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スティーブ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」コリン・カリー・グループ

東京オペラシティコンサートホールで開催された、スティーブ・ライヒ「18人の音楽家の音楽」コリン・カリー・グループによる演奏会が開催された。
ボクにとって久々のライヒ生演奏を、じっくり聴いた。
改めて、ミニマル・ミュージックを、演奏会で生でじっくり聴き込んでみて、いろいろ考えさせられたし、圧巻の演奏に包まれると、意識が異空間に吸い込まれるような感覚を覚えて、非常に感動的な演奏会だった。

ミニマル・ミュージック、スティーブ・ライヒとの出会い

簡単にミニマル・ミュージックについて書かせていただくと、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽のことである。

1960年代にスティーブ・ライヒをはじめとして、アメリカの現代音楽のムーブメントとして始まり、その手法は、電子音楽、打ち込み音楽とも相性が良く、クラフトワークやYMOをはじめとして、テクノ、ポップミュージックに多大な影響を与え、あるいは、ヒップホップなどのサンプリングDJ手法のルーツ的な音楽でもある。

クラフトワーク、YMOに心酔し、そして、ドイツミニマルテクノを浴びるように聴くために、ドイツまで何度も行ったボクなのだが、実はライヒの音楽との出会いは非常に古い。
ボクがまだ小学校時代、音楽といえば、クラシックと中島みゆきさんと八代亜紀さんしか聴いていなかった。
そんな時に、NHKFMで日曜日の深夜、クラシックの番組が終わった後の約1時間、「現代の音楽」という番組があった、といいますか、この番組は今でも続いており、現在は、日曜日の朝8時10分~9時の放送時間になっています。

クラシック音楽の余韻に浸っていた日曜日の深夜、NHKFMをそのままつけていると、ふと流れてくる不思議な音楽。ある時は不快とも思えるような不協和音だったり、悩ましく異次元空間へと誘うような曲だったり。

最初は何気なく聴いていた「現代の音楽」だったが、その不思議な魅力に、だんだん興味を持つようになり、作曲家の名前も覚えていった。
今でも、小学校の音楽の授業で鑑賞するのかなぁ?「ノヴェンバー・ステップス」で有名な武満徹さんや、「ゴジラ」の映画音楽で有名な伊福部昭さんのお名前も、ボクはこのNHKFM「現代の音楽」において衝撃的で印象的な曲を聴く中で、知った。

「現代の音楽」で流れる曲のほとんどは、難解で強烈な曲が多かったのだが、その中で少し印象が異なり、その頃から単純に「心地よい!好きな曲!」と思ったのが、スティーブ・ライヒに代表される、ミニマルミュージックだったのだ。

先日亡くなった坂本龍一さんも、スティーブ・ライヒに影響を受けたことは、何かのインタビューで拝見したことがあったが、ふとWEBで検索していると、その「現代の音楽」に坂本龍一さんがゲスト出演され、ライヒの曲も紹介されたそうである。

確かに坂本龍一さんが作曲された曲の中には、初期YMOの電子音によるフレーズの反復はもちろんのこと、ソロ活動を開始されて以降、楽器の生演奏による、明らかにライヒを意識したのではないか、と思わせる曲も多くある。

現代音楽=「CON」(同じ)+「TEMPO」(時代)の音楽?

ボクがスティーブライヒの曲を、生演奏で初めて聴いたのは、1997年Bunkamuraのシアターコクーンで開催された「THE CAVE」の映像と生演奏による舞台であった。それからでも既に25年以上が経っている。

「現代音楽」は、英語で書くと「contemporary」=「con」(同じ)+「tempo」(時間・時代)の音楽、というニュアンスである。
スティーブ・ライヒの曲は、作曲されて、既に50年近く経ち、ライヒの曲だけを単純に切り出せば、既に「contempo」とは言えない時代のものなのかもしれない。
しかし、その後のコンピューター、ITの飛躍的な発展と共に、現代では、電子音によるフレーズの反復を元として作曲される曲が溢れかえる世界になった。
そして、昨今のAIの発展により、人間の「感情」と密接に結びついてきた「音楽」も、もしかしたらAIにより作り出される時代になるのかもしれない。そこには明らかに、ミニマルミュージックの系譜がしっかりと生きていると思う。
もしかすると、スティーブ・ライヒも後に考えたように、ミニマルミュージックの根底を辿っていけば、世界各地の民俗音楽的なリズムの反復にまでたどり着くのだろうか?・・・「音楽」の根本が単純な「反復」にあるとすれば、人間にとって心地よい音楽を作ることは、簡単にAIによる代替可能な所業なのであろうか?
そこに人間が介在すると、どのような意味があり、そして、どのような可能性があるのだろうか・・・???

