羊13人

「羊飼いさん。ほどいておくれ。屍食狼(ジャッカル)がすぐそこまで来ているよ」
 半裸で鎖に繋がれ、引かれるがままの男が嘆願する。

「……しつこい野郎だな。奴隷と口は利けない。その嘘も聞き飽きた。今度のは、持ち芸の数も身分相応か?なあ、相棒」
 言った奴隷運びは白々しく、隣席でラクダに鞭を振るう同僚にお鉢を回した。
「俺もうんざりだ。お前の独り言だかのあてにされるのは」
 それきり隣の奴隷運びは黙りこくってしまった。


 ざむ。ざむ。ラクダの蹄が砂地に食い込む。二頭立てのラクダ車に牽かれ、奴隷の列が宿場の人々を掻き分けて行く。その数13人。奴隷に身をやつした罪人や捕虜や貧農たちは、木製の手枷を鉄鎖で数珠繋ぎにされて歩かされている。頭と足は自由だ。しかし日陰へ逃げ込めはせず、もたつけば前後の者の重石となり、恵みを乞うも罷りならず、すれ違う自由民たちからは、品定めする視線が見え隠れするのみ。あるいは石礫や、糞ならばもたらされた。
 若い捕虜は、初めの何十回かは悪意を逐一投げ返そうとしていた。年老いた捕虜は、投げる立場でいたこともあったのを反芻して、悟り紛いのものに閉じ籠もっていた。貧農の次男坊は張り付きかけた舌で御者席へ熱弁していたが、内容といえば狼が追って来る、解放しろの一点張りだった。三男坊は次男坊を諫め疲れて、背に縋り付いたまま夢現に歩を進めていた。四男坊は末の妹が着けていたミサンガを噛み締めて鎖を引く。妹は最後尾で死に、全員に引きずられていた。

 御者と奴隷の間、ラクダ車の屋根の内では奴隷商が、辺りの事情通から近道を聞き出していた。外にラクダを寄せている事情通が交渉を長引かせると、忌々しげに銀貨袋をもう一つくれてやり、納得させる。事情通とは別れ、やがて一行は街道からも逸れて、黄塵吹き荒ぶ砂の海へと進路を構え直した。


 ……罪人の一人は、砂漠へ向かう足を必死で踏ん張ろうとし、何事か喚き散らす。もっとも何倍もの生きた足と二頭のラクダに対しては成す術もない。異教の行脚僧であった男と意思疎通ができる者はおらず、関心もまた、なかった。


///

 夕闇が陰ると、奴隷商と運搬人は焚き火を囲んで、干し葡萄やチーズや麵包を飲み食いした。薪を探してきたのは奴隷たちで、砂に引いた線の向こうだ。

 ターバンを巻き、髭を豊かに蓄えた奴隷商は人数を数え、改めて宣告する。
「お前らは家畜と同じだ。立って、話もするが、儂らを満足させる為だけに飼われとるのだ。嵩ばかり取るようなら厄介払いするのみだぞ。代わりはおる。仰っ山、おる。うん。それが定めだ」
 そして食べ物を数切れ投げた。奴隷たちがワッと集る。枷が手と口を隔てるので、まるっきり犬食いだ。奴隷商は手を叩いて喜ぶ。本来十全に行き渡る量支給されている食料を、かく限定しているのは彼個人の大食である。奴隷運びの愛想笑いが、月下の砂漠に響き渡った。


 奴隷の輪の外で、調子っ外れな悲鳴が上がる。声は、もっぱら貧農の末妹の遺体に張り付いてばかりいた、元僧侶によるものであった。朦朧とした意識の中で、おぞましい霞状の何者かが遺体に浸入していく決定的瞬間を目撃したのだ。そう、人けの絶えた砂漠地帯には幽精(ジン)の悪玉が出没し、身を許した死者は屍鬼(グール)と化してしまう。これこそ危惧していた事態だが、生命十字(アンク)すら没収されている今、番をしてやる以外さしたる手立てもない。そして案の定とすべきか、それが来たる惨劇の歯止めとはなることは無かった!
 遺体の実兄たちは奪い取った糧を分かち合うことと、体力を温存すること、つまりは生き延びることに掛かり切りであった。夜露を舐めていた柄の悪い罪人が舌打ちし、いつまでも喚き止まない僧侶を手枷の角で殴り飛ばした。静まった僧侶から、皆が情け半分に寄越したパンを奪い、頬張って見せる。構う者など居ない。
 奴隷商は安全圏から嘲笑った。まさしく呵々大笑の有り様で。


