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愛を語るのはいくつになっても


気怠い。生温い気温のまま7月に突入してしまった。
暑いのは嫌いではないのだけれど、それでもさすがに想像しているよりも暑さには勝てないので、もう少しだけ暑さには負けないように生きていけるようにしたい。


誰かを思いやることがどんなに大変なのか、考えるタイミングが多い。
自身の中で繰り返し消化してきたことも、年齢を重ねるにつれて今までと同じように、ではすまないことが多くなってきた。


昔大好きだったアーティストのCDを全て手放したことを、ついこの間思い出した。すごくすごく、本当に好きで、CDが出るたびにいつも初回盤で購入していた。
初回盤のCDには、本体のCD台座部分のプラスチックのところを無理やり開けると、そのアーティストからの秘密のメッセージが書かれていて、それに気がついた時はまるで宝物を見つけた気持ちで、全てのアルバムの台座を開けた。
今考えると、「もしも今の時代だったら…」SNSですぐにわかるようなことなんだけれど、あの頃は(私が小・中・高校生くらいの頃)まだSNSがなかったので(前略プロフィール、ブログ、魔法のiらんどとかが流行っていたっけ)、情報を見つけるツールが今よりも格段に少なかった気がする。

でも、あの頃はその生き方が好きだった。し、それになんの違和感も感じていなかった気がする。インターネット普及を感じていた頃だったとは思うし、あの頃にすれば情報が並々ならぬ量で入ってきていたように感じていたわけだから、
それはそれで楽しかったし、自分だけの秘密として見つけたそのメッセージは、それからも何度も読んだりした。(ボーナストラックの歌詞が書かれていたりなんかもした)


それから大学生になって、全てのCDを持って一人暮らしをして。
それからも何度かそのアーティストのCDを購入しては、台座を開けて。でも、いつの間にか学生も終わって、生活している間に、北海道での暮らしから東京へ移動してくる、というときにその全てのアルバムを手放した。

その頃には、CDの内容はデータになって、パソコンからiPodへ同期され、私は音楽を持ち運んで生活できるようになった。

それから、サブスクがはじまって、聴きたい音楽のほとんどは、定額を払えば聴けるようになったりした。なんて便利な世の中なんだ!
同じ頃にSNSが流行ってmixiからTwitter、Instagram、Facebook、tumbler、それからTikTok。時代を超えて、私たちは手広く様々な種類、様々な人々とつながることができるようになった。
離れてしまった友人が今何をしているのかもわかるし、あの頃の自分が何をしていたかわかるような一種の日記のような扱いにもなったSNS。

知らなかった人間と繋がることもできれば、知らなかった場所の景色も見せてくれるそれら。
いずれにしても自分の知らない世界が、まるでカッターで切り裂かれるように景色として自分の目の中に入ってくるのだ。


ここ何年かのうちにこれらの便利な部分を知っては、感嘆する日々である。
というか、あまりにもこれが自然になりすぎて、これらがない生活を想像すると、はて、どうやって暮らしていたかな?みたいに思うこともある。



そんな中で思い出したのだ。アーティストの初回盤のCDの存在を。”物”として、自分の手中の中にあったそれを。自分で見つけた秘密のメッセージを、ボーナストラックを。

見えないものが見えた時、知らなかったものを自分で知った時。
誰も教えてくれない場所にたどり着いた時。そういう時の喜びとか、幸せ、みたいなものの感覚を、どういうわけかこの間急に思い出して、恋しくなって、ちゃんとそれを知れている自分でよかったな、と、今これを書きながら安心している。


時代は変わる。変わるし、変わるから生きていける。新しい感覚を身につけることに対する反抗心みたいなものが、あんまりないので、その水に慣れれば、ではないが、あっという間にその場に慣れることにあまり苦手意識はない。

でも、大事だった頃の感覚、忘れたくないんだよねぇ。


たまたまこの間、カシスオレンジを飲んだのだけれど、その10年ぶりくらいに飲む、「居酒屋のTHEカシオレ!」みたいな、「宅飲みで飲む、あのボトルが可愛いと思っていた時代に飲んだカシオレ!」みたいな、もう、THE、THEカシオレ、みたいな味を久々に飲んだときに、うわぁぁ、これだこの味だったわ〜、と本当に「エモい」気持ちになった。
目の前にいたゆりも飲んだら、「うわぁ!」と言っていて笑った。

「でも、その時の味を知ってる、その味を経験した大人になってよかったなぁ」

みたいなことを言っていた。確かに。あの頃の味を知ってるから、今こういう気持ちになるんだもんね。




大体好きなものに愛を注ぐのは私の中ではそんなに大変なことではないのだけれど、ただ、愛の注ぎ方の形が変わってきたような、そんな気もするのだ。


昨日まで好きだったものが、今日になって急に苦手になったり、良いなと思っていたことが、あんまり良くないかも、と思いはじめたり。
そういう自分の変化にも、なかなかついていけなくなるのが生きていたらちゃんとある、というのが人生なのかもしれなくて。それが自然な流れなのかもしれない。

自分が正しいと思えることばっかりではないけれど、できるだけ自分の考えていることが「大丈夫なことだよ」と思えるようには生きていきたいのかもしれない。



ていうか、ボーナストラックってめちゃくちゃいい響きだな。私の好きなツイッタラーの人が、ボーナストラックって名前でやってたなぁ。最近投稿しなくなっちゃって少し寂しい。
人生のボーナストラック。そういうことを考えながら、生きてみようかな。







次回の記事は2022年8月12日(金)です。


次回は、目の前にあることとの戦い、について、書こうと思います。

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