そんなことを考えながら、今回改めて、スティーブ・ライヒの魅力は何なのか、生演奏で「18人の音楽家のための音楽」をじっくり聴き込みながら考えさせられた次第である。

意外と泣く!スティーブ・ライヒ!

ミニマル・ミュージックの特徴なのであるが、短い旋律が、単調なリズムが微妙にずれながら、半音階づつ上がったり下がったりする。
この単調な半音階の動きの中に、音楽をやったことがある方ならわかると思うが、半音階の動きが、いわゆる「ブルーノート」旋律のようなものを感じさせるのである。
ライヒが作曲する中で意図した部分もあるのか、聴いている我々が、規則的なパターンの中に、いつの間にか聴き慣れたメロディを感じてしまうのか・・・。

また、これは「18人の音楽家のための音楽」よりも、「Double Sextet」などで顕著なのだが、リズムの上で単調なメロディを奏でるバイオリンとチェロの弦楽器が、「下げ弓」による長音から「上げ弓」の短音というのを繰り返すのが、ボクには、日本の演歌の「こぶし」のようなものを感じて仕方が無いのだw
まぁ「18人の音楽家のための音楽」の中でも、バスクラリネットの刻む音が、どうしても演歌を思い出してしまうのは、ボクが演歌を聴き過ぎたからか!?

世に言う「泣き」のフレーズをミニマルミュージックの随所に発見する!

YMOの曲を聴いたピーター・バラカンさんが、そこにそこはかとなく「東洋的なもの」「オリエンタリズム」を感じて、坂本龍一さんに問うたら、坂本龍一さんは否定して、「純粋に西洋音楽を作ったんです!」と言い切ったという逸話を思い出す。

まぁ、ライヒは、「THE CAVE」の中で、自分のユダヤ系という系譜に回帰して作曲したりしているので、その滲み出る民族性、「泣き」のフレーズを、意識的に削除しないで、密かに狙ったんじゃないかなぁ、と、勝手に感じているのだが。

Visualizeしやすい音楽

「18人の音楽家のための音楽」約60分がずっと飽きないのは、先に書いた、「泣き」のフレーズがドラマチック!なことにより、頭の中に絶えず情景が浮かび上がってくるからではなかろうか?
あなたは、ライヒの曲を聴いて何が頭の中に浮かぶであろうか?

太陽、雲、星、水・・・そんな自然の情景であったり、都会の喧騒、電車、自動車・・・そんな人工物かもしれない。

とにかく、ライヒの曲を聴くと、頭の中に自然に情景が浮かんでくる、という人は多いのではなかろうか?
試しに、ライヒの曲に映像を当てはめてみると、どんな映像でもしっくり来てしまう(あくまで個人の感想ですが・・・)

ボクもライヒを聴き始めた当初、この現象が面白くて、街で撮ってきた映像、単に空を撮った映像、(当時やっとパソコンの性能が追い付いてきたノンリニア編集の機能をフルに使って)何でもかんでもライヒの曲に乗せて楽しんでいたのを思い出す。

そして、18人の人間が織りなす音は、一音として同じ響きは無いのだということに気付く

そんな、「ミニマルミュージック」を、18人の生身の人間が演奏する!
なんという、豪華なのか、質素なのか、よくわからない料理を味わっているような、この不思議な感覚!最高です!!

そして、今回生演奏で見て、初めてわかることなのだが、いいよねー!ちゃんと演奏家が、「休める」ように設計されているんだよね!!
ずっと音を刻んでいるシロフォン(木琴)も、途中で交代しながら演奏しているし、最高だったのが、SectionsⅥから演奏されるマラカス!
第一マラカスと、第二マラカスが、ちゃんと交代できるようになっているんだよ!!
AIが発展する現代において、「疲れる」→「休める」って要素、非常に重要になってくるんじゃないか、と、今は非常に感覚的だけど、ボクは勝手に思っているんです。
楽譜が全部休符になっている、ジョン・ケージの有名な「4分33秒」の演奏!?じゃないけれど。
たまには休もう。だって人間だものw

そして、その半音階、一音一音絶えず変化していく泣きのフレーズ、強弱、
まさに、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず

一音一音、非常に贅沢な曲であることに気付く。
まぁ、もちろん、フツーに生演奏の曲ってどれもそうなんだけれども。

しかし、約50年の時を経て、AIが発展した今だからこそ、ミニマルミュージックの中に、人間の精神性、感情、民俗性を描き出した、スティーブ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」がより価値を持ってくるんじゃないだろうか?

録音をCDで聴いているだけじゃわからない、価値のあるコリン・カリー・グループ「18人の音楽家のための音楽」生演奏でした!

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