水まきおじさん

帰宅すると部屋に水まきおじさんがいた。
「またかよ」と僕は言った。「もう勘弁してくれないかな。辛いんだよ人生が、僕も。うまくいってないんだ」
「そんなこと言うなよ」と水まきおじさんは短く言った。いつも通りバケツに水をいれて、ひしゃくをもっていた。今どき、ひしゃくなんて見る機会もなくなってきた。この水まきおじさんの姿を目にするときを除いては。
「頼むよ」と僕は静かに下を向いて言った。「そんな気持ちの余裕はないんだよ」
「話を聞かせてよ」と水まきおじさんは言った。「何が問題なんだ」
「分かってて来てるんだろう。頼むからやめてくれ」
「お金だろう。つまるところ、お金の問題なんだ。人生の問題なんかじゃない」
 僕はじっと黙っていた。そのうちに会社のカバンを持ち続けているのが疲れてきたので、そっと床に置いた。なぜだか僕は乱暴に音を立てるような真似はしたくなかった。時間ももう遅い。
「それは人生の問題なんかじゃないよ」と水まきおじさんは繰り返した。
「人生の問題だよ」と僕は短く返した。「あんたには分からないさ」
「そんな挑発には乗らないよ」と言って水まきおじさんはひしゃく半杯くらいの水をさっと部屋にまいた。フローリングが水滴だらけになった。水がたまるというほどのことはない。量が少ないというよりは、絶妙に細かく分散されている。まき方がうまいのだ。
「だからやめろって言ってるだろ」
「ほかに仕方がないだろう。こうするよりほかに」
 僕が声を荒げようと顔を上げたときには、すでに水まきおじさんの姿はなかった。ただフローリングが濡れているだけだ。僕は淡々と風呂場から足ふきマットを持ってきて床をふいた。
「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。」
 水まきおじさんの声だけが聞こえた。それは今本当に聞こえたことだったのか、それとも以前言われた言葉を自分が思い出しただけだったのか分からなかった。ジョゼフ・コンラッドの言葉だ。村上春樹が小説の中で引いた。『かえるくん、東京を救う』。かえるくんは東京の街を救った。水まきおじさんは一体何を救うのだろうか。
 僕は着替えもせずスーツのまま、テーブルについてビールを飲んだ。別に飲みたくもなかった。それよりも疲れていた。でも素面ではその言葉について考える気にはなれなかった。僕は恐怖について考えた。想像力についても、それらの関係性についても。
 でも一体どういうことなのかやっぱりよく分からなかった。僕は何事も、文章にしてみないとよく分からない。でも一日くたびれた後にビールを飲んだ頭では、ペンを持つ気にも今からパソコンを開く気にもならなかった。だからうまく考えは進まなかった。いつものことだ。
 シャワーをあびて準備をして、布団に入ってからも暗い部屋で僕はそのことについて考えてみた。『かえるくん、東京を救う』の中で、一体どういう文脈で引かれた言葉だったのだろうか。大まかなプロットと、間違いなくその作品で引かれた言葉だというのは覚えているのに、肝心の文脈が思い出せなかった。たぶん、かえる君が主人公の男に言ったのだろう。水まきおじさんが僕に言ったように。
 そして僕は情けない気持ちになった。東京を救うために言われるのと、経済的な不安に対して言われるのでは、精神の高低にはあまりにも差があった。僕は寝返りを打った。でも寝られなかった。
 想像力。きっと水まきおじさんは僕の想像力が作り出したものであるに違いなかった。それ以外に現実的に論理的な推論はない。それはもう明らかだった。床に水があるのがリアルなどということには僕はもうしがみつきはしなかった。何を信じるかという問題なのだ。水まきおじさんはリアルではない。
 僕は水まきおじさんを恐れているのだろうか?
 僕が本当に恐れているのは何なのだろうか?
 真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。
 それは、取り越し苦労とか、案ずるより産むがやすしとか、単にそういった類の事柄なのだろうか。たぶんそんな浅い話なんかじゃないんだろう。経済的な不安が僕を蝕んでいた。それは想像力とどんな関係があるのだろうか。それは真の恐怖なのだろうか。
 それは真の恐怖なのか?
 それは非常に良い問いの立て方であるような気がした。現実から離れるな、ということなのかもしれなかった。現実から離れずに考えていれば、それほど怖いことなどない、と。かえるくんはそう言っていたのだろうか。
 僕は眠りに落ちる前に、水まきおじさんが今日言っていたことをもう一度思い返してみた。言うまでもなく僕には思い出せるかえるくんの言葉が他にはなかったからだ。本当はかえるくんの言葉について考えてみたかった。でも仕方がない。さっき会話した水まきおじさんの言葉くらいしか僕に思い出せることはなかった。
 「そんなこと言うなよ」と水まきおじさんは言った。「それは人生の問題なんかじゃない」
 人生の問題なんだよ、と僕は思った。想像なんかじゃない、痛いほどリアルな人生の問題なんだよ。
「もう一度水をまいてやろうか?」。水まきおじさんの声が部屋の真ん中から聞こえた。
 好きにしてくれ、と僕は思った。僕はそんなものは怖くない。水をまかれるくらい、僕には何も怖くない。ただ面倒なだけで、それは真の恐怖なんかじゃない。
「そう、それは人生の問題なんかじゃない」
 そして暗闇に水をまく音がした。

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