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【短編】優しいあなたが笑ってくれれば幸せだ
仕事が楽しい坂下未来はまだまだ子どもを持つことを考えられない。大学の友人と話したことをきっかけに、夫の勝也に子どもが欲しいか尋ねるが、話は斜め上に進み始める。
仕事は楽しいし、あなたがいれば幸せだし。
ぴぴぴぴぴぴぴ–。
どこの家庭でも聞かれるだろう、どこか安っぽい電子音が鳴る。未来は目覚まし時計を乱暴に止めると布団を頭からかぶった。しばらくして、ガバリと飛び起きる。枕元で充電していたスマホを引っつかんで日付と曜日、予定を確認する。–間違いない。今日は出社の日だ。
「ああもう!眠い!」
寒けりゃ眠い、暑いと寝苦しくて睡眠不足で眠い、春と秋は季節の変わり目で眠い。眠くない季節などないではないかと胸中で悪態をつきながら部屋を出る。服は自室だがまずは顔を洗って朝食である。未来に朝食を抜くという選択肢はない。寝る時間を確保しようと以前試したことがあるが空腹で頭が使い物にならなかった。
「おお、良い味噌汁あるじゃん」
キッチンを漁りながら、カップのインスタント味噌汁を見つける。スーパーのお買い得パックより具が多くて好きだ。もちろん値段も高い。最近仕事が立て込んでいる未来のために、夫の勝也が買っておいてくれたらしい。
「本当、頼もしい」
未来より未来の状態をわかっていそうで頭が上がらない。それはさておき、未来はやかんでお湯を沸かしつつ食パンを焼く。子どもの頃はトーストでは給食の時間までもたなかったが、35歳になった今ではこれくらいでちょうど良い。
トーストに味噌汁という少々アンバランスな組み合わせは気にしない。昨晩勝也が洗っておいてくれたフライパンで目玉焼きを作る。ついでにまだ寝ている勝也の分も作っておく。野菜室から取り出したレタスをちぎってお情け程度に添える。
こうして10分もしないうちに朝食が出来上がった。サクリと軽い音を立てながらトーストを食べる。行儀は良くないが、手帳を取り出しスケジュールの確認も一緒にしてしまう。
未来は制作会社のディレクターだ。営業も兼ねつつ、同社のデザイナーやライターに仕事を振り分ける。必要であれば印刷会社なんかともやり取りをする。webサイトを作るとなると、これにコーダーやらとメンバーがまた増える。
今日はパンフレットを制作したいと依頼があったA社に出向く予定だ。表紙のデザイン複数を含め作成したものをデータで送ってあった。A社内で確認が終わり、こちらに修正点などを伝えたいので来て欲しいとのことだった。
A社はそこそこ規模があり、現場がOKを出しても上の役職ににひっくり返される可能性がある。少し警戒しているが、まあなるようにしかならないだろう。
そんなことを考えていると気づけば皿は空になる。これだから、何かと並行して食べるのは良くない。食べた気がしないんだから。小さくため息をつきながら立ち上がり食器を流しに下げる。片付けは勝也の担当だ。理由は未来が食器や鍋を洗うのは嫌いだから。料理は好きなのに、なぜか片付けは嫌なのだ。自分でもよくわからない。これに対し、勝也はどの家事も嫌いでも好きでもなくフラットだと言っていたので、未来が嫌いな家事をお願いすることにした。
着替えてメイクをして、髪を整える。ジャケットを羽織って部屋を出れば、勝也が自室から出てきたところだった。
「おはよう」
まだ半分夢の中にいそうな顔で、勝也が挨拶をする。それが羨ましくちょっとイラッとしたので今の自分は余裕がないのだなと気づく。だって、そういう子どもみたいなところが可愛いなと思う日もあるのだから。
「おはよう。いってきます!」
「いってらっしゃい」
やっぱりホワホワした子どもみたいな笑顔で、勝也が手を振ってくる。それに苦笑して手を振りかえして家を出た。
