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㈱モアミザンと映画監督・神保の出会い-2 / コンテクスト・デザインとソーシャル・ディスタンス

前回は、映画監督の僕が映像制作会社モアミザンにどうして参画したのか、代表・奥野との出会たきっかけを軸に綴ってみました。

そのうえで、下記3点を留保していました。

1. 福岡市(the design organisation)主催のイベントCreative Meetupで、僕と奥野(the contextual entity)が出会ったという事象において、デザインされていたのはどこからどこまでか

2. 僕が移住後初めて会った映像関係者が奥野だったという偶然は、紐解くとどういうことなのか?

3. 2019年8月末に「これだ」と僕が思うまでに積み重なった要素を分解すると、どんな要素がどれくらい堆積しているか

これら3点を、「コンテクスト・デザインとソーシャル・ディスタンス」という話題から説明できればと思います。

日本語というのは本当に難しい言語だと思うのですが、特にカタカナ語、横文字というのはかなり厄介です。ダイバーシティ、イノベーション、レジリエンスなどなど、使うとカッコよさげだけれども中身が置いてけぼりになりやすくもあります。

「コンテクスト・デザイン」もまさにそれで、「コンテクスト・デザイン」と他人に話してその内容をスッと掴んでもらえる確率は極めて低いでしょう。
そして、何よりこの言葉を使う当人にとってもトラップなのは、「コンテクスト・デザイン」というのは和製英語で、英語だとcontextual designなのだということです。
contextual (形容詞)+design(名詞)、つまり、「文脈的デザイン」です。

 「コンテクスト・デザイン」と言ったとき、日本人の頭の中には、英語で言うとdesigning(動名詞)+ context (目的語)という構文がおそらく思い浮かびます。
これだと非常にマズくて、何がマズいかというと、コンテクストはデザインできるものだと思ってしまう。言い換えると、目的(目的語)になってしまうからです。

僕の考えでは、コンテクストというのは結果です。ある程度もちろんデザインできる部分はあるかと思うのですが、contextualなdesignの結果contextが出てくるのであって、直接的にcontextがdesignできる確率はそんなに高くないということです。

最近の他の言葉でも、和製英語と英語がもたらすニュアンスの差を説明しておきましょう。
皆さんこの1年半でお馴染みの、「ソーシャル・ディスタンス」。
横文字だとsocial(形容詞)+ distance(名詞)で「社会的に距離があること」。

英語ではsocial distancingです。
social(形容詞)+distancing(動名詞)、つまり「(感染拡大を防ぐため)物理的に距離を離しながら生活すること」。

後者には概要+「distancingの内容はちゃんと各自考えてね」という、動名詞さんかたの些かの指示が含まれているわけです。一方名詞のdistanceに指示はないわけです。かなり違いませんでしょうか。

重箱の隅をつつく的な指摘かもしれませんが、コンテクスト・デザイン(いちいちコンテクスチュアル・デザインと言っても面倒なので便宜的にこう言いますが)は「コンテクストをデザインすること」ではないという点は、本記事で最もお伝えしたいことです。

ここで、留保していた3点に戻ります。

1. 福岡市(the design organisation)主催のイベントCreative Meetupで、僕と奥野(the contextual entity)が出会ったという事象において、デザインされていたのはどこからどこまでか
→福岡市(デザイン主体)は、僕と奥野という文脈上の存在を想定することはできます。しかし、出会うか出会わないか、波長が合うか合わないかまではコントロールすることができません。現に、僕と奥野とのコラボレーションがcontextとして立ち上がってきたのは最初に出会ってから3年半後でした

2. 僕が移住後初めて会った映像関係者が奥野だったという偶然は、紐解くとどういうことなのか?
→これは、福岡市(デザイン主体)もまた何らかのコンテクストの上にいるということです。算数の授業でベン図というのがありますが、僕と奥野の張っていたアンテナ(僕は移住先での事始めアンテナ、奥野は事業立ち上げアンテナ)がオーバーラップするところに、福岡市が乗っているコンテクストが走っていたということになります。これは、いうなれば「都市の文脈」ということになるかと思います。福岡市がMeet Upと呼ばれるようなイベントを推進してきた流れの中に、僕と奥野の出会いというのはあるわけです

3. 2019年8月末に「これだ」と僕が思うまでに積み重なった要素を分解すると、どんな要素がどれくらい堆積しているか
→自分でネタを提起しておきながらなんなのですが、人と人との出会いのダイナミズムというのは定量化が正直いって難しいです。しかし、僕がよく使っている喩えでは「ジェンガが崩れるのを逆再生している感じ」というのが、「この人と会ったほうがいい」「この人に今会いに行ったほうがいい」という引力的なものを感じるときにはあります。
つまり、僕にとっての「コラボレーター」というのは、第一条件としてジェンガのブロック個数ぐらい共通項がある人で、なおかつ、散らばったジェンガを一緒に浮遊させて元の形に戻せるような謎の力を感じるような人だということです。

なかなか話がうさんくさくなってきたところで、止めておきたいと思います。次回は、これまでの記事を受けて、代表・奥野に書いてもらおうと思います。

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