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心から私を思ってくれてる子供たちからのサプライズな10thアニバーサリー

移植から10年目の日、いつものごとく夫の事で散々泣き腫らしぐったりと仕事から帰宅したわたし。キッチンにいる娘が「は、早かったやん?っっ💦」と目を丸くして時計を見る。「ん?そぉ?何時も通りやで」と返す。娘の手元には沢山のフルーツと重ねられたバームクーヘン。「何してんの?」と聞くと「サプライズ失敗やぁ~10才おめでとう!!」(拍手)と娘。本当の誕生日と移植日、我が家ではわたしのお誕生日が2回あることになっている。移植後始めの数年は家族で祝い、実家の家族からもお祝いメッセージが来ていた。何年目からか私自身も忘れる様になって、ご飯時に「あー今日移植日や!○年かぁー」「おめでとう!」なんて会話だけの年もあった。
医師からの説明で「5年後無病生存率」という言葉がよく出ていたので、5年目は節目だと思って家族でケーキを買って祝った。

5年目に夫がくれたバースディーカード

そして7~8年目あたりはまた何気なく「今日だね~」ぐらいで過ごしてきた。もちろん実家の家族からはメッセージはもう来ない。正確な日付を覚えてもないんだろうし、当事者でないのだから辛かった想い出はそんな風で良いと思っている。
そういう中での今年。今日私が落ち込み泣いて過ごしたことを知らない娘は、満面の笑みでケーキを作っていた。最近の私は仕事をしているとつい夫のことを考えて気持ちが落ちてしまう。仕事が忙しくて気が紛れるんじゃないのかよ?と突っ込まれそうだが、そうじゃない。小さな会社で働いているので、一人の時間が長い。ありがたいことにその分あちこちに電話したり相続なんかの手続きをする時間はある、がそれもまた夫を思わせる呼び水になる。上司と上手く行っていないのもあって気分が晴れることはなく、ますます仕事の時間が憂鬱で仕方ない。そんな気持ちで過ごした週始めの月曜日。娘が一撃で私の気持ちを塗り替えてくれた。ケーキを作るところをあまりみるのもどうかと思い、相続手続きの為に夫の書斎に書類を探しに行った。その間にこんなものまで準備してくれていた。

泣かすやないか

こういう所は私に似たのかな?私は家族のお祝い事があると欠かさず壁にお祝いメッセージをデコレーションしてきた。そうして育った娘はお祝いはこれが無くちゃ始まらないと思っているんだろうな。我ながら愛のある楽しい習慣を我が家に作ることができたなと思う。子供が小さい頃はわたしがそれをする役まわりなので、自身の誕生日にだけデコレーションがなかった。でも子供たちが成長しここ数年わたしのお祝いにもサプライズとデコレーションがなされるようになったのだ。自分のしてきたことが嬉しいかたちで返ってきた!子供の成長はありがたい。自分なりに必死で育ててきた子供たちが今度はこちらを助けてくれるんだからそんな幸せなことはない。どんなに辛い日も子供たちと顔を合わせて話しをすると気持ちは底上げされる。

受験応援の飾り付け
「集」の字が、、、
いよいよ食後はお楽しみケーキタイム。


我が家の定番がもうひとつある。それは写真を撮るときに全く同じポーズでお澄まし顔バージョンと変顔バージョンを撮るということ。わたしの35才の誕生日、抗がん剤で髪がないわたしのために、夫はクルクルヘアーのウイッグとBIRTHDAY🎂帽子を買ってきてくれた。それ以来主役はそれをつけて写真を撮る。変顔は全力でやらないと、照れや手抜きは娘からダメ出しが入る。

お見せできない変顔スナップ

娘が夫の遺影を食卓のテーブルに持ってきた。ロウソクを立てハッピーバースディトゥーユー♪をみんなで歌い、ロウソクを吹き消し、拍手喝采を受ける。遺影も一緒に写真を撮り、ケーキも4人分切り分ける。

隙間からフルーツが雪崩
わたしの好物バームクーヘン

娘が移植や病気のことについて質問してきた。当時娘は5歳半、息子はいやいや期真っ只中の2歳半だった。息子は何も覚えていないので「ママ何の病気やったん?白血病ってなに?」と聞く。当時の娘はいやいや期の弟の母親となり家族を助けたと親族から聞かされていた。覚えていないとは言え、いやいや期に突然母親が入院して何ヵ月も会えない。たまに帰宅しても数日でまた病院へ帰ってしまう。再入院の為に路面電車のホームまで夫と子供たちが送ってくれわたしだけが電車に乗り込むと、自分も一緒に行くものだと思っていた息子が泣きわめいたことがあった。「僕もぉーーーママと行くぅーーーイヤだー」と泣きながら夫に抱き抱えられる息子と、夫の服の裾を掴み隣に立つ娘の姿が辛くて自分の境遇を呪ったのを思い出す。その後、夫からの「二人とも泣き止まなくてかわいそう」「やっと泣きつかれて寝たよ」というメッセージを一人病室のベッドで泣きながら見た。小さな子供を抱えて夫も不安で辛かったことだろう。わたしは自分に必死で夫に労りの言葉をかけてあげる余裕もなかった。娘は友だちやママ友、大人たちの心ない態度や言葉に不安だったと当時を振り返って話してくれた。友だちから「○ちゃんのママ病気なんでしょ?死ぬの?」と聞かれたり、知り合いのママから「何の病気?どこの病院?」としつこく問い詰められたり、私の家族が「雫が亡くなるかもしれないって、、、」と家族会議しているのを聞いて不安だった当時のこと。娘は私の実家家族の集まりに参加すると、闘病時期を思い出してぼんやりと嫌な気持ちになるらしい。母や妹はわたしに代わって大切に子供たちの日常を守ってくれた。もちろん夫も。でも娘の記憶の中では実家家族が集まる光景は10年前の日々をフラッシュバックさせるのだろう。

夫も一緒に祝う10th Anniversary

わたしの闘病の(私サイドの)真実を知る人はわたしと夫しかいない。実家家族にはそっちサイドの真実があるだけ。(骨髄をもらう側、または子供たちがお世話になっている側ということなどで)肩身の狭い思いもしたし、無神経な言葉に泣いたこともあった。それらを知るのはわたしと夫二人だけ。そういうわたしサイドの話を少し子供たちにし、娘は熱心に聞いていた。

10年後に自分が生きてるいかどうか不安だったその先の世界が、今の夫のいない世界だとは想像もしてなかった。そんなことを話すと娘が「でもママは離婚してよかったと思う。パパのことでママがいつもしんどそうで、そのストレスで再発したらどうしようってそれだけが心配やったから」と言いい、続けて「パパが死んだのは悲しいけど、この世の終わりとか全然思ってない。パパにはちょっと悪い気もするけど、案外平気やし不安もない」と言った。「日常生活が不自由になるとか、お出かけが楽しくなくなるとか思わへん?」と聞くも「そぉ?別に変わらんやろ」と。我が子ながら逞しい。「悲しんでないとなんか薄情かなー?」と言うから「全然そんなことない!落ち込んでるより前向きに明るく暮らしてくれてるほうがパパはもちろん、ママも安心できるし嬉しい」と答える。いつからこんな逞しく楽観的な子に育ったんだろう。ありがたい。
今この子達を失ったらわたしはもう生きていけない。わたしより絶対に長生きして沢山のチャレンジと経験をして幸せになってほしい。それを見るためにも、夫の分もわたしは健康に長生きしたい。

長々読んでいただいてありがとうございます
おしまい

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