見出し画像

光の神秘主義1:有史以前とイラン

前回の投稿は、神秘主義的な神話における「鏡像」に関するテーマでしたが、その中で、意識の根源的な動きとしての「光」のヴィジョンについて触れました。
それで、今回は、「光の神秘主義」に関して書いてみたくなりました。

「光の神秘主義」というのは、至高神や根源神を、あるいは、意識の根源や極限を、無限の光、流出する光などとして体験するような神秘主義思想です。
その体験を哲学化したものは「光の形而上学」と呼ばれることもあります。

当稿は、古今東西の「光の神秘主義」の歴史というか、全体像の、私なりの簡単な紹介です。
最初に単純化したモデルは書きますが、難しい考察はしません。

前後編の予定で、この前編では、まず、「光」の体験とはどういうものかを説明してから、旧石器時代からあった「光の神秘主義」の源流、そして、最大の潮流と言えるイラン系の「光の神秘主義」について紹介します。



光の体験


「光/闇」を、「善/悪」や、「知/無知」、「天上/地下」、「意識/無意識」などの象徴とすることは、古今東西を問わず、広く存在します。

ですが、「光の神秘主義」は、あくまでも、光を比喩や象徴とする思想ではなく、「光」を直接体験する思想です。

例えば、太陽神の信仰は、かなり普遍的に存在します。
ですが、太陽信仰というだけでは、「光の神秘主義」ではありません。
それでも、「太陽神」と一体化するような体験を通して、抽象的な「光」そのものの体験に至れば、それは「光の神秘主義」となります。


意識の根源や極限を「光」として体験する、その体験とはどのようなものでしょうか?

例えば、日常的な心の働きを順次捨てていくことで意識の根源に至った時に体験されるもの、あるいは、光のイメージの強度を高めて意識の極限に至った時の体験でしょう。

その「光」は、溢れ出続ける、あるいは、爆発するような、「放射する光」です。
ですが、その光は、単純で均一なものではなく、微細で稠密な、無数の光が複雑に運動し、反射し、相互作用しています。

もちろん、主客の分離はなく、自分自身が「放射する光」であり、「放射される光」であるような体験です。

光と言っても、視覚的な光の体験であるという側面があると同時に、音でもあり、また、感覚を超えた体験としての「光」です。

それは、時間そのものであり、空間そのものである「光」です。
そして、なぜか意識や知性、生命を感じる「光」です。


こういった「光」の体験は、人間の魂の最奥に、至高存在に由来する「光」がある、とする神話や哲学を生みます。

そして、救済はこの「光」を認識することとなります。

また、身体内のプラーナや神経系を操作することで、「光」の体験を得たり、肉体を「光」で浄化したり、「光」の体に解消することも、説かれました。


「光の神秘主義」の世界観には、様々な違いがありますが、例えば、以下のようなモデルを語ることができると思います。

多くの伝統では、根源として「光」の前に、「無」を置きます。
視覚的には、暗黒ではなく、「薄明」のような体験とされることが多いのではないでしょうか。

そこから、「光源」が生まれ、「放射光」が生まれ、「反射光」になります。

あるいは、それが凝縮して「光の粒」になり、それが様々に連なって、例えば、「光の網」のように組織化されます。
あるいは、それが再度「放射光」になって、様々な色に「分光」します。

それらは、「空/太陽/太陽光/ブルーフィールド内視小光球/虹」などで表現されたり、「原母(原父)/父/母/息子/天使」などで表現されます。
また、神格としては、「無/一者/ソフィア/ロゴス/イデア」などでも表現されたりします。

・薄明 :空    :原母・原父:無
・光源 :太陽   :父    :一者
・放射光:太陽光  :母    :ソフィア
・光粒 :内視小光球:息子   :ロゴス
・分光 :虹    :天使   :イデア

地上における太陽が登る光景は、その物理的な側面を捨象することで抽象的な「光源」が生まれる内的視覚体験となり、さらに抽象的な強度を増すことで、視覚を越えた体験となります。

同様に、地上における太陽光が海面に反射して微細に輝く光景(ランボーが見た永遠?)は、抽象的な「放射光」や「反射光」の内的視覚体験となり、視覚を越えた体験となります。

空を見つめて見える、光の粒や、虹についても同様です。


「分光」や「光の網」の後には、「光」が光度を落としていく体験になります。

「意識の階梯」と「存在の階梯」が対応するというのは、神秘主義思想の基本的な世界観ですが、「光の神秘主義」の場合は、これが「光の階梯」とも対応します。


旧石器時代


有史以前の旧石器時代から、「光の神秘主義」の源流と呼べるようなものがあったようです。

世界中の洞窟壁画や岩に刻まれたペトログリフには、「内部閃光」と思われる図形が多数、描かれています。
「内部閃光」というのは、特殊な意識のもとで、特に洞窟などの暗闇で、人が見る、内から現れる光の図形です。

