忘れ物
スーツを着て、家を出る。
駅まで歩く。
いつもどおりの出勤。しかし、何かが気にかかる。何かを忘れている気がする。
何か。
「あなた!」
背後から、声。
振り向くと、妻が駆けてくる。
「あなた、もう、お弁当忘れてる」
ああ。なるほど。これだったか。
礼を言って、受け取った弁当の包みを通勤鞄にしまう。
妻と別れ、改めて駅へ向かう。
……しかし、まだ。
何かが、気にかかっている。やはりまだ何か、忘れているような気がする。
何かとても大事なものを……。
駅のホームで、電車を待つ数分間。
ぼうっと、線路を眺めている。
「お、おい!」
背後から、声。
しかし、今度は妻ではない。振り向けば、そこにいるのは同僚だ。
「ああ。おはよう」
「え? あ、おはよう、その……」
この同僚とは家が近く……それだから使う駅も同じで、毎朝、このホームで会って挨拶を交わす。いつもどおりのおはよう。でも少し、同僚の様子がいつもと違った。何か、言い淀んでいる。どうしたのかと思っている内に、電車が来る。
同僚と共に、いつもの車両に乗り込む。
いつもの位置で吊り革を握り、車窓を流れるいつもと同じ景色を眺める。
「あー。ええと」
同僚は、隣で吊り革を握りながら、いつもと違う暗い顔で、話しかけてくる。
「その……大丈夫か? まだ、辛いだろ。無理はするなよ」
同僚の言葉に、首を振る。
「大丈夫。平気だよ。それより、ありがとうな葬式来てくれて」
自分の口から出た言葉が。
言葉の意味が。
わからなかった。
なんで今、自分は、葬式だなんて言ったのだろう。
誰の葬式だ?
「いや……大丈夫じゃないだろう、お前、奥さんと本当に仲良かったのに。……もう仕事に戻って平気なのか? ……いや、でも、そうだよな、家にいても一人で寂しいだけだって言ってたもんな。その、話ぐらいなら、いつでも聞くからな」
「ああ……」
ああ。ああそうだった。
そうだった。
なんで忘れていたんだろう。
妻が死んだ事を。
つい先日、妻の葬式を、したばかりなのに。
「あ」
はっ、と、気付く。
吊り革からぱっと手を離し、慌てて通勤鞄を開く。
「どうした?」
同僚の声が聞こえる。電車が揺れる。体が揺れる。
鞄の中には、弁当の包みなど、入っていなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫。大丈夫だよ。何でもないんだ。何でもない。多分、悪い夢を見たんだ」
違うか。良い夢から、とても良い夢から、今、覚めたのか。
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