見出し画像

古典ヨガとサーンキヤ哲学の六行観

「世界の瞑想法」に書いた文章を転載します。


八支則


「古典ヨガ」というのは、インドで2-4世紀頃に編纂された「ヨガ・スートラ」の修行体系に代表される、伝統的なヨガです。

「古典ヨガ」の目的は、心を止滅させて、最終的に解脱することです。

サーンキヤ哲学を基にしているので、解脱は、「プルシャ」と呼ばれる純粋な意識こそが自分だと認識することで達成されます。

それには、純粋な意識以外の心の要素を、自分自身ではないと見極めて、手放していくことが必要です。

「ヨガ・スートラ」はそのためのヨガの方法を、8段階からなる階梯に体系化しています。

そのため「八支ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」とも呼ばれます。

心を止滅させるために、心を分析していくので、「ジュニャーナ・ヨガ」とも呼ばれます。

心を止滅させていく段階は、「ラージャ・ヨガ」とも呼ばれます。

「古典ヨガ」は、座って心のコントロールを行う瞑想法です。

「バガヴァット・ギータ」で語られるような、信仰的な方法(バクティ・ヨガ)でも、日常的な方法(カルマ・ヨガ)でもありません。

また、タントリズムの影響で生まれた「ハタ・ヨガ」のような、身体的、力動的な呼吸法や、プラーナの本格的な操作は見られません。

「ヨガ・スートラ」の8段階の階梯は次のようになっています。

①禁戒(ヤマ)
不殺生、不淫などの対他的な「すべきでないこと」です。

②勧戒(ニヤマ)
苦行や祈祷、足るを知るなどの対自的な「すべきこと」です。

③座法(アーサナ)
単に、安定した、快適な座り方でなければいけないとだけ書かれています。

④呼吸法(プラーナーヤーマ)
ハタ・ヨガのような多種の複雑な方法は説かれず、プラーナのコントロール(調気法)という意味合いは明瞭ではありません。
呼息・吸息よりも「クンバカ(止息)」を重視します。
また、おそらく最終目標と思われる、呼吸をしていないような僅かな呼吸を指す「第四の呼吸」につても言及されます。

⑤制感(プラティヤーハーラ)
感覚を外部の対象から分離して、意識を内部に向け、気が散らないようにすることです。

そして、最後の3つの段階は、総合的な精神コントロールとして結びついていて、「綜制(サンマヤ)」と呼ばれます。

⑥凝念(ダラーナ)
意識を外界や身体の一点、あるいは特定のイメージや観念に集中して、他の心の動きを消します。
一つの対象に対して、多面から集中することはあります。

⑦静慮(ディヤーナ、禅)
その一つの対象に対して、一面的に、かつ持続的に集中します。

⑧等持(サマディー、三昧)
対象と完全に一体化します。
「サマディー」とほぼ同義語として「定(サマーパッティー)」という言葉も使われます。


六行観


サンマヤやサマディーでは、その対象を粗大なものから微細なものに変えていきます。

最終的には対象をなくし、そして心を停止させます。

そのためには、心をコントロールする「修習」と、対象に対する「離欲」が必要です。

粗大なものから順次対象を見極めるのですが、それをサーンキヤ哲学に沿って行います。

その方法を「六行観」と呼びます。

有尋三昧→有伺三昧→有楽三昧→有我想三昧→無想三昧→無種子三昧

と進んで行きます。

この過程を進むには、心の働きを粗大なものから順に止めていく「修習」と「離欲」が必要とされます。

サマディーで一体化する対象がある段階は、「有想三昧」とか「有種子三昧」と呼ばれます。

まず、最初は、普通の物質的なもののイメージと一体化します。
これを「有尋三昧」と言います。

サーンキヤ哲学で言う、5大元素と11根(感覚器官、行動器官、マナス)を見極めます。

次に、物質的なイメージをなくし、非物質的なイメージと一体化します。
これを「有伺三昧」と言います。

サーンキヤ哲学で言う、微細な5大元素とアハンカーラ、ブッディを見極めます。

次に、非物質的なイメージをなくしていくと、対象が消滅したようになって、穏やかな心地良さだけがある状態になります。
これを、「有楽三昧」と言います。

次に、さらにそれもなくなり、心地良さも消滅して自分の存在感覚だけになります。
これを、「有我想三昧」と言います。
これはブッディに自己同一化する煩悩の働きです。

また、物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、客体そのものと一体化することを、「無尋定」、非物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、客体そのものと一体化することを、「無伺定」、と呼びます。

この時、内面が清澄になり、「直観的な智慧(プラジュニャー)」が現れ、どのような雑念も現れなくなります。

この一体化する対象がなくした段階は、「無想三昧」と言います。
ただ、無意識的な「潜在印象(行、サンスカーラ)」だけは残っています。

次の最終段階では、「直観的な智慧」も「潜在印象」もなくなり、心が完全に止滅した状態になります。
この段階は、「無種子三昧」と言います。

これは、サーンキヤ哲学によれば、心が完全に「プラクリティ(根本物質)」に戻り、「プルシャ(純粋意識)」がそれから分離して解脱した状態です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?