おそらく、旧石器時代には、成人のイニシエーション儀礼や、シャーマンが行う増殖儀礼において、洞窟内などで「内部閃光」が見られたのでしょう。

特徴的なものとしては、例えば、「光の弧」と呼ばれる特徴的な図形がありますが、この向こう側に半獣半人の精霊が描かれていたり、「光の弧」から動物が出て来るような絵が描かれていたりします。
この「光の弧」は、現世と魂の世界の出入口として体験されたのでしょう。

おそらく、洞窟は「動物の女主」や「太母」の子宮と考えられ、「内部閃光」は彼女の「生む力」と関係するものと考えられていたのでしょう。


また、岩壁や洞窟には、頭からは光を発するシャーマンの姿が描かれています。
多くのシャーマンは、シャーマンとなる途中で、強烈な「光」の体験を経験したり、イニシエーションのヴィジョンで「水晶」を体に入れられたりして、「霊視」能力を得ます。

この「光」は、暗闇と地下世界での視力、つまり、シャーマンのトランス状態での「霊視」能力を支える力の象徴です。
「水晶」は、「光」が凝縮したもので、天上界や太陽と関係した物質であると見なされていました。


また、以前の投稿でも紹介しましたが、旧石器時代の文化を色濃く残すアボリジニーでは、長老が青空に「光の粒」を見る瞑想を行います。

これは、天空の「水晶」のエネルギーに一体化して、そこに帰還する、死を前にした最終的なイニシエーションです。


これら洞窟内で見る「内部閃光」や、青空を見るアボリジニーの瞑想は、ゾクチェンの「青空のヨガ」、「暗黒のヨガ」につながるのでしょう。


イランの諸宗教


「光の神秘主義」の最大の潮流は、イランの諸宗教でしょう。

イラン人は、当時の文明の中心である中東を含む地で、メディア帝国、ペルシャ帝国など、最初期の大帝国を作ったことで、東西の諸宗教、諸思想に絶大な影響を与えました。

ミトラ(ミスラ)系諸宗教、ゾロアスター(マズダ)教、ミトラス教、マニ教、ヤジディ教、イスラム教シーア派、イスラム教ミール派などのイラン系の諸宗教は、光の表現が顕著で、光と闇の二元論的傾向を特徴とするものもあります。

イランの伝統的な神話宗教は、ゾロアスターの改革によって、ほとんど残っていません。
ですが、インドなど、他のインド・ヨーロッパ語族の神話との比較で、ある程度の類推をすることは可能です。

インド・ヨーロッパ語族の主神は、祭司階級の一対になる大神で、インド、イランではミトラ(ミスラ)/ヴァルナ(アパム・ナパート)であると推測されます(デュメジル「神々の構造: 印欧語族三区分イデオロギー」などを参照)。

そして、ミトラには、太陽、太陽光、昼天、火の神という光の性質がありました。
後世には、ミトラを主神とするミトラ系諸宗教が生まれました。


ゾロアスター教(「ゾロアスター教」という言葉は、イラン系の宗教としての広い意味で使われることがあるので、以下、マズダ教と表記)の文献は、ササン朝期に初めて記されたもので、それまでの1500年ほどは口承でしたので、開祖とされるゾロアスターの頃の実体については、はっきりしたことは分かりません。

ですが、イラン東北部で生まれたマズダ教は、マズダ(=アフラ・マズダ、智恵の主)を主神にした反伝統主義宗教となりました。

主神のマズダは、これに相当する神が他のインド・ヨーロッパ語族の主要神に見当たらないので、ゾロアスターの創作か、有名でなかった神でしょう。

マズダ教は、イランの伝統宗教で主神格だったミトラをただの死後の審判の神にし、ヴァルナ(アパム・ナパート)を消してマズダに吸収し、アーリア人の祖神的存在だったらしいアフリマンを悪神に落としめて、その他多くの伝統的な神々を悪魔にしました。

日本のイラン学者はほとんど語りませんが、イランの宗教の歴史は、ミトラ系諸宗教とマズダ教との闘争の歴史でもあります。
ちなみに、マズダ教がイラン人のみを対象とする民族宗教になったのに対して、ミトラ系諸宗教は民族を越えた宗教になりました。
ですが、どちらも、光の表現を重視する点は変わりません。