坂下未来は35歳。夫の坂下勝也は38歳。結婚したのは昨年だが、結婚の2年前から同棲していた。未来の1LDKのマンションに勝也が転がり込んできた時は大変だった。勝也はフリーの映像編集者で在宅で仕事をする。未来も週に2日程度は在宅の日がある。そんなの家のどこで誰が仕事をするか喧嘩になるに決まっている。ふたりは慌てて部屋を探し、今の2LDKのマンションに越してきたのである。
独立してすぐで収入が少なく未来に甘えようとした勝也ではあったが、今の家への引越しには反対しなかった。費用もちゃんと折半した。甘いところもあるが、弁えてもいる。
(まあ、ふたりとも仕事ができなかったら生活も苦しくなる一方だしね)
そういう意味では勝也はきちんと自分に投資する人間である。有料の勉強会に参加したり、書籍もよく買い込んでいる。あまりに力説されたものだから、未来も在宅仕事用に20万の椅子を買ってしまった。ちなみに勝也の椅子はもっと高いらしい。
(今日は私が出社だから、夜は勝也が作ってくれるのか。何かな)
情報漏洩が怖くて、満員電車では手帳もスマホも開けない。ただ、ぼうっとして電車に揺られている。ぎちぎちに混んでいる電車内は確かに不快といえばそうだが、頭を空っぽにする時間は嫌いではない。今日は水曜日。1週間の折り返し地点である。未来は気合を入れてオフィスの最寄駅に降り立った。
※
「疲れた〜」
未来はダイニングテーブルに伸びていた。仕事が終わり、帰りつけば夜の9時である。脱いだジャケットはバッグと共にソファの上に投げられている。
案の定A社では上でひっくり返されてデザインを作り直しである。納期との兼ね合いから行ってそろそろ厳しい。デザイナーも良い顔はしなかったし、残業を強いることになるだろう。申し訳ないが、頑張ってもらうしかない。
「今日はビーフシチューにしたよ〜。お肉は豚だけどね」
そう穏やかな声で勝也がテーブルに料理を並べる。白米とビーフシチュー。あと缶ビール。全部二人分。
「先に食べててくれてよかったのに」
「仕事から手が離せなくて、ちょうどよかったんだよ」
そう言って、勝也はいつも未来と一緒に食事を取る。せっかく終日家で仕事ができることが多いのだから、先に食べてしまえば良いのにと未来は思うのだが勝也にも思うところはあるらしい。
『子どもがいるんだったら一緒に先に食べるけど、そういうわけでもないしね。僕たちは仕事のこともあって寝室を別々にしてるんだから、ご飯くらい一緒に食べないと』
確かそんなことを言われた気がする。
(子どもか–)
結婚した友人たちはちらほらと父親や母親になり始めたが、未来はなんだか自分が母親になるというのはピンとこない。特別に子どもが欲しいとは思わない。そんな親の元に生まれても子どもだって不幸だろう。だから、今のところ子どもを授かる予定はない。勝也も同意してくれている。
『僕も自分が親になるって、なんかピンとこないな』
いつかなりたくなるのかな、親に。なんて話をしながら、仕事に打ち込む日々である。
「いただきます」
「いただきます」
勝也に習って未来も手を合わせる。勝也が作ってくれたビーフシチューはおいしかった。お替わりしてしまい、おなかがパンパンになってしまう。こういう我慢できないところはなんだか子ども染みていて、余計に自分が親になる想像ができない。ポロッとこぼせば、勝也は笑った。
「親になっても、別に自分が大人って思えないらしいよ」
そういえば年末に高校時代からの友人と会っていた。中には結婚して子どもがいる者もいるだろう。その時に聞いてきた言葉らしかった。
「私はさ、ちゃんと大人としてそれなりに立派になったなって思ってから親になった方がいいと思うんだよね。その子の命に責任を持つという意味ではさ。でも、友だちはみんなそんなこと言ってたら産めなくなるって言う」
今日は疲れているらしい。酒が回って口がすべる。それさえ見透かしたように勝也は穏やかに笑うのだ。よしよしと頭を撫でてくる。
「僕たちは僕たちのペースでいいんだよ。今はいろんな選択肢があるんだから」
どこか歌うように紡がれる言葉にうつらうつらと頭が揺れる。またよしよしと撫でられればそれがさらに眠気を誘う。
