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楳図かずお大美術展~進化しつつ退化すること~マンガ文化とボク

グワシ!!!!

六本木東京シティービューで開催されている、「楳図かずお大美術展」を拝見してきました!グワシ!!

伝説の名作「わたしは真吾」から発展した、楳図先生の新作絵画「ZOKU-SHINGO」101点!
圧巻!!
うーん、見応えたっぷり!見応えしかない!!
約1週間経ちますが、まだまだ余韻に浸っていて、頭の中を考えがぐるぐるぐるぐる・・・本当に稚拙な言葉で語りきれないのですが、自分のマンガ文化への関わり等も交えながら、文章を少し書いてみようと思います。

写真展「漫画脳展」で受けたインスピレーション

何しろ、ボクにとってタイミングも良かった。
ちょうど、今年の年明け、原宿デザインフェスタギャラリーで開催されていた、写真仲間のケンタソーヤングさん主催の写真展「漫画脳展」を拝見して、非常にインスピレーションを受け、「ボクとマンガの関わり」って、何だったっけなぁ、と考えていたところだった。

漫画脳展。とても楽しい写真展でした!!

この「漫画脳展」は、自分が影響を受けたマンガの、お気に入りのセリフを元に、決してコスプレ的な二次創作ではなく、そのマンガからインスパイアされ、世界観を再構築させた写真作品を展示した写真展。
ボクは出展者でもないのに、「ボクだったら、何のマンガの、どんなセリフを選ぶだろうか?」と、今までボクが読んできたマンガの系譜を改めて頭の中で思い出してみた。
そんな中で、ボクが大いに影響を受けたマンガ家の一人である松本大洋先生が、最新作「東京ヒゴロ」を出版されたりして、

ちょうど読み終えたところで、この楳図かずお先生の「大美術展」の開催となったのである!

読んだマンガは少ないかもしれないが、ボクはマンガに救われた

実はボクは、「マンガ好き」という人と比べると、読んだマンガは少ないと思うし、かなり偏った部分もあると思う。
しかし、幼少時からマンガ好きだった従兄の影響も受け、おそらく藤子不二雄先生の「ドラえもん」「パーマン」「オバケのQ太郎」等のアニメからマンガに入り、自分でマンガ本を買ったのは、小学校の頃、鳥山明先生の「Dr.スランプ」だった。
その後も、当時人気絶頂だった「ドラゴンボール」等はアニメも見たし、単行本を中心にマンガも読んだが、当時、学校のみんながお小遣いを貯めて熱心に購読していた「週刊少年ジャンプ」「週刊少年マガジン」等の雑誌は、ボクは一切購入していない。

このnoteには何度も書いているが、運動、体育は苦手で大嫌い、ファミコンをはじめとするテレビゲームの文化にも取り残されたボクだったのだが、

ボクが、いじめっ子の標的となることから逃れるための唯一の方法、それこそ、ボクが「自分でマンガを描くこと」だったのである。

そのころ、ちょうど藤子不二雄先生が監修した「まんがのかき方」を熟読し、小学校当時人気のあった鳥山明先生のタッチも意識しながら、真っ白な「自由帳」にひたすら鉛筆でコマ割をして、マンガを描いた。
(amazonに掲載されたコロタン文庫の本を掲載しておくが、この本ではなかった気もする・・・)

そう、これこれ!!アピカ学習帳のパンダの表紙「じゆうちょう」!!
この「じゆうちょう」をボクは何冊消費したことだろう!!当時、過去作も含め、ランドセルの中に常時4~5冊持参して、いじめっ子を含めて、男女問わず、クラス中のみんなが、ボクの自由帳を読み回してくれた。

楳図かずお先生の「おろち」との出会い、そして、手塚治虫先生のマンガとの出会い

楳図かずお先生のマンガに出会う方が、手塚治虫先生のマンガより先だった。小学校の頃通っていた、近所の散髪屋の待合室に、楳図かずお先生の「おろち」が置いてあったのだ。当時の「おろち」の印象として「ものすごく怖いマンガ、しかし、読むのを止められない!!」という思い出がある。
ボクは、散髪(その頃はほとんどの小学生男子は「スポーツ刈り」だったのだが)が終わった後も、「このマンガが読みたい!」と言って、待合室で一人、そこにあった「おろち」の全巻を暗くなるまで読んだ思い出がある。
「おろち」を読み終えて、散髪屋を出て、暗くなった町がひたすら怖かった!!
しかし、楳図先生の絵は、あまりにも緻密で、どちらかというと当時の「少女マンガ」に近いタッチで、とてもじゃないがボクの画力でまねできるものではないと思った印象がある。

その後、マンガ好きだった従兄の影響で、手塚治虫先生の「メトロポリス」から、手塚治虫先生のマンガに入った。

正に手塚治虫先生のマンガは、初期作品から系譜通り、律儀に順番に読んでいった。「メトロポリス」「ロストワールド」を読んだ衝撃は、今でも忘れられないし、その初期手塚治虫先生のマンガのタッチは、何となく自分でも真似出来そうな気がして(今考えると全然出来ていないんだけど・・・)ボクが小学校高学年になるころには、ボクの「じゆうちょう」マンガも、手塚治虫先生初期作品に影響されたタッチになり始めた。(実家に残っていないかなぁ・・・確か、「ヒョウタンツギ」のキャラクターも登場するようになったw)

手塚治虫先生officialページよりhttps://tezukaosamu.net/jp/character/616.html

その後、中学校になって、ボクは、小学校のいじめっ子とも「おさらば」して、「じゆうちょう」も必要ない環境になったのだが、この小学校で培われた「絵を描く力」は、その後もボクにとって重要な影響を持ってきたと思う。