マズダは「智恵」の神ですが、光の神という性質も取り入れて、「無限光」とも表現されます。
また、マズダ教の宇宙論では、天国の最高層が「光明界」です。
そして、大天使達(アムシャ・スプンタ)は、光り輝く存在とされます。

そして、人間は太陽のように光輝く「原人間」のガヤ・マルタンの死体から作られたので、その魂の中には光があるはずです。

ですが、マズダ教は、魂の内奥の「光」を直観する神秘主義的な宗教ではなく、善を行うことを説く道徳宗教であり、光は善の象徴のようです。


オリエントの秘儀宗教の影響を受けたミトラス教(ミトラス秘儀)は、ローマ帝国内にも広く広がり、イギリスにも達しました。

ミトラス教の神話では、霧の海のソフィアにあった卵に、ズルワンの光が刺して、ミトラスが誕生します。

また、原人間がアフリマンに殺されて「光のかけら」となって地上に落ちますが、ミトラスがこの「光のかけら」を集めて、人間を創造して、その魂の中に入れます。

ミトラス教は秘儀宗教なので、魂の内奥のこの「光」を直観するという「光の神秘主義」の側面を持っています。


グノーシス主義の影響を受けたマニ教の神話でも、光の勢力である原人間が、闇の勢力の中に落ちます。

宇宙はこの光を分離・回収するための機械であり、人間の魂の中には未回収の光があります。
光の勢力は、光を回収するために、「光の友」、「偉大な建築者」、「生ける霊」、「第3の使者」、「輝くイエス」、「光の狩人(大いなる思考)」などの存在を次々と生み出しますが、これらは、いずれもミスラの諸相と考えられます。

マニ教はグノーシス主義の影響がある宗教なので、魂の内奥の「光」を直観するという側面があるはずなのですが、それよりも現世否定的な禁欲が強調される禁欲宗教のようです。


ヘレニズム期の「マグサイオイ文書」など、イランの宗教とカルデアの占星学が習合した思想では、7光線理論が生まれました。
ミトラが大熊座7星(あるいは、北斗七星)に象徴される7つの光線を発して、宇宙をコントロールするというものです。

つまり、根源的な「分光」が語られました。
「分光」の教義は、一種の象徴体系となります。


イスラム教シーア派


一神教であるイスラム教が勃興すると、アラブ、イラン世界では、二元論宗教のゾロアスター教、マニ教が衰退したのに対して、ミトラ教は一神教的なものと捉えられて生き残りました。

イスラム教シーア派は、イラン系宗教の影響を受ける一方、ミトラ系などの諸派がシーア派を名乗るようになった(グラートと呼ばれる)ため、これらは光を重視します。

シーア派の宇宙創造論では、至高存在を「神の光」と表現し、それが「ムハンマド的光」に凝縮します。
これは、原人間のシーア派ヴァージョンです。

さらに、これが「内的な光」と「外的な光」に分かれます。
「外的な光」からは預言者と預言が、「内的な光」からイマームと預言の内的意味が現われます。
シーア派の霊的指導者であるイマームの本質は光の世界にあります。
シーア派は、イスラム教における秘教であると言えます。


イスマーイール派は、シーア派の中でも秘教性の高い派です。
この派では、信者の中にある光を育てることで、順次、人間や寺院が、上昇していくと説きます。

まず信仰によって「一条の光」が信者の魂と結びつきます。
この「光」は信者の行動によって「光の形・性質」として育ち、信者を1つ上の位階の存在と結びつけます。

位階の上層には1人のイマームと多数の「光の形・性質」を中心とする「光の寺院」が存在し、やがて、寺院自体が位階を上昇します。

そして、やがて、7人のイマームによる「光の寺院」が結びつき、「至高の光の寺院」が生まれます。


イラン最大の哲学者のスフラワルディー(12C)は、「光の神秘主義」の哲学の大成者で、「照明学派(イシュラーク派)」の祖です。
彼は、様々な宗教、哲学、神秘主義の伝統の統合を目指し、ミトラ教の世界観を主軸として、プラトン的なイデア論とゾロアスター教の天使論を統合しました。

彼は、存在を、光の強度の階梯として捉えます。

至高存在は「光の光」と表現され、次に、「至近の光」が存在します。
これから縦の階層の諸天使が生み出されるですが、これは「光」が徐々に強度を弱めていくプセスです。
この縦に貫く光は「勝利の光」と呼ばれます。

各階層にはイデア的存在の知性体が生まれますが、これは普遍概念ではなく光として実体を持つ個体とされます。
そして、その下に「光の司令官」と呼ばれる天使が生み出されます。


*後編に続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?