見出し画像

拝啓 上岡龍太郎様~都会に憧れた。大阪に憧れた~

上岡龍太郎さんが亡くなった。81歳であった。
かねてから、「僕の芸は20世紀で終わり。21世紀には通用しない」と言っていた通り、2000年4月に引退を宣言して、最近の姿は、テレビやラジオで拝見することがほとんど無かった。

ボクが大好きな、過去の有名人が亡くなるたびに「昭和が、20世紀が遠くなりにけり」と散々繰り返しSNSで嘆いてきたが、もうあまりにも嘆き過ぎて、飽きた。涙も涸れ果てた。

ボクは岡山出身である。
世間一般的にも地理学的にも、もちろん、岡山県は「中国地方」であり、「関西」は隣の兵庫県までである。
岡山と兵庫の県境の山を越えると、確実に関西弁の方言は無くなるし、JR西日本の「新快速」電車も、絶対に兵庫県境を越えることは無い。
しかし、岡山人の微妙な心情で、中国地方で一番西側に位置することや、広島県への対抗意識も相まって、「岡山よりも都会といえば、大阪、京都、神戸」、「岡山から買い物に行くなら、大阪、京都、神戸」、「学校いくなら大阪、京都、神戸」、「立身出世は大阪、京都、神戸」という、岡山人の関西への帰属意識は、非常に高いと思う。
まぁ、ボクの家族に、大阪に住んでいる伯父、伯母が多かったというのも大いに影響しているし、学校が大阪、京都、神戸でその後岡山に帰ってきた親戚も多かったから、ボクの家族はとりわけ関西への思い入れが強いのかもしれない。
お盆、お正月の休みになると、関西弁を話す伯父母、いとこが岡山に帰ってきて、美味しいお土産と共に、おもろい話をたくさんしてくれた。
大阪に住んでいる親戚が帰ってくると、明るく楽しい幸せな雰囲気が広がった。

1997年の大阪。右のはヒドイ現像ムラ。。。

ボクがものごころついた時、両親は、「ノックは無用!」や、「花の新婚!カンピューター作戦」等の番組に夢中だった。
関西のモーツァルト、ギダ・タローさん作曲の華々しい主題歌と共に(ノックは無用の主題歌はギダさんじゃなかったらしいw!?)、立て板に水を長す如くまくしたてる、上岡龍太郎さんの関西弁の流暢な口上と司会っぷりは、子どもが観ても、言っている意味はよくわからなかったが、他の「東京キー局」や「岡山ローカル」制作番組とは異なる雰囲気を醸し出していた。
ボクが馴染んでいた、大阪の親戚が持つ楽しい雰囲気を、それらの番組が家の茶の間にもたらしてくれたのだった。
もちろん、毎週土曜日の12時からは「吉本新喜劇」を観ていたし、家族で車で出かけるときには、車のラジオのアンテナをめいっぱい伸ばして、AM1179MHz「MBS毎日放送」をガンガンに大音量で流していた。
しかし、子ども心に、「関西」の味を一番味わわせてくれるのは、上岡龍太郎さんだったように思う。
うん、実質的に「大阪のドン」だった、やしきたかじんさんを知ったのは、それよりずっと後だった。
突然、うちの親が「やしきたかじんのライブ行ってくるわ!」と言って岡山市民会館に出かけて行って、その後、高校になってから「たかじんnoばぁ~」とか見始めたもんな。。。

1981年には「神戸ポートピア博覧会」に行き、その後大阪の親戚のところに遊びに行った。
「新快速」電車の速さを体感し、青い103系通勤電車や、オレンジの大阪環状線、茶色い阪急電車、銀色の地下鉄・・・電車に乗るだけで、「都会」を感じるには十分だった。そして、大丸、阪急、阪神等の百貨店のおもちゃ(この頃既にボクにとっての憧れは「鉄道模型」だった)の品揃えに目を輝かせていた。

やがて、小学校の頃は、ほぼ毎年1回は親戚の家や、イベントなどで、関西を訪ねるようになった。
大阪弁天町の交通科学館にも何度も行ったし、千里丘にあった太陽の塔、万博記念公園、毎日放送放送センターを見学したり、1990年には、大阪で「国際花と緑の博覧会」が大々的に開催されたり。

1990年「国際花と緑の博覧会」会場にて

中学校になると、ボクは親が付き添わず、友人と、あるいは、一人で神戸や大阪に行くようになった。
ボクの行動圏は、大阪心斎橋や、神戸元町に広がり、単なる観光地から、ボクが一人で行くことができる、「買い物圏」になった。
ボクが「ファッション」に目覚め、大阪を代表とする「関西」が、岡山には無い商品と価値観、ボクにとって広がる「世界」を提供してくれた。
1995年の阪神淡路大震災で、そんな大阪、神戸の街が変わり果てたことに、ボクは心が痛んだ。

この頃、ボクは「大阪」に憧れ、ボクは将来、大阪で生活することを夢見ていた。

ちょうどそんな頃、上岡龍太郎さんと笑福亭鶴瓶さんの「パペポTV」を見始めた。
ボクがやっと、親の目を盗んで、深夜番組を見ることができるようになった、1990年代も後半になった頃だった。
上岡龍太郎さんは、ボクが幼少時から「司会者」として知っていた上岡さんよりも、ずっと自由に、鶴瓶さんとトークを繰り広げた。ボクも「たかじんnoばぁ~」をはじめ、やっとトークの内容を理解することができるようになった年齢だった。
「大阪」心斎橋の古着屋のディープな部分を知り、同時に心斎橋タワーレコードでCDを漁り、神戸の東急ハンズで、岡山の女の子へのお土産を買っていた。

だがしかし!!

ボクは、ちょうどその頃、「華の都大東京」(長渕剛「とんぼ」より)を知ってしまった。

劇的な出会いであったが、その経緯は、こののはnoteに何度も書いているので、詳細は改めて読んで欲しい。

要するにボクは、「東京は夜の七時」を知ってしまったのだ!!

ボクの大学志望校は全て関東になった。

今、思い返すと、薄情な気もするが、ボクは結局、横浜に住むことになり、上岡龍太郎さんも前述の通り、2000年4月に引退をすることになる。

ボクの大阪への憧れは、上岡龍太郎さんと共に、終わってしまったのだ。

逆に、上岡龍太郎さんの声を聞くと、ボクが大阪に、関西に憧れていたあの頃を鮮明に思い出す。

今でも、関東のお笑いは・・・ハッキリ申し上げて、嫌いだ。

ボクは、田舎の中国地方の岡山人であり、関西人にはなれなくて、流暢に関西弁をしゃべることもできないからこそ、今でも大いに関西人に憧れている。

憧れ、笑い、楽しみ、和やかな時をもたらしてくれた、関西への憧れと共に、上岡龍太郎さんのトークを思い出す。

上岡龍太郎さん、ありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?