///

 翌日の出発直後の事であった。
「おうーい。兄い」
 列の後方から、貧農の四男坊の声がした。歩きながらでは振り向けないが、声色だけでも伝わってくる。久しぶりに嬉しそうなのが。半ば狂いかけている先頭の次男坊も、痩せた土地をほじくり返しながら兄弟たちの音頭を取った日々の心を、束の間蘇らせた。
「聞こえてるぞ。どしたい!」
「妹が生き返っただ!おらを……」

「お前を?」
「おらを、食ってる!すごく元気だ!」

「……へえ!やめさせるように言っておけよ!」
 次男坊は涙ぐんでしまった。真に受けたのではない。弟が、自分と同じ側に染まり始めているのが察せたからだ。悲しかった。嬉しかった。
 それきり四男坊の声はしなくなった。


///

 さながら凍り付いた波頭のようである、けれど灼熱帯びた砂の丘を、何度も何度も、綱もなく登らされた。砂漠は渺茫と視界を占め、代わり映えしない。
 再々犯の空き巣魔は、俯き歩き、頻繁につまづく。一見しおらしいのも、策の内。男にとって道中は脱走用具の見本市にも等しかった。地面へ手を突く度に、少しずつ大きい石を鎖の穴へ詰めて捨てる。堅固な金輪も、広げてしまえば脆い。障害という障害は一つ後ろののろまなじじいぐらいだったが、そちらの鎖も先程からなぜか軽かった。

 この調子なら、南中の頃に鎖は千切れるな。男が太陽の高さを眺めてそう見当を付けていると、すぐ背後から上腕を掴まれた。いや、それは歯がない口だ。
 罪人はじじいの顔を肘鉄でぶっ飛ばしてやった。おああ、気のない声が返る。これだ。足を引っ張らなくなったのはいいが、何の仕返しのつもりか、やたらに噛み付いてくるようになった。巻き添えに逃がしてやると伝えたのに、腹の立つ。


 好都合な石を見つけて男がしゃがむと、また噛み付いて来た。
「いい加減にしろよ、俺は」
 いや、それは歯のある口だ。明確な殺意とともに、仔羊(ラム)一切れほどの肉が噛み千切られる。

「ちきしょう!やりやがった……な……?」
 身を引いた拍子に鎖が切れた。そんなことより衝撃的だったのは、空き巣魔男より後ろの五人が全員、全員だ。いつの間にやら、虚ろに萎んだ眼、枷をものともせぬ、まっすぐ強張らせた両腕、奇怪なうめき声を反復するグールと成りさらばえており、疲れ知らずの体で横並びになって追いかけて来ていたことだ。今しがたの肉片を偏執的に咀嚼するのは他でもない、昨晩擦過死体だった娘ではないか。

 空き巣魔男は逃げた。なにしろ自由だ。太陽の方へ。グールは付いてくる。
 砂丘の影へ逃げた。グールは付いてくる。来た側へ。無駄だ。わかりきっている。後ろとの鎖は繋がったままなのだから。壊すのにまた三日は要する。眩暈のする事実。

「助けてえ!大商人様!こいつらバケモンです!俺を殺す気だ!殺してくれ!」


「聞き飽きたよ!」
 一瞥もせず、短い返事が返って来た。空き巣魔は放心して、熱砂に寝ころんだ。体に落ちる影が五つ。


///

 その夜。僧侶以降の六名が忽然と消えていたので、奴隷商は腹いせに奴隷を、特に僧侶の背をラクダ鞭で打ち据えた。連帯責任を自覚させねばならんし、宗派の別に拘わらず大抵一銭の利にもならぬ坊主という存在が、まず以て鼻持ちならない。
 今期の奴隷競売は明晩に迫っており、ただでさえ押している。社に巣食う能無しのせいでこのような行程の省略と野宿続きを強いられ、挙げ句には集団逃亡だ。損益を天秤にかければ、補充に奔走しているような猶予は到底無い。耳慣れぬ経を上げて耐える僧侶の姿が、要領を得ぬ方便を通そうとするので出先で放逐した能無しと重なり、鞭にいっそうの力が籠もった。


