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地中にノック

初出:Suimy

 地面をノックしてみると、地中から鈍い音が返ってきました。土の中に引き籠っている彼のノックです。
 四六時中そこにいる彼が今日もそこにいることを確認して、私はジョウロを傾けました。流れ落ちていく水は、地上にむき出しの根に浸み込んでいきます。土の中で上下逆さまに育っていく木に生っているのはどんな果実だったでしょう。これを植えたのは私なのですが、それは随分昔のことですし、こちら側からは根しか見えませんから、何の木だったか忘れてしまいました。蜜柑か林檎だったような気はします。あるいは桃でしょうか。
 彼はその実を毎日食べている訳ですが、土の中は暗いので、結局何が生っているか判別できていません。あと味覚オンチですから。彼は調子の良い時には私と会話してくれますが、「今食べているものが土か実か判らない」と前に話していました。私が律儀に毎回水やりをしなくても放っておけば彼は土を食べて暮らしていくのではないでしょうか。それはそれで構いませんが、酷い奴だと言われたくもないのでやはり明日も水をやることにします。
 水やりを終えた私は、椅子に座って本を開きます。彼に読み聞かせるためです。彼は本がとても好きなくせに、暗い暗い土の中に引き籠ってしまったせいで何も読むことができません。いえ、本当はここに照明器具のひとつでも入れたって良かったのです。コンセントのことなら大丈夫です、家の中から延長コードを繋げて伸ばしてくるだけですから。でも彼は、「暗い方が落ち着くから」と言って私の提案を断りました。持て余した延長コードは今押入れの中でニート生活を送っています。彼は「それにこんな場所へ本を持ち込んだら汚れてしまうから」とも言っていましたが、そんな場所で生活する彼自身が汚れていくのは構わないのでしょうか。構わないのでしょうね。そういう人です。
 朗読している私の声を、彼はちゃんと聞いているのでしょうか。生存確認は今日もしました。確かに彼からノックの音が返ってきました。それでも殆どの場合声を発さない彼が本当にそこに居るのか少し不安になります。だから私は明日もノックをします。それで不安が消えることはないけれど、明後日も私はノックをするでしょう。

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