音楽とイメージ(スーパーカーの水色編)


音楽を聴くとき、人はどんなふうにその音を受け取るのだろう。
多分、それは人によって、音楽によって、さまざまな聴き方があるんだろうと思う。
その音楽に時代の匂いを感じて浸る人、自身の体験と重ねて涙ぐむ人、楽器の音色や楽曲の構成に聴き惚れる人、BGMのように心地の良い背景として聴く人、踊って全身で音を浴びる人。

わたしはというと、色や映像と結びつけることが多いように思う。
共感覚(音や文字に色を感じたり、逆に色に音を感じたりする感覚のこと)とは違う。もっと一般的な感覚で、「黄色い歓声」などの比喩に使われるような感覚に近いと思う。
もともと絵を描くことが好きだったから、視覚的なイメージに落とし込むことが自分にとって一番自然で気持ちいいんだと思う。

それを最初に強く感じた音楽は、スーパーカーの曲だった。

(※97年にデビューして05年には解散してしまった日本のバンドで、初期はシューゲイズっぽいギターロックだったが、後期になるにつれエレクロニカへと傾倒した。YUMEGIWA LAST BOYなんかは、知っている人も多いかもしれない。映画ピンポンの主題歌で、ピンポンでは他にも数曲使われている。)

中学生のころ、映画「ピンポン」が好きすぎてDVD再生機器を買う前にピンポンのDVDBOXを購入してしまった酔狂な母と、音楽好きでスーパーカーもよく聞いていた姉の影響もあってよく聴くようになった。
ちなみにそれ以前の小学生のころのわたしはというと、気が狂ったようにウルフルズを聴きまくっており、友達が家に遊びにこようともラジカセで大音量でウルフルズを流し、いきいき(※学童保育)にまでカセットテープを持ち込み流し、小学校ではちょっとしたウルフルズ狂いとして知られていた。
他のアーティストは全然知らなかったので、ウルフルズのあの泥臭い濃ゆいナニワ臭とは全く正反対なスーパーカーの都会的で洗練されたエレクトロな音楽は、最初全然受け入れられなかった。

しかしことあるごとに繰り返し再生されるピンポンー母は、大晦日だから、とか、連休だから、とかことあるごとによくわからない理由をつけてピンポン鑑賞会を開催したーを見るうちに、だんだんとわたしのウルフルズ一辺倒に凝り固まった耳は解きほぐされていき、いつの間にか「YUMEGIWA LAST BOY、名曲やん…」になっていた。

そこから他の曲も聴くようになった。
今までウルフルズばかり聞いていたわたしにとって、スーパーカーの音楽は「歌詞の主張、ボーカルの主張が少ない」という印象だった。いや、いしわたり淳治の歌詞はすごく好きなのだけど、いかんせん、ウルフルズはトータスの色が強い。ボーカルと言葉の勢いが、圧が、すごい。それから考えるとスーパーカーの音楽というのは、ボーカルも他の音とフラットなポジションにあって、一つの楽器のように、音にすっと馴染んでいるように感じた。
そして、歌詞という「言葉」が入ってこなくなった分、純粋に「音」だけが入ってきて、わたしはその「音」に色のイメージを見るようになった。

それは水色だった。CMYKでは表現するのが難しそうな、ビビッドで明るい水色。ときどき色が白く飛ぶ。

スーパーカーの音楽というのは初期と後期でかなり違う。初期はノイジーなギターのサウンドが特徴的なギターロックだった。(それがシューゲイザーと呼ばれるジャンルに属するものだということを、わたしは大人になってから知った)後期になるにつれ音は全く変わってYUMEGIWA LAST BOYのような、エレクトロニックな音へと変わっていく。
しかし不思議なことに、初期の曲も、後期の曲も、色が同じなのだ。
どの曲を聴いても、明るくきらめく水色と心地のいい白飛びがわたしには見える。

きっと、この水色こそが、音が変わっても、スーパーカーをスーパーカーたらしめるものなんだろう、となんとなく思った。

そんなころ、姉の部屋にあったロッキン・オン・ジャパンを勝手に読んでいた時、とても面白いレビューを見つけた。
スーパーカーのベスト盤(「A」と「B」)のCDレビューだったのが、その見出しにはこんなようなことが書かれていた。

スーパーカーは最終兵器彼女である

最終兵器彼女という漫画はこれまた変わった漫画で、主人公の恋人のヒロインのちせは体を兵器に改造され、話が進むにつれてどんどん機械化が進むのだが、壊れていく世界とはうらはらにそのストーリーはまぎれもないラブストーリーで、とてもイノセントで繊細な「愛」というものを軸にストーリーが進んでいく。世界中が戦争によって崩壊していくという壮大な物語の舞台で、しかし物語の軸は若い、思春期の二人の男女の彼氏・彼女という関係に終始するのだ。その戦争が一体何だったかとかそういうことは一切書かないというめちゃくちゃ思い切った漫画である。

で、そのレビューはというと、兵器になってどんどん機械化していくちせの体をエレクトロに傾倒していく音に例え、しかしそれでも変わらない彼女の芯の部分ー繊細でイノセントなハートの部分ーをスーパーカーの芯にあるもの(ここではいしわたり淳治の作詞する歌詞に焦点が当てられていた気がする)として例え、どんなに音の変化をとげようと、その芯にあるものは変わっていない、と評していた。

そのレビューをわたしは、わかりみボタンがあれば連打しまくりたい気持ちで読み、そうかそれがわたしの見る水色の正体なのだ、と納得したのを覚えている。
(しかし10年以上前に読んだものなので、解釈がちょっとズレていたらすいません)

スーパーカー解散後、ナカコーこと中村弘二は「iLL」という名前で音楽活動を行っていたが(今はどうかわからない)、わたしはiLLの音楽にはその水色を感じることができなかった。
いしわたり淳治はというと、わたしの知る限りでは、その後チャットモンチーのプロデュースを行ったり、他アーティストの楽曲の作詞を行ったりしていた。
スーパーフライの「愛を込めて花束を」にいしわたり淳治が作詞に協力しているというのを聞いて、なんとなくなるほどと思ったけれど、でもあの曲に感じるのは穏やかな白色で、水色ではなかった。

スーパーカーの解散理由はメンバーの不仲が原因というのが、ファンの間での見解としてよく見る。スヌーザーに載っていた解散インタビューは、読もうとして途中でつらくなってやめた。
昔とあるファンのブログ(大昔すぎて引用元がわからなくてすいません)で、こんな意見を見た。

「スーパーカーのナカコーと淳治は水と油。それが綺麗に混ざっていたあの瞬間は、美味しいドレッシングみたいなもんやったんや…」

なるほど。よくふると水と油が混ざって美味しいドレッシング。でもそれは置いておくとすぐに分離してしまう。
あの水色は、水と油が混ざっている瞬間の、魔法のような水色だったんだなぁ、と思いながら、明るくきらめく儚い水色の音に耳を浸す。

最後に、わたしが中学生のころYUMEGIWA LAST BOYを聴きながら描いた絵をあげておく。我ながら、自分の脳内イメージをうまく表せているな〜思って、結構気に入っている。


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