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行けなくて涙した展覧会を画集で楽しむ雑記〜「クールベと海」展〜

2021年。
私はコロナ禍の新卒2年目社会人として、ふらふらになりながら生きていた。
人見知りなのにオンライン会議とマスクでみんなの顔もはっきりせず、覚える前に異動の繰り返し。
「辛い」と吐き出せるような友達とも、感染症対策で直接会えず。

せめて美術館に行きたいよ、新年度で辛いけどギリギリいけるかな?

と思っていた矢先に決まる休日出勤。
あれよあれよという間に時間がすぎて結局この展覧会を逃した。
普通に泣きました()

そして2023年初夏、いつものように図書館の美術コーナーをぶらぶら巡回していると、
なんと画集『クールベと海』がひっそりと仲間入りしているではないか!!!!!!!

クールベといろんな場所で会う

クールベとの出会いは、高校の世界史の資料集に載っていた《石割り人夫》だった。
あの精密さを忘れたことはない。

大学生になって美術史の授業をとったときに、私の中で「クールベ=海」の認識がうまれた。
こんなに作品の幅広い画家だとは思っていなかったので、まだ直接見てもいないのに圧倒された。

最近は「自然と人のダイアローグ(国立西洋美術館)」以外では、メトロポリタン美術館展に裸婦の作品が来ていたっけ。

《The Young Bather》1866

そんなこんなで、なんとなくいろんな機会にクールベに注目していたのだった。

物語性の排除はポイント

今回は画集『クールベと海 フランス近代 自然へのまなざし』を、すみからすみまでガッツリ読んだ。
なるほど、エッセイや解説と作品を行ったり来たり、ネットで検索したりできるのでこれはこれでいいかもしれない。

画集の最後で、この展覧会の企画の中心となったパナソニック汐留美術館の学芸員さんがかなり重要な記事を書いていた。

クールベの《嵐の海(波)》について、かのエミール・ゾラは「ただ波そのものを描いた」ことを絶賛したという。
これがフランス自然主義か。

かつての神話画や宗教画は、登場するモチーフのひとつひとつに意味があって、裏があって、とても「重たい」
クールベの《波》はそうではなくて、可変の波そのものをまっすぐに、かつ緻密に作り上げている。

これが、私が《波》に惹かれる理由なのかもしれないし、印象派がいま広く好まれる理由にもつながるのかもしれない。

好きになった作品。

印象的だったのは美術館ギャルリ・ミレー蔵の《海》。
最晩年の作のようだが、より抽象的で可変性の高さを感じる。
個人的にMARNIのバッグを想起(こういう抽象的な作品とコラボしないだろうか)。

死ぬまでに直接観たいが、これを観るには富山まで行かないと、、、。


ターナー、コンスタブルをはじめとするイギリス絵画への言及もあり、盛りだくさんな画集。
いまからでも買おうかな?と思ってしまった。

1番は会期中に行くことだけど涙

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