山の向こうより、とある一場面
「ねえこれ、見た事ないやつだ。食べられるかな?」
「毒はない。――汚染以外には」
君はいつもそれを言うね、と僕は笑う。
汚染。それを言うなら、この広大な場所、その全てが汚れ切っている。
振り返る。僕らの背後にそびえ立つ山、その向こうの荒廃した大地、その更に向こう、僕らが、住んでいた街。安全な、汚染されていない、綺麗な街。
もう帰ることのない街。
汚染された果実を、ひとつもぎ取る。
「スッパ! あ、あー、でも、酸っぱいけどなかなか。君も食べる?」
「私は機械だから」
「だよね」
わかり切った答、それが何故だか無性に嬉しい。人間に似せられた見た目の、人間ではない彼女。君が僕の心を、本当に理解することはないだろう。どうして僕が、わざわざ汚染された領域なんて旅するのか。生まれ育った街を、家族を友達を捨てて、君とふたりで旅をして――いつか、そう遠くない日に僕は死ぬだろう。それがいつかはわからない、でもその日は確実に、近付いている。
死にたい訳じゃない。
けれど。
だけどね。
「街で死にたくはなかったんだ」
「街は嫌い?」
首を振る。
「好きだよ。とても。自分の故郷だし、良いところだ」
それでも。
「僕の死に場所ではなかったんだ」
まだ、彼女と出会う前のこと。
祖父が死んだ。
病で、長く入院していた。当時の僕はまだ幼かったけれど、周りの大人達の様子や、痩せ細った祖父自身を見ていて、ああもう駄目なのだなと、気付いていたように思う。
祖父は、家に帰りたいなあと言っていた。帰りたい、病院でなく、自分の家で死にたい。そうこぼしていた。そうして、彼の願いは叶えられた。死の直前、帰宅の許された祖父は、長年暮らした家の自分の部屋で、窓の外の、見飽きた筈の風景を眺めながら、とても幸福そうに微笑んだ。死ぬ時もまた、きっと苦しまずに逝ったのだろう、嬉しそうに楽しそうに、笑いながら眠っていた。
その時は、ああ僕も家で死にたいなあと考えた。
だって祖父があまりに幸せそうだったから。
だけど。本当にそれで良いのだろうか? 祖父は確かにそれを望んだ、でも僕は? 僕はどこで死にたい? 家の中。よく遊んだ公園。通った学校。夏に泳いだ川の傍で、ピクニックに出かけた山の中で。ああ、どこも違う。僕はそこで死にたいと、そこで終わりたいと思えない。
ではあそこは?
まだ行ったことのない場所。
行くことのできない場所。
行くことの許されない場所。
山の向こう側。
そこは、汚れていて危なくて、行ってはいけない場所。そう言いきかされる度に、僕は、ひどく興味を惹かれた。誰も足を踏み入れることのない場所、1500年前からずっと、人の手に触れられることのない場所。
何があるんだろう。
そこには何があるのだろう? 遥か昔の痕跡は残っているだろうか、それとも、かつて人が生きていたとは思えないほど自然に満ちている? ああ、見たい、その光景を、その全てを。
「僕はね」
今。
あの山を君と越えた僕は。
「この領域の全てを、あますところなく見てしまいたいし」
汚染された空気を深く吸い込みながら。
「やがて死ぬその瞬間に、『ああとても全部は見られなかった』と思いたいんだ」
君の隣で笑う。
「矛盾してる」
「だよね」
彼女の言葉はもっともだ。だけど、確かに僕はそう思っているのだから、仕方ない。全てを見たい、まだ知らない光景に出会いたい。それと同時に、この場所は、果てしなく広大であってほしい。僕らの越えたあの山の、その先端すら見えなくなるほどに歩いても、まだまだずっと広がる世界、延々と続く知らない道、それを僕は求めているのだし、その先を、見たいのだ。
君と一緒に。
「あ、ねえ」
指をさす。密集する木々のその隙間、見えるのは黒い人工物。
「あれ、何だろう」
「建物の残骸のように見える。形状は塔に似ているけれど、詳しくはわからない」
「行ってみよう!」
駆け出す僕を、追いかけて彼女も走る。ざくざく、葉の積もる地面を踏みしめて。切れやすい蔦をむしりながら進んでいくと、頭の3つある鳥がギャアと鳴きながら空に飛び立つ。あれを捕まえる方法も今度考えてみたい。たまには肉も食べたいものな、彼女はやっぱり、汚染されているというだろうけど。
僕はどこで死ぬのだろう?
あの塔のように(塔か何かの残骸のように)遥か昔に作られたものの上で、景色を眺めながら死ぬかもしれない。土の上で、空を眺めながら、静かに骨になっていくのかもしれない。いつかどこかの終わりの時に、君が変わらず隣にいてくれたら――実はそれだけで、僕は幸福なのかもしれない。
走っていると胸がだんだん苦しくなって、咳をすると、赤いものが一滴。
終わりはすぐそこなのかも。
でもだったら、だからこそ、進んでいく。見たことのないものを求めて。知らないものを求めて。僕が指さす方向に、君がついてきてくれるから。
「ねえ!」
君に向かって僕は叫ぶ。
僕の隣を走る君に。
「楽しいね!」
「……そう」
表情を変えない君の、抑揚のない声と、透き通った翡翠色の瞳が。
僕はすごく、好きなんだよ。
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