「明日早めに起こしてあげるから、お風呂も明日にして寝ちゃいなよ」
勝也は夜型だ。仕事や勉強、趣味の時間も夜に取る。だから基本勝也の方がお寝坊さんなのに、こう言う日はちゃんと未来より早く起きて起こしてくれるのだから舌を巻くしかない。
「そうしようかな」
「うん。メイクだけ落としてさ」
「うん」
未来は勝也に頷いて見せてから立ち上がる。洗面台で洗顔をしてパジャマに着替えてしまう。ベッドに潜り込めばあっという間に眠ってしまった。
あなたのように、私もあなたを包めているだろうか。
ゆらゆらと心地よく揺れる。ふわふわと包まれているのもまた気持ちいい。温もりにくるまっていると、大きな何かにそっと掬い上げられるような気がした。
「おはよう」
ふと意識が浮上する。部屋にはカーテンの隙間から明かりが差し込んでいた。もう朝だ。いつもの電子音に強制的に意識を引っ張られるのとは違う目覚め。視線を泳がせれば、ふわりと微笑む勝也がいた。
「ほら、お風呂に入るんでしょう?」
優しく前髪を払われれば、そのまま眠ってしまいたくなるが耐える。
「うん、そうだった」
むくりと起き上がって目を擦る。勝也は未来を起こすのがうまい。どうやっているのか聞けば普通に揺らしているだけと言うが、なんだか気持ちよく起きられるのだ。どんな魔術を使っているのかと未来は不思議でならない。
未来は促されるままに浴室に向かう。お風呂が沸かしてあるのだからどれだけ世話焼きなのだろう。でも勝也からも風呂上がりの匂いがしたから、先に入ったのだろう。それは救いといえば救いだ。
湯船に足先から浸かる。じんわりと温もりが身体中に広がるのが心地いい。眠りで少し固まった体が解けていく。
「ああ〜」
うーんと伸びながら今日のスケジュールを確認する。もう一度デザイナーに修正箇所を伝えて方針を共有しなくてはならない。スケジュールも念のため修正して送り直しておこう。
などなど考えてから頭と体、顔を洗って風呂を出た。パリッとしたシャツとパンツを身につけて髪を乾かす。少し面倒だがきちんと乾かさないと勝也が手ずから乾かし始めてしまうのだ。それは避けなければ。もう子どもじゃないと思う。
メイクしてからダイニングに行けば朝食も用意してあった。未来が焼けば目玉焼きになる卵も、勝也が料理すればだし巻き玉子になる。ふたりで天気や気候の話をしながら朝食を食べた。
「よし、今日も頑張りますか!」
「うん、頑張ろうね」
気合を入れた未来に勝也は笑顔で頷いた。使った食器は、まあ、うん、ちょっと悪いけど勝也が洗ってくれることになるだろう。だって、食器洗いは嫌いだし。と少し罪悪感を抱きながら未来は自室に戻る。今日は在宅だ。そのため客先に出向く予定や顔を合わせて必要なミーティングは昨日に固めたのだ。
パソコンをつけ、メールからチェックする。そしてweb会議の打診をデザイナーとして–。
コンコン
控えめに扉がノックされる。ハッと顔を上げれば、時計は疾うに昼の12時を回っていた。始業時間が9時だったから、3時間水も飲まずに仕事に没頭していたことになる。
(やってしまった)
トイレにも立たず、水も飲まずだった状況に反省していると、また扉からコンコンと音がする。
「はーい!」
返事をすれば、わずかに扉が開く。勝也と目があって、未来は笑顔で頷いた。
「大丈夫。会議じゃないよ」
電話もしてないと空の両手を振って見せた。それにほっとした顔をして、勝也は部屋の中に入ってくる。
「お昼食べる?」
「うん、食べる」
「パスタでいいなら茹でるよ」
「いいよ!」
そういえば、台所でレトルトのソースを見た気がする。あれを使うつもりなのだろう。未来は伸びをして椅子から立ち上がる。それを確認してから穏やかな笑顔で勝也は廊下に出た。勝也の笑顔は気が抜ける。威厳がないといえばそうだが、仕事でピリピリしがちな未来には笑顔を絶やさない勝也がありがたい。
忙しいと察してくれるし、察したらこうして何も言わず料理も代わってくれる。
