現代文学の行く末は何処へ
いつもお疲れさまです。
↑のやつを恒例の挨拶文にしようかと思います。誰に求められたわけでもなく、ほんの思いつきです。
さて、今回のテーマは「文学の現状」についてです。こんなに文学の在り方について真剣に考える人間は、果たして私の年代で何人いることか……。愚痴はここまでにします。
日本を代表する文芸評論家に、柄谷行人という方がいらっしゃいます。
この方は著作『近代文学の終り』(2005年、インスクリプト)にて、「文学がかつてもった役割」が現代において機能しなくなったとして「近代文学の終焉」を宣告しています。
要は、社会規模で広く読まれる文学作品が消滅し、これからの時代は個々人が楽しむための娯楽作品が量産されるのみだと仰っているのです。
この宣告は、残念ながら2020年時点でも有効だと思われます。芥川・直木賞やノーベル文学賞の体たらくは言わずもがな、エンタメ小説やライトノベルが「吐き捨てる」ほどに出版されている現状を鑑みれば、一目瞭然でしょう。
この状況を一概に悪いと断ずることはできません。何故なら、純文学の衰退も娯楽小説の隆盛も、起きるべくして起きたと言えるからです。
J文学に難癖つけてみたり娯楽性は文学に不要だとか言ってみたりした一方で、純文学が目指すべき指針を何一つとして示さなかった人達が何年も偉ぶってきた末路が今の文学の情勢です。純文学はものの見事に剪定事象と見做されてしまったのです。
娯楽小説の中にも、文学に値する作品は数多く存在します。特にSF小説とミステリ小説の勃興には目を見張るものがあり、単なる娯楽に収まらない風刺性や哲学的見地はまさに文学と言えるでしょう。
こうした「まだ見ぬ可能性」に目もくれず、好き嫌いの物差しだけで評価してきたことで、純文学と娯楽小説の関係は逆転したのです。
純文学が衰退し、娯楽小説が台頭した今、ならば娯楽小説に迎合すれば文学は安泰なのかと言えば、私はそうではないと考えます。
何故なら、娯楽小説をただ量産するだけでは柄谷行人が提唱した「近代文学の終焉」という問題を何一つとして解決できないからです。
ここ何十年において、娯楽小説に限らず、小説というもの自体がまるで使い捨てのインスタント商品のように扱われていることは、皆さんも薄々感じていらっしゃるのではないでしょうか。
芥川・直木賞や本屋大賞などにノミネートされた作品が、発表後またたく間にBOOKOFFへ売り出されいることは最早日常と化しています。これは非常に虚しい光景です。
総務省統計局によれば、2018年時点での新刊書籍の総数は71,661冊で、そのうち文学部門は13,048冊になります。
*「第六九回日本統計年鑑 令和2年」総務省統計局を参照。
しかし、この中でベストセラーとなる書籍はほんのわずかでしかありません。しかも、ランキングでは前々から著名だった作家の作品や、映像化された作品が大半を占めています。
それに加えて、本屋に並んでいる書籍のうち、約4割が返品されているのです。
*「出版業界の今後はどうなる? 【2020年度版】」を参照。
このことから言えるのは、一部の人気作品を除いて、一定数の書籍が顧客の手に届かないまま版元へ送り返されて、いわば「倉庫の肥やし」となっているということです。
人気があってもBOOKOFFへ売られて、人気が無ければただの置き物となってしまう。それにも関わらず、大量の書籍ないし小説が刊行されていく。その扱われ方には、本に対する一切の尊重がありません。
この商法を突き詰めたのがライトノベルです。ライトノベル専門の公募であったり、「小説家になろう」などの小説投稿サイトであったり、様々なルートで書籍化がなされるようになったライトノベルですが、この界隈は一種の生存競争のように過酷なものとなっています。
せっかく書籍化までこぎつけた作品でも、売れ行きが伸びずに2〜3巻で打ち切りとなる、ということがしばしば起きます。今、持て囃されている作品は、数多の打ち切り作品の犠牲によって売れていると言っても過言ではないでしょう。
このような惨状を前にすれば、手放しで娯楽小説を称賛することはできかねます。「数打ちゃ当たる」戦法では、文学はただ衰退していく一方です。
大塚英志は「物語消費」という言葉で、東浩紀は「データベース消費」という言葉でもって、小説の「類型化と平板化」という問題を指摘しました。
要するに、似たような話が乱発して制作されてしまい、日本文学全体が没個性的な作風に陥ってしまうということです。ライトノベルの学園モノや「なろう系」をイメージしていただけると分かりやすいかと思われます。
大塚氏は1980年代後半に、東氏は2001年にそれぞれの自論を主張しましたが、その主張は未だに機能していることは、今の文学界隈を見ればよく分かります。
かつて小説が果たしていた社会的役割は終了し、代わりにどこもかしこも似たような娯楽小説が氾濫しているこのご時世。
さらには、漫画やゲームといった別ジャンルのコンテンツが「物語を伝える媒体」としての力を高めており、小説の特権性はいよいよ失われつつあります。もはや文学に為す術はないのでしょうか。
いえ、私は否と唱えます。
滅びを待つにはまだ時期尚早です。
ここは原点に立ち返って考えるべきです。
小説の源流を辿っていけば、「何故人は物語るのか」という問いにぶつかるはずです。
古くはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』から、人は物語を綴ってきました。それからも、神話や寓話、民間伝承など様々な形態によって物語は伝えられてきたわけですが、その根底にあるモノはたった一つに集約されると思います。
それは「教え(教訓)」です。
古今東西、数多の物語には一様に「教え」が込められています。人間の道徳心を説くものであったり、土地の歴史を伝えたり、と様々な「教え」を物語に託すことで、親から子へ、師から弟子へ、と語り継いできたのです。
