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ノンバイナリー的ジェンダー論

「ノンバイナリー」

その言葉を知ったのは、ちょうど2年前の夏、だったかな。

【宇多田ヒカル、「ノンバイナリー」をカミングアウト!】

ニュースでそんなタイトルが踊っていた。

わたし自身の性自認はそれまで、Xジェンダーと認識していたし、自分は男性よりの中性だと思っていた。ノンバイナリー、という言葉を聞いたときもただ単に、「あぁ、また新しい言葉が出てきたんだなぁ」それくらいにしか、捉えていなかったし、特段惹かれる言葉でもなかった。

そしてその数か月後、心理カウンセラーの先生のところでやった心理テストによって、自分の性自認がぐらぐらと揺らぐ出来事があった。自分の中には明らかに、男女両方がいたのだ。真ん中じゃない。男性寄りの真ん中なんかじゃない。どちらもそれぞれがはっきりと自己主張する、そんな男女が自分の中に存在した。

そしてパンセクシャルであるパートナーとの出会い。

彼女はその見た目も好むものも、とても女性らしい、いわゆる「シスジェンダー女性」だ。そこに男性的な要素はこれっぽっちもない。だけど彼女の恋愛感情には、男女というフィルターはない。彼女の目に映るわたしは、どちらでもない、ただのわたしだったし、男性的な要素も女性的な要素も、どちらも求められはしなかった。そして彼女が持つ思想や哲学もまた、男性的要素も女性的要素もなく、彼女にとって女性というツールは、彼女が身にまとうための、趣向的要素の一部に過ぎないことに、気が付いた。

ノンバイナリー

わたしがその言葉を改めて思い出したのは、そんな彼女を見ていてふと、気づいたからだ。

ノンバイナリー

つまりは、バイナリー(二者択一)ではない、男女二元論には当てはまらない。それこそが自分なんだと。AI技術がどんなに発達しようとも、0と1でしかできていないのがコンピューター。

だけど人は、二者択一じゃない。白か黒かでもない。様々な濃さのグレーも存在する。男や女、そしてそれ以外の性や不確かな性、あってしかりなのが人間だ。ましてや血液型4つでもないし、星は9個でも12個でもない。そんなのでわけるくらいなら、人の歴史を分析しつづけて出来上がった、「心理学という統計学」の方が数百倍の確立で、人を分けることができるだろう。

今までは、ノンケ(異性愛者)のシスジェンダー女性を好きになってきたから、男性寄りというポジションを作り上げてきた。簡単に言えば、モテたいし、振り向いてほしいからだ。だけどそんなものが通じない彼女と出逢って初めて、自分が何者か、ということを知ることができた。

パンセクシャル

それは、あくまでセクシャリティ(性的指向)であって、ジェンダー(性自認)ではない。パンセクシャルにも色んな人がいて、あらゆるジェンダーの人がいることだろう。だけど彼女をみていて思うのは、性別はあくまで自分の趣向的要素であって、他人に対しては、性別的要素を向けていない。恋愛だろうと、友達だろうと、仕事、家族、あらゆる人間関係において、男女という枠組みがない。だから逆に、シスジェンダーに振り切る見た目・思想の人は、彼女の恋愛対象枠には入らない。そして男女二元論を嫌う。

パンセクシャルの彼女はとてもフラットだ。

恋愛指向がパンセクシャルで、思考・哲学的にはノンバイナリー的要素を持ち、シスジェンダーとしての女性を身にまとうことを好む。

そんな彼女に出逢えたわたしは、とてもラッキーだし、今とても幸せだ。

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