(勝也だって忙しいはずだけどな)
ちらりとキッチンの勝也を見ながら、これまた勝也が淹れてくれたお茶を飲む。うん、美味しい。自分は甘えすぎな気がして、未来は少々心配になる。勝也は疲れていないだろうか、仕事が遅れてはいないだろうか。でも、なんだか聞いたら悪い気がして聞けないのだ。こうなんだか、「仕事できるの?」と言ってそうで。
お昼のニュースを見ながらふたりで昼食を取る。当たり障りのない会話をして、天気予報を見ながら暑くなりそうで嫌だねと話して。ふうと未来が息を吐けば、食器も勝也が片付けてくれる。
「あ」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
(ありがとうって言えなかった)
実は気にしている。ちょっと、割と、相当気にしている。
(昨日もありがとうって言わなかった気がする)
酔って眠かったからちょっと記憶が怪しいが、言った自分は思い出せない。ということは、きっと言ってない。いつも、あ、だけが不自然に出て続かないのだ。その「あ」にさえ気づいて勝也は視線をやってくれるというのに。いつも首を横に振ったり、曖昧な笑顔で誤魔化してしまう。
(大人としてどうなんだろう)
ちゃんと、お礼を言わないと。と思えば思うほど、うまくいかないのだ。
–お金はきちんと管理していると思う。共通の口座に毎月決まった額を振り込んでそこから生活費を出している。残りは自分たちの好きなように使っていいことになっていた。未来は投資信託でちょっと投資をしてみている。地味に増えつつあって最近嬉しい。勝也もお金に困っているとは言わないから、うまくやりくりしているのだと思う。
でも、「ありがとう」をちゃんと伝え合わない夫婦ってどうなんだろう。とは思う。
「はい、コーヒー」
もやもやと未来が頭を悩ませていると、ことりと目の前にマグカップが置かれた。未来は昼食後コーヒーをブラックで飲む。おやつの時間にも飲む。目的は眠気防止だ。
「あ」
「忙しい?」
「ああ、うん。まあまあ」
また「あ」だけで終わってしまったと思いながら未来は首を縦に振った。それに大変だねと勝也がふんわりと笑う。それに悩みがふにゃっと崩れてしまう。勝也が世に言うイケメンかはわからないが、未来は勝也の顔が好きである。パーマとか長髪も似合いそうで、でも柄が悪くならないどこか中性的な顔立ちなのだ。よく出かけ先でも道を聞かれる、怖くなさそうなお兄さんなのだ。
そんな好きな顔にフワッと笑われるとこちらも力が抜けてしまう。こう、もういいかと言う気持ちになってしまうのだ。わかっているのかいないのか、勝也は未来に余裕がないとこの笑顔をむけてくれる。それになんど救われ、泣きつき、どうにかなってきたことか。
「頑張ってて偉いねー」
「そうかな」
「うん、偉いよ」
笑顔でコクンと頷かれたら、えへへと情けない声が出た。その声を気持ち悪いと未来は思ったが、勝也は笑顔のままだったからとりあえず咳払いして気持ちを切り替える。
「コーヒーありがとう。部屋に戻るね」
(言えた!)
うん、今のは自然だった。よかった。スマートだった。内心ガッツポーズを決めながら、大人の余裕が見えるんじゃないかと自分で思う笑顔を作ってキッチンを去った。
他人の言葉が痛く刺さる時がある
「え〜いいなぁ」
そう言って居酒屋のテーブルに伸びたのは宮下ゆり。大学のサークルの同期で、結婚して来年小学生になる息子がいる。そんなゆりは、未来の話が羨ましいと言う。
「時短で戦力外で家事育児にヘロヘロなのに、そんなに仕事に理解があって家事をしてくれるイケメンの夫、私も欲しいわ〜」
「やっぱり、子どもがいると大変?」
「大変、大変!来年学童に入れるのかすら不安!」
「入れなかったら?」
「辞めるしかなくない?」
「私はみんなよく働くな〜と思うけどね〜」
ゆりと未来の会話に、のんびりレモンサワーを飲みながら小峠歩が参加する。歩は結婚して専業主婦になって今は週3で事務員のパートをしているのだとか。本当は専業主婦でいたかったのだが、夫に将来のことが不安だからどうしてもと請われて仕方なしに働き始めたと言う。