昔話などは分かりやすい例だと思います。善行を積んだ村人はそれ相応の幸福を得て、その一方で悪行を重ねた村人には災いが降りかかる。勧善懲悪の思想が、物語を通して分かりやすく伝えられています。
この歴史を鑑みるならば、人は「教え」を説くために物語るのだと言えるでしょう。
ならば、現代の文学作品に「教え」は内包されているのでしょうか。
私個人の意見としては、今でも「教え」を有する作品は多く存在すると思います。例えば、伊藤計劃の『虐殺器官』(2007年、早川書房)や『ハーモニー』(2008年、早川書房)のように、SF小説のディストピア物で社会風刺を行う作品も執筆されています。社会風刺というのも、より良い社会を目指すための「教え」と捉えることができるでしょう。
ですが、現在の流行を見ると、こうした「教え」よりも「共感」を重視する傾向にあるように感じます。
エンタメ小説は基本的に「interesting」(=知的好奇心をくすぐられる面白さ)ではなく、「exciting」(=ハラハラドキドキする面白さ)が求められます。それ故、主人公に感情移入できるかどうかという点と、作中世界に没入できるかどうかという点を念頭に置いて物語が紡がれています。
エンタメ小説の創作指南を行う作家や専門家のお話を見聞する限り、やはりこの「共感」という考えを強調していらっしゃいます。
池井戸潤の著作が立て続けにドラマ化されたり、東野圭吾の著作が映像化に伴ってこれでもかと持て囃されたりしているのは、やはり彼らの作品には「共感」の要素が多分に含まれているからなのでしょう。阿部寛や大泉洋が熱血を注ぐ演技をする度に、サラリーマン世代の方々は胸を熱くするのです。
池井戸氏も東野氏も元を辿ればミステリ畑の作家というのが個人的には興味深いです。
ちなみに、直木三十五『巌流島』(1924年)のような時代小説や江戸川乱歩『D坂の殺人事件』(1925年)のような推理小説が娯楽小説と見做されていましたが、それからおよそ100年経った現在も似たような論争が続いていますね。
娯楽否定派の方には迎合したくないのですが、「教え」と「共感」の問題を鑑みると、彼らが否定したくなるのも分かるような気がします。「共感」の重視は「教え」の概念を軽視しているようにも見えますから。とはいえ、否定派の方は「教養主義」に溺れた印象があるので、やはりお仲間にはなりたくないです。
ならば、純文学に属する作品はどうかと言えば、「教え」らしいテーマが含まれているとはなかなか思えません。
例えば、芥川賞を受賞した上田岳弘の『ニムロッド』(2018年、講談社)は(2018年時点で)社会的に注目されていたビットコインを題材に取り上げています。ですが、一読した限り、この作品においてビットコインというガジェットがそれほど上手く機能していないように見受けられました。
最先端のテクノロジーとしてビットコインを取り上げてはいますが、現状を見れば分かるように、あまり社会全体に普及していません。ダークウェブ界隈では流行しているそうですが。
『ニムロッド』という作品はビットコインの紹介は出来ているのですが、物語性が幾分欠落しているように思います。お話らしいお話としての物語ではなく、物語るべきテーマの深みという意味での物語性が足りないのです。ビットコインに先見の明を見出そうとしたのが、かえって邪念と化してしまったのかもしれません。
そもそも、昨今の純文学はかつての自然主義が謳っていた「ありのままの現実・ありのままの人間」というものを未だに描こうとしている節があります。
某小説スクールの講師を務める作家さんはモロにこの主張をなさっていて、それを受講生らに推奨していらっしゃいました。
この自然主義的な思考の是非については、東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年、講談社現代新書)および『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)を読んでご判断くだされば幸いです。
ここで私が述べたいのは、「ありのままの現実・ありのままの人間」とやらを描こうとするあまり、他者へ物語るべき「ナニカ」を熟考できていないのではないかという懸念です。
いくら作中世界や登場人物にリアリティが持たせられたとしても、読者へ訴えたい思考や心が伴っていなければ、それは単に「良く出来たお話」にしかなりません。それこそ、柄谷氏が忌み嫌った「ただの物語」に他なりません。
文学であれ他の創作物であれ、他者へ物語るという意識を忘れてしまっては、通俗的な領域から脱することはできないでしょう。だからこそ、他者へ訴えたいモノについて一作品ごとに吟味していくことが大切だと考えます。
しかし、「売れる本」を第一に考える商業主義に侵された今の出版業界においては、一作品ごとの質を高めるよりも複数の作品を量産することの方が優先されるのでしょう。そうして物語ないし創作物は、インスタント商品のように消費され続けるのです。
とまぁ、ここまで一介のアマチュア物書きが偉そうに自論を述べましたが、やはり「教え」なくして物語は意味を成さないのだということは、文学に携わる全ての人々が意識しなければならないと強く思います。
こんな抽象的な問題、どうやってクリアすればいいんだというご意見はあると思います。そういう方には、ぜひとも文学評論の本を読んでいただきたいです。すぐに答えが見つかるわけではありませんが、物書きを志す上で必要な思考法は培われることでしょう。
そうして、一人でも多くの人が文学に対して親身に考えてくださるように、と願う今日この頃であります。
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