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くるくるが来るよ

初出:Scraiv

「くるくるが来るよ」
 少年が言う。少年は笑っている。オレンジ色の服を着ていて、この夕暮れのようだと思う。夕陽に照らされた空を背景に少年は立っている。その足元に猫がいる。黒猫だ。猫は小さく「にゃあ」と鳴く。
「くるくるとは何だい?」
 私は問いかける。
「くるくるはくるくるだよ」
 少年は答にならない答を返す。
 音がする。
 カランカラン、カラン、カランカランカラン。鐘の鳴るような、あるいは、何か軽く硬い金属のようなものが、転げ落ちていくような。
 遠くから列車が走ってくる。
 そこで私は自分が駅のホームにいることに気付く。
 カラン、カラン、軽い音とともに列車がホームへ入ってくる。音と車体は同時に止まり、そこで私はようやっと、その音を列車が発していたことに気付く。こういうものはもっと重い、そう、ガタゴトと沈んだ音を立てるのではないかと思う。今聞こえていたのはむしろ、浮き上がるように軽い音であった。
 目の前で扉が開く。
 開いた扉の向こうに少年がいる。列車の中に乗っている。はて、彼はついさっき――ついさっき、彼はどこにいたのだろうか。自分の正面に立っていたイメージがあり、ならば状況からして、向かいのホームにでもいたのではないかと思うが、そもそも「向かいのホーム」などあっただろうか。夕陽を背に立つ姿ばかりが頭に浮かぶ。
「おいでよ」
 少年が私を呼ぶ。少年は笑っている。足元にはやはり猫がいる。動物をそのまま乗せても良いものだろうかと考える。少年が手招きする。
「おいでよ」
 もう一度私を呼ぶ。
 私は呼ばれるままに列車へ乗り込む。途端、背後で扉が閉まる。小さな揺れとともに列車は動き出す、走り出す。カラン。カラン。軽い音が響く。
「にゃあご」
 猫が走り出す。走り出し、すぐに見えなくなる。狭い車両の中、隠れる場所もろくに無いような空間で、その姿を見つけることができない。
「猫は」
 私が一言呟くと、
「向こう側に行ったよ」
 少年はそんな言葉を返す。
 こつ、こつ、こつ。何かを叩くような音に、辺りを見回す。そして気付く、窓を外からノックする男がいる。列車は走っている。走る列車の窓を男はこつこつ叩く。車両にはりついている様には見えない。ただ、普通にそこに立ち、窓を叩いているようにしか見えない。
「くるくるが来るよ」
 少年はまた、そんなことを言う。
 その言葉で私は一瞬少年に気をとられ、窓に目を戻せば男はもうそこにはいなかった。いやに顔色の悪い男だったと思い返す。幽霊か何かではと考えぞくりとするが、今更ではないかと呆れてしまう。見知らぬ少年に呼ばれるままに私は知らない列車に乗っている。猫は姿を消してしまった。さっきからずっと奇妙なことが続いている。奇妙の始まりを考える。少年に声をかけられた、その瞬間からおかしくなったのだろうか。それ以前には、私は一体何をしていたか。それがどうにも思い出せないと気付く。記憶をどれほど遡ろうとしても、少年のあの一言よりも前が、過去が何も出てはこない。
 助けを求めるように名も知らぬ少年を見る。
 見ようとした。
 いない。少年がいない。先程消えた猫のように、少年の姿は消えてしまった。戸惑い、左右に首を振る。連絡通路が目に入る。ああ、そうか、きっと他の車両に行ったのだ。隣の車両を覗く。誰もいない。その隣を見る。誰もいない。その隣。隣。隣。隣。誰もいない。そもそもこの列車には幾つの車両が連結されていたろうか。よく観察してはいなかったが、あのホームで列車を見た時、特に短いとも、長いとも感じはしなかった。歩いても歩いても車両は続いていく。今いる車両を仮に1として、隣を2、3、4、5、6789、10を過ぎ20を過ぎ、やがて30に到達してもまだ先に次の車両が待っている。延々と私は歩いていく。
「くるくるがいるよ」
 背後から声がする。背後には少年がいた。少年は黒猫を抱きかかえている。消えたあの猫だ。猫はしっぽを揺らす。しっぽに赤い毛が交じっているのに気付く。
 いや、それは毛ではなかった。
 火だ。猫のしっぽが燃えている。火は大きくなり、猫の体を包んでいく。私は咄嗟に駆け寄って、素手で火を払おうとする。火は消えない。何度も私は手を動かし、その内に、熱くないことに気付く。火は猫を、少年を、そして私自身を包みこんでいく。だが、熱くもなく、苦しくもない。ただ、赤い色ばかりがそこにある。ここにある。
 すべてが赤くなっていく。
 空が。
 空が赤い。
 ああ――夕暮れだ。夕方の赤い空の下、私はどこか広い場所にいる。そう、私は列車の中にはいない。駅のホームでもない。見えるものはただ夕焼けばかり、夕陽ばかり。
 いや、夕陽を背景に小さな影が立っている。逆光であるその姿が、何故だかよく見える。それは少年である。その足元で何かが動く。
「くるくるが来るよ」
 少年が言う。少年は笑っている。オレンジ色の服を着ていて、この夕暮れのようだと思う。夕陽に照らされた空を背景に少年は立っている。その足元に猫がいる。黒猫だ。猫は小さく「にゃあ」と鳴く。

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