「せっかく結婚したのに、週の半分以上働くのは無理だよ〜」
えへへ〜と酒に弱い歩はもう笑っている。
「でも、歩は毎日料理頑張ってるんでしょう?偉いよね」
「だってフルタイムで働いている人たちと比べたら収入は低いからさ。節約しなきゃ。私は仕事するくらいなら節約メニュー頑張る方が楽なんだー」
下野芳乃の褒め言葉に、赤くなった顔で歩はそう言った。
「まじか。私は仕事の方がいいよ」
未来は呆然と呟いた。今勝也にやってもらっている家事がほぼ全部自分に来るなど未来にとっては地獄でしかない。
「私ももっと仕事したい〜!」
ゆりがうわーんと体を揺らし始めた。そういえばゆりもお酒は強くない。飲み会が開始されてまだ1時間も経たないが、すでにお冷やが必要そうだ。と未来が思った時には、もう芳乃が店員を呼んでいた。こういうところは昔から頼れる姉貴なのだ。
「それで、自称料理研究家の芳乃さんはどんな感じなんですか」
「そうだねー。ブログの方は結構読まれてるんだけど、別にメディアから声がかかるとかはないかな。まあ、広告収入でもないよりはマシだけど」
芳乃も結婚していて子どもがいる。さっき3歳だと言っていた。この4人の中で子どもがいないのは未来と歩だけになるが、歩は妊活中で月経が来たから今月はないとサワーを注文した次第だ。
(子どもね〜)
まだいい、まだいいと未来は思っている。勝也はどうかわからない。前は自分たちのペースでいいと言っていたけれど、考えが変わったかもしれない。少しは子どもが欲しいのか、大変なくらいならふたりのままがいいと思っているのか。
「私は、今のままでいいんだけどな」
ぽつりと呟いた言葉は、ゆりにしっかりと拾われてしまった。
「心配ならちゃんとパートナーと話さないとだめよ。てか、お互いの収入もクローズなんてやばい」
「えぇ」
「お金の話は、嫌だろうけどはっきりさせないと。借金とかあったらどうするの」
「勝也はしっかりしてると思うけどな」
「思うだけじゃダメなの、はっきりさせないと!」
「はいはいわかりました!」
ダンと力強くジョッキを置くゆりに、未来も首を振らざるを得ない。ちらりと芳乃を見れば、神妙な顔で頷かれた。
(あ、これはマジなやつだ)
「ゆりのことはあきらめろ、もう酔っている」とも言っているし、「お金の話をしていないのもやばいぞ」と言っている。
「いいなぁ。私も赤ちゃん欲しいなぁ」
可愛いんだろうな〜と歩は歩でひとりホワホワと笑っている。とても幸せそうだ。うん、こっちも完璧に酔っている。
–二次会はないと初めから約束していた。ゆりと芳乃には幼い子どもがいるからだ。それに、このメンバーだと楽しくなって誰かの家に押しかけたくなる。それも控えるべきだとなって、冷静なうちに解散しようという話に合いなったのだが。
「みんなお酒久しぶりだものね」
ふふっと芳乃が笑った。それが、なんだがひどく胸に刺さった。子どもがいて、仕事があって、だからそう簡単にお酒が飲めない。お酒を飲んでいなくてよかったと思う瞬間がいくつもあったとゆりと芳乃は話していた。歩だって妊活中だからお酒は飲めないと言っていたし。
自分ばかり残されていく感覚がして、ほんの少し、せっかく友人と会ったと言うのに気持ちが沈んだのだった。
それでもあなたが大好きだ
「ただいま〜」
飲み会はお開きになり、未来は帰ってきた。ゆりと歩は完璧に酔っていたからパートナーに迎えにきてもらった。ゆりの夫の車の後部座席には小さな影が見えたから、子どもも一緒だったのだろう。それはそうだ。パートナーまで家を空けたら子どもだけになってしまう。
「おかえり〜」
勝也は起きていた。まあまだ夜の10時だ。勝也にとってはこれからだろう。そう考えながら未来は靴を脱いでリビングに移動した。
「思ったより早かったね」
「一次会だけって約束だったし、ふたりもつぶれちゃね」