 廃集落には日用に堪えない涸れかけの井戸と、廃屋ばかり。早くも殴り疲れたようで、肩を怒らせた奴隷商は掘っ立て小屋の奥へと休みに入った。運搬人の二人組が片方ずつ表に立ち、奴隷たちの動向を監視する。水は汲んだし、糧食も口にしただろう。奴隷らは野外に閉め出して。

「痛むのか」
 捕虜が捕虜に言った。憔悴した背中を気遣うのは筋骨隆々の女だ。侵略先のこの地で生け捕りされ奴隷の烙印を押される、遥か以前から帰化兵であった女にしてみれば、文民がする鞭打ちなぞは手緩い範疇だし、元より自由とは無いものだった。

「……調子づくなよ未開人。貴様はまだ帝国の戦奴だ。覚えておけ」
 と、絞り出した若い捕虜の声からも、昨日までの猪武者っぷりが失せている。ふんぞり返った人買いども、抜け駆けしやがった奴隷たち、いずれも八つ裂きにしてやりたい。鎖さえ無ければ。つま先が砂を掻いた。


///

 元戦奴の女は夜半に身を固くした。小賢しく殺しているが足音がする。野盗。寝返りを装って鎖を巻き、両隣を覚醒させておく。
 小屋に凭れかかっていた運搬人も寝ぼけ眼を擦った。小走りにそちらへ向かう足を、女の水面蹴りが音もなく払う。後続も出鼻を挫かれ、一人、二人とつまづいた。

「賊だ!」
 運搬人が室内へ伝え、半月刀(シャムシール)を抜剣した。かかってきた盗賊を引き受けておき、聞き付けた相方が戸口の陰から撫で斬りに仕留める。そのやり口でさらに一人、二人。盗賊が焚き火をはたき消すが、奴隷運びの足下では水差し型のランプが抜かりなく灯っている。転んだ数人は、奴隷たちが組み敷いていた。奴隷商がのこのこと現れた頃には、夜襲は収束していた。


「さてはお前ら。街道の情報屋とグルか?図星だろう」
 首謀らしき者を、奴隷商が問い詰めた。寝酒を呷りがてらに。廃集落を根城とする賊は数週間前に誅滅され、今は穴場だと聞いており、生じ難い食い違いがある。盗賊は是とも非とも答えない。
「ま、何であろうと構わんわ。減った奴隷の都合が付いたによってな」
 息のある六名に、奴隷運びたちは予備の枷を嵌め終えた。奴隷商は、働きの良かった元捕虜たちに餌をやって楽しみ、寝た。

 貧農や罪人は、隣人が飲食にありつく様に、ささくれた喉を鳴らす。ぐったりした僧侶の周りでは、ぶんぶんと蝿が飛び交って止まない。
「嫌だ……。ジャッカルが来る。知らんぞ……」
 貧農の次男坊は凶夢にうなされている如くに繰り返した。


///

 三男坊は、寒気と飢餓感と兄の繰り言で一晩中まんじりともしなかった。未だ朝には早い。眠る奴隷列の後方、弟の繋がれていた箇所は、やさぐれた野盗の男に置き換わっている。覚束ない頭に不道徳な感情が去来する。しかし俺たちを売った親ですら、兄弟で憎しみ合えとは望まないだろう。

 薄れてゆく金星を見て、兄を見た。それから崩落した塀の向こうに、逃げ去った奴隷たちの姿を見た。そろそろ兄を憐れむ資格もないな、と見えたものを一蹴し、宵の口に発見したラクダの白骨へと散漫な注意を移した。だがもう一度だけ幻覚をよく見ておいた。四男坊が見えたが、ミサンガはどこへやら、それを噛み上げていた顎もだらしなく下がっている。妹も歩いている。形見を遺した当人が。

 六人ともども塀を回り込んで来て、どうするのかと思えば、手近な次男坊に、寄って集って齧り付こうとする。三男坊は咄嗟に立ち塞がっていた。己の行動に驚きながら、三男坊は全身をグールに供した。燃えるような激痛が身中を駆け巡る、と同時に、傷を媒介に底冷えする代物が移り住んでくるのをありありと感じた。死が。未知に恐れおののく奴隷を、既に無数の歯が食らい付いて離さない。

