹きつけたのかは一概に定義づけることはできないだろう。

 太田克史は「新伝綺小説」について、「新たな文学のステージ」 (『ファウスト vol.3』より)に到達したと語っている。しかし、彼の言う新しさとは一体どこに含有されているのか。『空の境界』を「伝奇小説」と「新本格」のハイブリッドと捉えることは適切ではなくなったことで、認識の改善が必要となった。

 ここで注目したいのは、太田克史が「伝奇小説」に対して「非日常を日常のものとして描ける最高のフォーマット」と称していたことだ。彼の考えに則るならば、「伝奇小説」は日常の中に非日常を落とし込むことができるということになる。しかし『空の境界』においては、太田の見解とは異なる展開を見せている。本作の主人公である両儀式、または黒桐幹也が示したのは、非日常から日常への回帰だった。

 式と幹也が対峙した、荒耶宗蓮をはじめとする魔術世界の者は、つまるところ非日常の体現者である。彼らに共通する点は、現実の生活に苦悩を感じて、魔術世界に身を投じたことだ。しかし、本論の二章でも述べたように、彼らの行動は日常からの逃避でしかなく、彼らは一様に苦しみに囚われ続ける結果を迎えた。

 その一方で、式と幹也は日常の中で生きることを決意して、自身の苦しみを克服する道を見つけた。織という半身を失った式は、幹也と共に生きることで、空虚な心を埋めることができた。それというのも、魔術世界という非日常を経験して、日常の重要性を知覚したからこそ実現し得たのだ。

 この構図を踏まえた上で、ここからは『空の境界』が「ゼロ年代」という時期に多くの人々に読まれてきた意義について考察する。ここで考えるべきことは、黒桐幹也を介して、読者が『空の境界』という世界を追体験するという奈須きのこの意図についてだ。
 それに即するならば、日常の重要性への知覚は、式や幹也だけでなく読者にももたらされることとなる。そうして獲得した知覚は、「ゼロ年代」という時期において十分に効果的だったのではないだろうか。

 一九九五年の災厄を経て、いつ日常が崩壊して非日常へ転じるかが分からない不安が社会全体に広まった。それこそが太田の述べた「“非日常”が“日常”と溶け合っ」た時代なのだ。
 加えて、オウム真理教や酒鬼薔薇聖斗事件を代表とする大事件により、非日常的な危険が日常と隣り合わせに存在していることを否応なく知覚してしまった時代でもある。そうして、これまで当然のように感じていた日常が希薄化してしまった。

 だが、そこで立ち止まってはいけない。人間が真に幸福を求めることができるのは日常の世界だけだ。失われていく日常を取り戻さなければ、予測不能の危機に苛まれることになる。それこそ、魔術世界に身をやつした結果、人間らしい最期を遂げられなかった荒耶や白純のように。

 非日常と日常が交わるように存在する現代社会において、非日常から日常へと回帰していく姿勢が必要不可欠である。そのことについて、式や幹也の生き様から読み解くことができる。
 そして、非日常から日常への回帰という考えが同時代の社会背景とリンクしていたからこそ、『空の境界』は「ゼロ年代」という時代において多くの人々に読まれて、今に至るまで読み継がれてきたのだ。




【『空の境界』年表】

1995年9月 2/殺人考察(前)

1998年6月 4/伽藍の洞

同年7月    3/痛覚残留

同年9月    1/俯瞰風景

同年年11月  5/矛盾螺旋

1999年1月 6/忘却録音

同年2月    7/殺人考察(後)

参考資料 サイト名→「空の境界」
参照日2018年11月10日 
http://www.typemoon.org/kara/main.html




【参考資料】

「劇場版 空の境界 第1章 俯瞰風景」
https://www.karanokyoukai.com/archive/index.html
参照日 2019年7月1日

『空の境界(上)』奈須きのこ
2007年11月 第1刷発行 講談社文庫 講談社

『空の境界(中)』2007年12月 第1刷発行

『空の境界(下)』2008年1月 第1刷発行

「劇場版 空の境界 公式サイト」
https://www.karanokyoukai.com/index.html
参照日 2018年11月10日

「空の境界 20周年記念 最前線」
https://sai-zen-sen.jp/sa/karanokyoukai-20th/
参照日 2019年7月1日

『TYPE-MOONの軌跡』著者 坂上秋成 監修 TYPE-MOON
2017年11月 第1刷発行 星海社新書 講談社

『ゼロ年代の想像力』宇野常寛
早川書房 2008年7月25日 初版発行

『ファウスト vol.3』2004年7月8日発行 講談社MOOK 講談社 347〜348頁

『サウスベリィの下で』原田宇陀児
初出『ファウスト vol.3』2004年

『怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る』竜騎士07
初出『ファウスト vol.6 sideA』2005年11月25日発行

『ファウスト vol.6 sideB』2005年12月20日発行 講談社MOOK 講談社

新編 日本国語大辞典(小学館)Japanknowledgeより引用
https://japanknowledge.com/library/
参照日 2019年6月1日

『永遠の伝奇小説 best1000』
2002年10月発行 学習研究社 学研プラス

「南山大学図書館報 デュナミス 8ページ目 ファンタジー文学入門」
http://office.nanzan-u.ac.jp/library/publi/item/dynamis50.pdf
参照日 2019年7月30日

『ファンタジーの冒険』小谷真理
1998年9月20日 第1刷発行 ちくま新書 筑摩書房

*奈須きのこが影響を受けた作家に関する記述
菊地秀行について→『ユリイカ9月臨時増刊号』2017年8月20日発行
49巻15号 青土社 「わが魂を象るもの」68頁

綾辻行人について→「WEBメフィスト 初めて衝撃を受けた講談社ノベルス」奈須きのこ
参照日 2019年6月1日
http://kodansha-novels.jp/mephisto/nasukinoko/index.html

笠井潔について→「奈須きのこ×武内崇 緊急インタビュー 笠井潔」
『ファウスト vol.1』2004年11月25日発行 講談社MOOK 講談社

『教養小説の展望と諸相』しんせい会 三修社 1980年10月発行
*本書より「ドイツ教養小説の系譜」柏原兵三 「ヘッセにおける「教養小説」問題」渡邊勝 を参考にした。

江戸川乱歩『江戸川乱歩全集 第27巻 続・幻影城』208頁
2004年3月発行 光文社文庫 光文社

『ユリイカ5月号』2008年5月1日発行 40巻6号 青土社
「さらに時代の先へ行くためにーアニメ版『空の境界』の挑戦」
「輝かしい星が見る夢 奈須きのこインタビュー」さやわか×奈須きのこ

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