未来は困ったように笑った。それに、大変だったねと勝也が笑う。そんな時間が愛おしい。自分は幸せだ。なのに、居酒屋で感じた痛みがまたぶり返してくる。
「勝也はさ」
バッグを行儀悪くソファに投げながらそう口を開いた。
「うん?」
「やっぱり子どもがほしくなったとか、ない?」
勝也が目を丸くするから、未来は笑って頬を掻くしかなかった。
「こういうのってさ、気分変わりやすいかと思って」
タイミングも大事だし、それに–
「みんな子どもがいるから、なんていうか、気になっちゃって」
未来はバッグの隣に座った。勝也も座るかと思って、バッグを膝に抱え直す。しかし、勝也はダイニングチェアの方に座った。それにおや?と内心首を傾げる。あまり見ない表情をしていた。無表情が1番近いだろうか。心臓に悪い。何か気に触るようなことを言ったのかと、未来は背筋が寒くなった。
勝也はテーブルに両肘をついて、顔を両掌で覆った。ため息をつく。
「ごめん」
それは突然の謝罪だった。
「へ?」
頭がついていかなくて、間抜けな声が出る。勝也は重い声で再び言った。
「本当に、ごめん」
「えーと、なにが?」
未来は首を傾げてそう返すしかできなかった。勝也は、逃げるように顔を隠したまま、苦しげな声で告げた。
「友だちに、お金借りてて–」
「はい?」
「毎月、共有口座に入れるお金が足りない時があって」
「ああ、はい?」
「それで、友だちに頭下げて」
「ちょいちょいちょいちょい⁉︎」
やっと顔を隠していた手がおりる。勝也は涙目だった。
「ちゃんと言わなきゃって思ってたんだけど」
「や、えと、そうなんだけど、どうして今?」
「ええと、子どもが欲しいなら借金返してからじゃないと」
「あ、なるほど。…え?子ども欲しいの?」
「前よりは欲しいかもとは思ってるけど、今絶対とか、すぐとかじゃないよ」
「ああ、なるほどね。でも、もし本当に親になるならってことね」
「そう」
「なるほど」
なるほど、と未来は繰り返すしかできない。勝也に借金があった。共有口座に入れるお金が足りなかった時があった。
「言ってくれればよかったのに」
「うん。なんか、情けなくて」
「情けない…」
「独立してすぐ、未来の家に転がり込んだり、偉そうに高い椅子買ったり勧めたりしたのに」
「や、でもフリーランスだし、不安定なんだから仕方ないよ?」
「ごめん」
勝也は俯いてしまう。沈黙が降りてくる。大通りから一本入るから、このマンションは案外静かだ。でも、今は大通りの車が走る音が聞こえる。しまいには自分の血液が流れる音すら聞こえてくる気がした。
「ごめん、ちゃんと別れるから」
「ん?」
「明日、離婚届もらってくる」
「んん?」
じゃあ、と言って勝也が立ち上がってしまう。未来は頭が追いつかなかったが体は動いた。勝也の腕を掴む。結構がっしりと掴んだから、勝也はつんのめってしまう。
「待って待って待って⁉︎ええと、どうして離婚の話になったかな⁉︎」
「だって、収入も不安定だし、借金隠してたし、こんな男は嫌われて当然」
「んんんんんん!まあ、黙ってたのは問題だけど!でもちょっと待って!待ってね!」
未来は勝也を無理やり椅子に押し付け座らせる。自分はキッチンに向かって冷蔵庫から麦茶を出して一気飲みした。
「えーと。勝也には収入が厳しい時があった」
「はい」
「私に言えずに友だちにお金を借りた」
「はい」
「なるほど。ちなみにいくらほど…」
「50万」
「んんん!」
まあまあな額である。闇金融なんかから借りてなくてセーフと思うべきか。未来は麦茶を片手にダイニングテーブルに戻ってくる。悪いが勝也の分のコップを持ってくる余裕はなかった。
「まあ、50万なら私のボーナスを使えば返せるから」
(ああ、このまま結婚を続けるかの話か)
やっと頭が冷えてくる。勝也は驚いた顔をしたが、またすぐに俯いてしまった。夫が借金を隠していたというのは大きな問題である。しかし、幸運にも未来たちには解決できる問題でもある。そして問題は別にあって。
「うーん、借金があっても、嫌いにはならないな」
