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石のかけら捨てるものあり、拾うものあり

石を彫っていると、当たり前だが細かい石のかけらがたくさんでる。1日の作業が終わると、制作で出たたくさんの石のかけら(もしくは、石の粉)を集めて作業場の外の地面へポイとやる。そんなこんなで、わたしが利用している共同アトリエの地面は様々な種類の石のかけらで満ち満ちている。

アトリエの地面。みんなが彫った石のかけらで満ちている。

ところで、わたしの母校である東京藝術大学では例年9月に藝祭というお祭りがある。そこかしこで話題にされるので、知っている人も多いだろうが、学生たちがお神輿を作ったり展示をやったり、居酒屋のような店をやったり、アートマーケットといって作ったものを販売したりする。
このアートマーケットはうまくやる人は相当稼ぐ。わたしの友人も毎年手描きTシャツを売っていたのだが、それが次第に人気になり、藝祭の3日間で何十万と稼ぐようになった。もちろんそれは彼の描くデザインが良いからそれだけ売れたのだが、とにかく藝祭というのは人がたくさんくるしお祭り気分でみんな財布の紐も緩いので、あらゆるものがよく売れる。

わたしが学生だったころだ。自分はアートマーケットで売り物をつくるのも居酒屋のような店をやるのも向いておらず、藝祭だというのに特に自分が何をするわけでもなく、客としてぶらぶらと友達の店などを見て回っていた。
ふと、見知った顔の先輩が店を出しているのが見えたので、何を売っているのだろう、と店先に近づいたところ、わたしに気づいた先輩はなんということか、あわてたようすで商品を布で隠してしまった。
「え!?なんで隠すんですか、あやしいですよ、何売ってんですか」
驚いたわたしがそう声をかけると、先輩はバツの悪そうな顔をしながら、布を取り払った。その瞬間、あーっ!と思わず声が出た。

そこに並んでいるのは石のかけらだった。

手に持つとちょうどよい、程よい重さで、まあ、ペーパーウェイトとして使えそうなくらいの、白くて割れ肌がザラメのようにキラキラした、大理石の石のかけらたち…
それらの石には見覚えがあった。そう、何を隠そうそれはわたしが彫った石のかけらたちだったのだ。それが、1個300円だか400円だかで売りさばかれていた。

「諸岡の彫ってたやつ、きらきらしててきれいだったからさ。意外と売れるんだよ。さっきも書道家みたいな人が文鎮に、って言って買っていったよ。」

なんということだ。たしかに藝祭はわりとなんでもかんでも売れるけど、まさかそんなものまで売れるとは。売れると知っていたなら、わたしが売ったのに…。
というか、ずるくないか。そもそもその石の原石を買ったのも、その石を彫ってかけらにしたのも全部わたしだぞ。そのわたしに内緒でぼろ儲けしているなんて!

とはいえ、わたしも彫った後のちいさなかけらなんて、価値がないと思って石捨て場に捨てたのだ。そりゃそうだ、そんなかけらを全部とっておいたって、キリがない。自分が手放したものを誰がどうしようと、文句はいえまい。自分はその価値に気づけなかったのだから。
(が、やはり釈然としなかったので、そんなに儲けたなら分け前としてなんか奢ってくれ!とゴネて、しばらく後にちょっといい蕎麦を奢ってもらった。)


そんな体験は、それだけではなかった。
彫刻の人たちが制作の中で出したゴミーそれは石のかけらだったり、針金だったり、鉄板の切れ端だったりするーを、油画科だったり、先端芸術表現科の人々が、宝探しのように漁っては拾っていき、自分の作品に取り入れていくのを何度も見たことがある。

他の科の展示を見にいって自分が彫っていた石のかけらと再会を果たしたりする。そして、それがまた結構いい作品だったりするのだ。捨てられた石が光るそんな作品に出会うたびに、わたしは面白いなあと感心する気持ちと同時に、悔しい!という気持ちを抱いていた。
自分がいらないと捨てたあの石のかけらに、まだこんな可能性があったなんて…と。

(↑佐々木成美さんの作品。石のかけらの使い方が素晴らしすぎる、大好き)

でも仕方ないとも思う。石はどこまでも可能性がある。石はどこまでも価値がある。その可能性・価値はわたし1人には抱えきれない。だからいろんな人が拾っていろんな形でその可能性を模索するのが、一番良いのだという気がする。

さらにいうと、石が粉になって泥状になったものまで拾っていく人がいる。大学院修了後、同大学取手キャンパスにある石材工房という場所で4年働いていたが、そこにはワイヤーソーや大口径丸ノコやコアドリルといった大型機械が揃っていた。そうした機械を稼働していると、日々なかなかの量の石の泥が発生する。そうした石の泥をすくってセメントの骨材にしている人を見たことがある。
また、こうした石粉は膠と混ぜて日本画の岩絵の具としても使えるという。

そもそもわたしが買ってくる原石も、石材屋さんからすれば端材だったりする。山から切り出された石が、人から人へ渡っていく中で、大きなかけらが、小さなかけらになり、さらに小さく、最終的には粉になっていく。

だけど、石はかけらになっても、粉になっても価値があるのだ。

そうやって彫刻以外の人々が、わたしには思いつかない石の使い方をするのを見るのは楽しい。彫るばっかりが石と向き合う方法ではないと思い出させてくれるから。

しかし、そうはいってもやっぱり自分も何かうまく使いたい。石を彫るばっかりじゃなくて、彫って出てきたそのかけらたちの可能性をわたしもわたしなりに探してみたい。ま、それは単純に貧乏根性から来ているところもあるのだけれど。(いいようにいえばもったいない精神…)

そんなわけで最近は一度自分が棄てた石のかけらや石の粉やらを拾い集めては、何か形にならないかな、なんて模索してみたりしている。


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諸岡亜侑未
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