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透明人間が“visible”な存在に変わる〜映画「ミセス・ハリス、パリへ行く」〜

なんとなく気分が落ち込んでいた日に、映画「ミセス・ハリス、パリへ行く(原題: Mrs. Harris Goes to Paris)」を観た。
こんなに明るい気持ちになるお話だとは!
もっと早く観ておけばよかった。

そのなかで何度も登場していた単語、“invisible”について、考えたことを書く。

※ネタバレを含みます!

なぜミセス・ハリスは“invisible woman”だったのか?

字幕では“invisible woman”を「透明人間」と訳している。

主人公のミセス・ハリスは戦争未亡人で、ハウスクリーナーとして生計を立てている。
彼女は“invisible woman”としばしば揶揄され、時に自分自身のことを同様に評価する。

単に「家庭内の中心人物ではない者」「余所者」というよりは、ミセス・ハリス自身は“invisible woman”を「尊重されていない女性」という意味で使用しているように見える。

ここでは、階級意識の強いイギリスにおいて彼女がハウスクリーナー(労働者階級)であるという点は無視できない。

“invisible”を“visible”に変化させるaction

ミセス・ハリスのように“invisible”であった労働者たちが、“visible”であると認められるにはどうしたら良いのだろう。

パリのごみ収集労働者によるストライキ、解雇されそうになるディオールのお針子たちの取った作戦は、「私(たち)は“visible”な存在である」と「人々に自ら訴え再定義させる」ことだった。

わたしたちがいなければ、全て台無しになるわ。

Mrs. Harris Goes to Paris 本編より

これは、彼らが持つ労働者としてのプライドであり、主に雇い主に対するアピールである。

もうひとつの方法「取捨選択」

訴える以外の選択肢もある。
それが、人間関係や自分の属するコミュニティを「取捨選択する」ことだ。

イギリスに戻ったミセス・ハリスは、せっかく仕立てたドレスを燃やされ、雇い主からは給与が期日に支払われないなどのトラブルに見舞われる。
そこで彼女は、そのような自分を尊重しない他者との関係を断絶するという決断をした。

このときミセス・ハリスにとって重要だったのは、労働者階級同士の連帯である。
ディオールの支配人から門前払いをくらいそうになった彼女を、お針子たちが一顧客として尊重したことが始点となる。
最終的にはミセス・ハリスは、あらゆるディオールのメンバーから“visible”な存在と認められる。

新たなコミュニティやつながりが誕生し、ミセス・ハリスは自身が“visible”な存在として生きられる、より快適な世界を築いていく。

ミセス・ハリスほど度胸がなくとも、考え方次第。

このアクティブな物語のなかで非常に勿体無いのが、伯爵の家での出来事である。

ミセス・ハリスは、伯爵にとっては初めから尊重するべき対象、つまり、友人としてのフィールドで“visible”な存在だった。
階級を超越したプライベートな交流自体が、近代のイギリスにおいてはとても珍しい。

それなのに、彼女はいつのまにか「恋人候補として“visible”になること」を期待して、よりハードな理想を掲げてしまい落胆することに。
彼と美しい友情が生まれることもあり得たかもしれないのに、、、。

“invisible”であるか“visible”であるかどうかは、絶対的なものではなく、状況によって、また評価する人やその軸によって変わるということなのだ。

ある場では「透明」だったものが別な場では「重要」になる。
同じ人間を観察したときでも、たとえば相手をビジネスの相手として判断するのか、友人として判断するのかで見るべきポイントが変わることがある。

物語の最後で、ドッグレース場のおじさんがミセス・ハリスにとって“visible”な存在になるように、ある人のなかで一度なされた定義が変わることもある。

ミセス・ハリスみたいに思い切ったことをするには、体力も精神力も要る。
でも、世界中どこでなにをしようが「いつでも、誰にとっても透明人間」なんて人はいない。
気づいてないだけで私たちはみんな“visible”なのだ。

こう考えるだけで、ちょっと心が軽くなる気がしないだろうか。

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