まじまじと勝也を見つめる。勝也はびくりと震えた後、そろそろと顔を上げた。なんだか雨に濡れる子犬みたいだ。平均身長はある成人男性なのに。
未来は考える。
「家事をしてくれて、私を起こすのがうまくて、顔がタイプで…。」
「顔?」
「まあ、子どもが欲しいならちょっと収入減がしばらく続くのが痛いかな」
「あの、えと、未来、さん?」
「うーん、借金は私が返すからさ、離婚はやめよう?」
未来は両手で勝也の手を掴んだ。勝也は振り解きはしなかったが視線を落とす。
「…でも」
「ああ、こういうのってプライドとか傷つけちゃうんだっけ」
また考えなしに言ってしまったと未来は唇を噛む。しかし、それは勝也には見えていない。
「…ないことはないけど、でも、甘えていいのかって」
「甘えだったら私の方が甘えてるよ!」
どんどん声が小さくなる勝也の方へ、未来は体を乗り出した。
「ええ⁉︎どこが⁉︎」
未来の勢いに押されたのか、勝也の声も大きくなる。未来も負けじと声を上げる。
「どこがって!家事も私が嫌いなとこは全部やってもらってるし!出社の日はご飯作ってくれるし!待っててくれるし!夜遅くまで仕事してるのに、私のこと朝早く起こしてくれるし!」
「それは!それは、僕の方が収入少ないし、なんか、申し訳ないから当然だよ」
「収入が少ないって!足りない時はあったのかもしれないけど、ちゃんと口座にお金入れてくれてるじゃん!」
「そう、だけど」
「え?もしかして自由になるお金ない?」
「最近は、あんまり」
ちらりと上目遣いで未来の顔を見てから勝也はポツリと言った。
「収入の大部分を占めてたクライアントから切られて、そのあと営業がうまくいってないんだ」
「そうだよね、フリーランスは自由ってイメージあるけどひとりで会社やってるようなものだもんね!」
分業できないのはきついよね!と未来は首を縦に振りまくる。勝也の目に一層涙が滲む。
「僕、営業が1番苦手で」
「うん」
見た目通り優しい男なのだ、勝也は。押せ押せと交渉で流れを掴んでいる姿は浮かばない。
「安くしてくれって頼まれると断れなくて」
「そっか」
「会社員でもそんなにうまくいかなかったのに、フリーランスもダメだったって言えなかった」
「そうだったんだ」
未来は背もたれに体を預ける。言いたいことは言えたのだろうか、勝也も口を閉じた。沈黙が流れた。
「ごめんね、苦しいの気づけなくて」
「ううん、僕が情けないだけだから」
情けないと繰り返す。その姿が小さく痛々しい。勝也は社会的に言えば不適合な人間なのかもしれなかった。でも、一緒に過ごした勝也との時間は未来にとっては楽しいもので、失いたくないものだった。
「私が、自分のことにばかり感けすぎだったんだよ」
「未来は優しいね。きっと未来にはもっと強い人の方が–」
「嫌だ!私は勝也じゃないと嫌だ!」
先が読めて、未来は子どものように首を横に振った。長い髪がバサバサと揺れる。キッと目に力をこめて勝也を睨む。釣られたように、未来の瞳にも涙が滲み始めていた。
「でも–」
「でもでも、なんでもないの!」
「でも!」
「好きな人と一緒にいたかったら女にも甲斐性がいるってこの前テレビで言ってた!」
先日見た番組を思い出して、未来はそんな言葉を叫んだ。呆気に取られて勝也はポカンと口を開けた。
「–なにそれ」
「お金ならどうにかするから、一緒にいて!勝也がいないと心がずっとピリピリしちゃうよ!」
未来の眉が情けなく下がる。勝也は未来の言葉がうまく理解できなかった。
「それは、どういう」
「勝也の笑顔はね、ほっとするの。良い意味で力が抜けるの。あー私頑張りすぎてたなって気づけるの」
未来は力説する。両手をぎゅっと握りしめる様は幼い子どものようだ。勝也は勝也で思いもよらなかった言葉に目を丸くする。
「…そんなこと、初めて言われた」
「それで笑顔でコーヒーとか出してもらったら、また頑張ろうって思えるの!」
「…」
「ずっと、ありがとうって言いたかった。思ってる分の本当に少ししかいつも言えないから」
