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わたしのこと

わたしは、俗に「偏屈」と言われるようなひとです。
社会を斜め上から見下ろした気になっている、
そして友人達にもそれが透けて見えるような話し方をしている。
でも、そのことに自覚的であって、
相手を不快にさせないよう、節度を持って言葉を選ぶことはできます。
さらに、勉強やスポーツも人並み以上に出来てしまうから厄介です。自己肯定感を挫かれることなくここまで生きてきてしまいました。
なぜ自己肯定感を挫かれることなく生きてきたことが厄介なのか、というと
一言で表すと「傲慢」になったからです。
そして自分が傲慢であることをひた隠しにする賢さを持ち合わせてしまっている。

こういった人格なので
自己肯定感の高い自分と、その自分を卑しく思う自分が、わたしの中に2人存在しているような感覚で日々を過ごしています。
ただ、友人からの評価は、いいです(これもわたしの人格をねじれさせる1つの要因ですが)。
理論家で少し変わってはいるものの、物知りで聡明な人、といった印象でしょうか。

ここまで書いておいてなんなのですが、
わたしはこの人格のねじれた部分を含めて自分を愛しています。このねじれを汲み取った人に「偏屈」と形容されることは、わたしにとってはとても嬉しいことです。自分を卑しく思う自分と、周りから評価される自分との間の葛藤が、たくさんの文章や芸術や音楽との出会いを生み、わたしの内面世界を深くしたのですから。

わたしのような人が結婚をする時、どんな人を選ぶと想像するでしょうか。

・自分の二面性に共感でき、気持ちを理解してくれる人
・二面性があることに気が付きつつも、言葉には出さずそっと見守ってくれる人
・内省的であり、内面世界が深い人

わたしが当初理想として掲げていた条件です。
でも、大人になり
この条件を満たす人と私とでは、うまくいかないのではないかと思い始めます。
自分の二面性に共感できる人がもしいたとしたら、感受性の豊かなその人は、わたしが日常的に積み重ねる振る舞いの影に、わたしの汚い部分を見ることになるでしょう。それが苦痛になるだろうと考えたのです。そしてその人は、きっとわたしと似たもの同士です。自分に似た人と結婚したいとは到底思えませんでした。

そして最終的に結婚したのが、Tでした。

Tを一言で表すと、「純粋」。
人の言葉を疑わない。人が言葉に出したことは真実なのだと信じている人です。
信じている、というと少しいい言い方すぎるかもしれません。性格の悪い言い方をすると、真実と思うしかない、のだと思います。その奥に何かあるかも知れないとか、そういったことにまで考えが及ばないようです。
でも、それが心地よく感じました。
わたしの中に立ち入って来ない人。そして、わたしの説明が必要のない人。
そういう人だから、彼の前では私も、単一の人格になるような感覚がありました。彼の前では、わたしの愛する2人の別人格を戦わせることが無意味だからだと思います。
これが今までにない感覚で、「恋人の前では素直になれる」という人はこういう感覚を感じているのかな」なんて考えました。

こんなわたしが、
結婚してみて感じたこと
いいことも悪いことも含めて
書いていこうと思います。
もちろんTには内緒ですよ。

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