NHKFM青春アドベンチャー「わたしは真吾」

中学生だった1993年、当時ハマっていたNHKFM放送の連続ラジオドラマ番組「青春アドベンチャー」の中で、楳図かずお先生の「わたしは真吾」が放送された。
実は原作より先に、ボクはこの「青春アドベンチャー」で「わたしは真吾」と出会うことになる。

今考えると、「マンガ」を絵の無い「ラジオドラマ」で再現するなんて、なんて無謀な企画なんだ!!と非常に驚くし、全15回で、後から原作を読むと、実はかなりバッサリ省略されている部分もあり、決して原作通りではない。しかし、ロボット「真吾」の「・・・だったと言います」という独特の語り口と「奇跡は誰にでも一度おきる。だがおきたことには誰も気がつかない。」という言葉は、当時のボクを引き付け、東京タワーから飛び降りる「悟」と「真鈴」のシーンや、部品が失われていく「真吾」のラストシーンに手に汗を握り、手に取るように画像を思い浮かべながら、聞き入ったことを思い出す。

東京スカイビューから見た東京タワー

その後、「わたしは真吾」の原作を読むことになるのだが、もちろん、原作でよりこの作品について深まったことは事実であるが、「青春アドベンチャー」の「わたしは真吾」も、楳図かずお先生の世界観を損なうことなく、見事にボクが思い描いた画像が原作に一致していたことに今でも感慨深いものがある。

「人間退化」~果たしてボクらは上手く着地できるのか~

そして、今回の「楳図かずお大美術展」。
「人間退化」!!!!
ドーン!!キタよ!キタよ!楳図先生!!
101点の絵画!楳図かずお先生としては、正に「マンガ」が「絵画」に原点回帰していくと言いましょうか・・・。
「わたしは真吾」の「続編」のようであり、また、全く異なった世界観がそこに表現されているわけであります。
楳図先生が自分の作品にインスパイアされながら、またそこから全く別次元の作品を生み出した!
そして、鉛筆による素描と、その色付け後の完成作品、双方が展示されているという・・・いやぁ、楳図先生は、本当に「絵を描く」その画力にも圧巻なわけで、ボクが稚拙ながら、多少なりとも自信を持っていた画力なんて、楳図先生の力の前に、もうひれ伏すしかないわけですよ。
もちろん、手塚治虫先生もスゴイ。しかし、手塚先生は、上手く申し上げられませんが、その作品毎に、マルチ、多才な才能を、上手く計算立てて表現されていらっしゃるような印象を受ける。
一方、楳図先生は、その瞬間の楳図先生を全集中で全精力を一作品に集中させて描いていらっしゃるような印象である。

楳図かずお先生が、全身全霊で、繊細な感性で、敏感に感じ取った、「今」「現在」「日本」「世界」、それが、今回の「ZOKU-SHINGO」に凝縮して描かれているように思う。

「人間退化」・・・いったん上昇して、そしてまた元いたところに戻る。元に戻った時、戻った位置自体が進んでいるから、単に退化するのとはちょっと違うと思うんです。

楳図かずお「ZOKU-SHINGO」

うーん、人口減少、格差社会、環境問題・・・題目ばかり大きく申し上げると陳腐ではありますが、正にボクらが現代日本でこれから直面するのが、上手な「人間退化」の模索なんじゃないかなぁ。

勝ち負かして、成長する末広がりの発展が現実的に望めない現代社会の中で、特にこの日本!、最初から勝ち負けの土俵に上がらない選択っていうのもしていかないと・・・

「東京タワーの頂上から飛び降りる」という形で、日本の着地点を探っていた楳図かずお先生・・・いやぁ、全てがここに凝縮されるとは、スゲエ!!!!!

とは言っても、「体育会系」や「男根至上主義」をモットーとするような、脂ぎった資本主義経営者層、高度経済成長世代やバブル謳歌世代には、伝わらないんだろうなぁ。。。

「マンガは日本が世界に誇る文化じゃけぇ!!クールジャパン構想じゃけぇ!!コンテンツ政策じゃけぇ!!インバウンド呼び込むんじゃけぇ!!日本が世界で勝ち残っていくんじゃけぇ!!」

と、鼻息の荒いおじさんたちも、まぁ、マンガを読んで育った世代には違いないのでしょうけれども・・・

ある意味、楳図かずお先生も何度も描いている通り、少年マンガって、あくまでプラトニックでイノセントな領域を守ってきたところにも、大きな意義があると思うんですよ。
いや、大人向けのエロマンガや、酷く性的に歪曲したロリコンマンガ、同人誌等が、マンガ文化を支えていることも承知の上です。

しかし、上手く言えませんが、映画や写真とも異なって、マンガやアニメは、マンガ家の描く「絵画」がストーリーを描く、その作品の対象物として、「実在の人間の肉体」が存在しないことも事実で、その作品は、作者たるマンガ家の思惑次第で、実在の人物を使わないことで、どこまでもプラトニックでイノセントな領域を追及することができる分野とも言えるのではないでしょうか。

恐らくよく言われるように、「浮世絵」等の系譜までたどることができるのかもしれませんが、「マンガ」文化が育った日本に立ち返りながら、それこそ自分たちのプラトニックでイノセントなマンガを読み漁っていた「14歳」以前の思考に立ち返ることが、「人間退化」の着地点を模索する上で大きなキーポイントになるのではないだろうか?等と、ボクもマンガを描いていた小学校時代に立ち返りながら、頭の中を思考がぐるぐるしているわけですw

あ、ボクの作品「たてぶえの味」は、もちろん楳図かずお先生の「漂流教室」からのインスパイア作品ですw

ムーニー劇場「たてぶえの味」より

では、今日はこの辺でw

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