未来は視線を落とす。涙が一雫流れた。その姿が、女神のように勝也には美しく見えた。
「そんなの、ありがとうっていうのは、僕の方だよ」
どうにか言葉を紡いでいく。未来から逃げたいという気持ちと、未来を受け入れたい気持ちが交錯する。
「借金はいったん私のボーナスで立て替えるから、これからどうするか一緒に考えようよ。お金のことも、仕事のことも」
再び未来が勝也の手を掴む。未来の手の方が小さいのに、温かさに包まれる。勝也は耐えきれず、ぼろぼろと涙をこぼした。
「それで、良いのかな」
「良いよ!」
「未来は僕に甘いよ」
「勝也も私に甘いから良いの!お相子!」
「そうなのかな」
「そうなの!…ねえ、勝也。私、勝也のこと好きなんだよ。苦しいなら一緒に苦しもう?そんなんじゃ嫌いにならないから」
「でも」
「稼ぎが少なくても、働くのが苦手でも、勝也は私の素敵な旦那様なの!人生に必須のパートナーなの!いないと死んじゃうの!過労死するの!」
「…過労死」
思い当たる節があり、勝也は未来の言葉を繰り返した。勝也は未来の顔を見る。真っ直ぐに勝也を見つめていた。
出会いは未来の会社が勝也がかつて勤めていた会社に仕事を依頼したことがきっかけだった。難儀したプロジェクトがあったのだ。
『坂下さんって、かわいいですよね』
そう言えば、打ち上げの飲み会でそんなことを言われた。あの頃から、勝也の笑顔はどうのこうのと思っていたのだろうか。
『草薙さんは、かっこいいですね』
未来は絵に描いたような仕事のできる女性だった。勝也より年下なのに、ハッキリとものをいい冷静に判断する。当時から頼りになる女性なのだ。だから、頼ってしまう。また、頼ってしまう。
「一晩」
「え?」
「寝て、明日になってもまだ別れたくなかったら別れない」
「本当⁉︎」
「うん」
できる女未来は、もしかしたら今は冷静な判断ができないのかもしれない。嬉しい言葉はたくさんもらったけれど、酔いが覚めたらやっぱり別れたいと思うかもしれない。そう考えて、時間を置こうと勝也は言った。
未来はガタッと音を立て立ち上がった。その勢いに勝也は驚く。
「ちょっとお風呂入ってすぐ寝るね!」
「あ!お酒飲んだんだから、明日にした方がいいよ!」
「そうかな!じゃあ、歯磨いて化粧落として寝る!逃げないでね!」
そう言い残すと未来は颯爽とリビングから消えた。鼻歌が聞こえてくるような気がした。なんだか訳のわからない展開に、勝也はぐったりと椅子に体を預けるのだった。
※
幼い頃から名前の似合わない気の弱い男だと言われてきた。学生時代はいじられキャラで嫌な思いもたくさんした。社会に出てからも上司のパワハラに耐えられなくて、逃げるようにフリーランスになった。それもうまくいかなくて。
「それでもいいの」
一晩寝て、シャワーも浴びた未来は勝也に向かってそう言った。言い放ったが正しいかもしれない。
「私をよく見ていてくれる勝也の優しいところが好き。お茶やコーヒーを淹れて労ってくれるのも嬉しい。何より笑顔を見るとホッとする」
未来は右手を勝也に差し出した。
「ずっと、私と一緒にいてください」
勝也はその細い手をじっと見つめ、ゆっくりと自分の手で握った。それでも付け足さずにはいられなかった。
「でも、もし別れたくなったら言ってね」
「ちなみにもう隠し事は?」
「っ!ないよ!ないない!」
「じゃあ、無理だよ。一緒のお墓に入るから、死んでも一緒だよ」
ふふふと未来は笑った。さっきの言葉といい、今の言葉といい、本当に男前でかっこいい。そして無自覚に口説いてくるところがタチが悪い。でも、きっと、そういうところを好きになった。
自分の笑顔で元気になってくれるなら、自分が淹れるコーヒーなんかで喜んでくれるなら、いくらだってくれてやる。
「「大好きだよ」」
どちらからともなくそう言って、顔を見合わせて笑った。
fin.
最後まで読んでいただきありがとうございます。感想などもいただけるととても嬉しいです。これからもゆるゆると書いていくので楽しみにしていください。