「みんな、起きるだ!食われるだぞ!――」
 今しも出かかった言葉が、喉笛を剥ぎ取られて泡立つ。グールの朝餉は緩慢で、生きながらあふれ出した体液が、無尽蔵の砂に静かに、静かに吸われてゆくのだった。


///

 外が余りに騒がしくなったので、人買いたちも起き出した。奴隷商は車の陰から、ただ枷付きの奴隷が増えていた違和感だけを見て取り、合点して述べた。
「ほっほっほ。脱走は諦めたか。まだしも可愛げがあったの。よかろ。値は落とすが、望み通り売ってやる」
 血みどろの争いを繰り広げる奴隷とグールをよそに、人足に高級品を積み直させ、ラクダを繋ぎ直そうとする。貧農の次男坊はこれを逃さじと縋り付き、奴隷商のサンダルを抱いておいおい泣いた。

「羊飼いさん。ご覧よ、あれは羊じゃない。本物のジャッカルだよ。ほどいてくれ。弟たちも行ってしまった。畑に帰らせて。お願いだよ」
 異口同音に、奴隷たちは窮状を訴える。


 奴隷商は貧農を蹴り、振り払った。
「羊が鳴く日だわい」
 ぼやいて車上への梯子を上り、天鵞絨地に象嵌の入った豪勢な椅子にどっかと腰を下ろす。髭をすき、欠伸する御者たちにさっさと車を出すよう促した。なるほど奴隷が、醜い内輪揉めを起こした。物狂いが出任せで気を引こうとした。それでどうしたと言うのだ。全く今に始まった事ではない。

 やがて車輪が回転し始め、奴隷やその残骸を否が応にも牽引していく。

「人でなしめ、畜生はあんたらの方だ!」
 野盗の一人が、仲間の顔をした者に肘から先をしゃぶられながら罵った。


///

 目の前に、生皮を捲られててらてらと紅白色に光る三男坊が、肉を探し辛うじて動いている。その物体に足の指先を齧り取られそうになるのを、幾度も躱す。
 若い捕虜は引きずられながら立てず、呆然自失としていた。日射が蚯蚓腫れの肌を焼くが、訓練が鍛えた体は余力を宿している。今まで彼は、降りかかる苦難を帝国の名の下に斬って捨てるのが常であった。例えば牛糞を放り込んでくるような狼藉の輩を、見逃した事は無かった。一晩中鞭打たれて諾々と許すなどありえなかった。極め付けに、死のない亡者たちが押し寄せた事で、彼の世界は瓦解した。
 殺し、殺される為に剣を振るってきたのだ。縛られ無為な餌となる為では断じてない。
「糞だ。なんだ、ここは。戦場でさえない」


 背後では逃亡していた六名のグールが、列の外から鼻を捥ぎ、耳を捥ぎ、残る無防備な肉を目指して攻め上る。対して若い捕虜の後ろの奴隷は猛然として立ち回り、グールたちにぶら下がる鎖で、見境のない彼ら自身を絡み合わせ、一時は止めた。既にグール側に転じた列内の者を、仕留め切れぬまでもあしらいつつ。
 そして捕虜の男に言った。

「立て」
「糞だ」
「立て!」
 後ろの者が彼の首を強引に振り向かせ、枷から突き出したままの手で揺さぶった。それは同じ、生きた捕虜だ。
 元戦奴の女の侮蔑に爛々たる眼差しが、男を射ていた。
「なぜ立たない。奴隷は生き恥か?ならば手枷と死ぬるが帝国兵殿の本懐だな。私の国を降し、従えた者の言がそれという訳だ。千切った舌でも飲んで死ね。轡はない」
「言わせておけば。俺は帰るのだ。帝国の土が待っている」
「だったら歩け!死ぬ気で足掻け、死ぬまでは!足がある内に再び座ってみろ。私は誇りにかけてお前を殺す!」
 そのような物言いは極めて許し難かった。飼われる戦奴の分際で。偉大な帝国に向かって。若い捕虜は、枷の重みを振って立ち上がった。


