おかえり
「見つけた!」
声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。
いや……本当に僕はこの人を知らないのだろうか。どこかで見かけた事があるような気もする。気のせいかもしれないけれど。
「見つけたぞお前……こんな所まで来てたのかよ……まあいいや帰るぞ」
彼は僕の腕を掴み、ぐいと引っ張って立ち上がらせる。その時初めて、僕は自分が地面に座り込んでいた事に気付く。というか、ここはどこだろう。辺りを見回すと、なんとも奇妙な場所だった。電卓とか、ハサミとか、糸のついた針とか、書籍とか、そういう雑多な物が巨大になって地面に突き刺さっている。うん、僕や彼の背よりもずっと大きいのだそれらは。空からチチチと鳴き声が聞こえて、見上げると折り紙の鶴が小鳥のように鳴きながら飛んでいた。
「ここ……何ですか? どこ、ですか。貴方は」
「はいはいどこだろうなぁ誰だろうなぁ行くぞほら」
彼に手をひかれて僕は歩き出す。どこに連れて行かれるのかわからなくて、少し、怖い。でも、同時に、彼の後ろにいれば安全だと、そう思う自分もいる。彼が僕の手を掴んでさえいてくれるなら……。でも、彼は誰だろう。
僕の手をひいて僕の前を歩く彼の更に前、光が見える。
そこには、湖があった。
水面がぴかぴかきらきら光っている湖。
太陽光を反射している感じではなくて、湖自体が発光している、そんな感じ。
そこへ、彼は足を踏み入れる。
ざぶざぶ、ずぶずぶ、水の中に入っていく。
僕の手を掴んだまま。
「な、なん、なんですか、何をしてるんですか」
「大丈夫大丈夫近道だから」
入水自殺でもする気なのか、この人は。抵抗しようとしても彼は異様に力が強く、僕を、湖に引きずり込む。
どぷん。
水の中は、酷く苦しい。
「苦しいのはお前が息を止めてるからだろうが」
……? 彼の言葉を脳内で解釈しようとしていると、彼が僕から手を離し、そしてズパンと僕の頭を勢いよくチョップする。
「痛っ!」
思わず声がもれた。口を開いてしまった。でも、苦しくはなかった。
水の中なのに、呼吸ができる。
水の中は眩しい。どこもかしこも光っている。あまりの強い光に目が潰れてしまいそうだ。
光の中に、何か、黒い影が見えた。
黒い影はとても大きくて、僕はその影の正体について何の根拠もなしに「鯨だ」と考える。湖に鯨なんている筈がないのに。
でもそれは確かに鯨だった。
影の輪郭がはっきりしてきて、大きな口とつぶらな瞳と白い腹がはっきりと見えてそれはやっぱり鯨なんだと思った瞬間鯨は大きな口を大きく開けて僕らを食べた。
視界が暗い。
光が消えた。
光が。
光。
光が、見えた。
ぼんやりと、見える、白い世界。
これは……天井だ。真っ白な天井だ。それから、点滴も見える。
点滴?
そうか……ああそうか……ここは病院だ。
僕は病室のベッドに寝ているのだ。
「おっ、起きたか。おかえり」
声がする。天井の方にぼんやりと、何かの姿が浮かんでくる。
それは、半透明の人間。ドラマの中に出てくる幽霊のような、透けた存在。
いや、それは確かに幽霊だ。
そして、さっきまで僕と一緒にいた男だ。
僕は彼の事を知っている。知っていたのだ。さっきは忘れていたけれど。
「…………ただいま、先輩」
数年前に死んだ先輩が、何故こうして僕を守り続けてくれているのかは、知らないけれど。僕が死にかける度に彼は僕をこっち側に連れ戻してくれるんだ。
「お前すぐ落ちるのやめろよホントに」
先輩は生前と変わらぬ口調で文句を言うので、僕は謝る。
でも、別に死んでも構わないのにと思っている事は、決して口には出さない。
「嘘つけお前あんだけ抵抗してたくせに」
先輩は生前と変わらぬ笑顔を見せる。口に出していない言葉を勝手に読むのやめてほしい。本当に。
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