///

 熱風が掻いては埋めてゆく、無数の足跡の合間に、踏みしだかれた骸が末路を晒している。僧侶の脱水死体は誰知らず手を砕かれて枷を脱し、而して砂漠の広さを墓とした。

 車上に座す人買いたちの耳には、気の滅入るうめき声の合唱の中で、貧農の次男坊の声だけが一貫して響き続けた。
「羊飼いさん、ほどいてくれ!狼が……本当なんだ、大変だ、今度こそ…………狼が。もう、誰も、誰も!……そうか。いや、なんでもない」
 次男坊の言葉は何か急速に冷静さを取り戻していった。御者も奴隷商も、少し薄気味が悪い。

 そこから砂時計が四半ほど進んだ頃。うめき声が一向に止まないので、奴隷商は折れた。渋々後部の帳を上げて様子を窺ってみると、呑気なラクダの足取りには優に追い付ける程の健脚で、13頭のグールが互いを踏み台にしながら、車上によじ登らんとしている真っ最中だった。膝が反対になった者。鼻の痕から脳がまろび出した者。袈裟掛けに断裂して埃にまみれるばかりの下半身。この期に及んで相食む者。見るだに、見るだに、生ける存在の絶無が浮き彫りになる。奴隷商は身の毛がよだつ思いがした。

「い、急いでくれ!」
 奴隷商は必死で御者たちを急かした。

「やってますよ。ほら、あれ、もう城壁です。競売には間に合うはず……」
「そんな悠長ではいかん!殺される!全速力で駆け込んでくれ!礼も弾む!」
「ええ?まあご命令だ、やりますが。売り場の奴らがそんな性悪を言い出すことってありますかね?それに折角の奴隷共を死なせちまったら、元も子も」
「死んどる!もう死んどるから言うとるのだ!構うなと言うに!ああ!」
 乗り心地も顧みず、ラクダは疾走した。再び奴隷商が恐る恐る振り向いていく途中で、ラクダ車が大きく揺れる。思わず奴隷商は肘掛けに、その二重あごには何か生暖かい手がしがみ付く。言葉通り仰天して見れば、顔面蒼白の次男坊が立っていて、奴隷商の背凭れを引き倒し、喉首に覆いかぶさった。積み荷に鮮血がしぶいて散り、乳呑み児に似て丸い商人の指が、痙攣、弛緩、硬直する。

 貧農の次男坊は生前、屠畜経験があった。血溜まりの底から、この世のものとは思えぬ雄叫びが放たれた。


 異音を聞き、ついに奴隷運び二人も状況を知るに至った。饒舌な方の運搬人は雇い主の頓死を目の当たりにし、半狂乱だ。相手が食い詰め盗賊程度ならば両の指に余るほど切り抜けてきたが、死人に襲われた試しはそうあろう筈もない。グールは御者席へとにじり寄る。車から飛び降りようとする相方を、寡黙な方の運搬人がものぐさに止めた。
「おい。いいから落ち着け。ラクダも少し抑えろ」
「お前、これが、慌てずにられっかよ!」
 なおも言い止まぬ同僚の為に、彼は顎で差す。

 確かにグールはその時、ラクダ車の中程で止まった。なんのことはない、鎖が張っている。根元は車の後端だ。
 黙っていた運搬人はシャムシールを抜き、ちょんとグールの首を刎ねた。傷口から再殺量の霊的物質が漏れ出し、大気に溶ける。脅威はただの死体に戻った。それから奴隷商の服装をあえて乱し、死体を二つ、押して落とす。どすん。死肉の階段を、主に椅子と肥満体が潰し、砂煙がもくもくと起こった。


 饒舌な方は目を瞬いてしまった。寡黙な方は剣を担いだまま、また起き上がるグールたちを数え始めた。
「ひいふう……十三人、動いてんだろ。約束通り。送り届けて金にするぞ。
 奴隷の内訳がバケモンだろうが雇い主だろうが、俺らとあっちの奴隷番、下っ端連中には関わりのねえ話だ。証文もある。丸一週働いて駄賃なしってんじゃ食ってけねえからな。んで貰うもん貰ったら、おさらば次の町へ、だ。後あ知らねえ」
「……そうかな。そうだよな」
「そうだ」


 熱気に揺らぐ奴隷市へ、ラクダ車はひた進む。13頭のグールたちの血の通わぬうめき声が、付かず離れずで轍をなぞった。最後尾には鎖も枷もない、もたつく奴隷商を新たに加えて。

 その年の競売は荒れた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?