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摂食障害、ままならない私たち

「ていうかお前、アンパンマンみたいだね」

私の顔のことだ。丸顔な上にちょっとふっくらしているんだ、私の顔は。

20歳になったばかりの時、サークルの先輩の一言がきっかけで、私は摂食障害になった。このあとの半年間で、162cm 35kg、小学5年女子くらいの体重まで、痩せることになる。

美しくなるために痩せたんではなかった。スタイルが良くなりたいとか、韓国アイドルみたいになりたいとか、決して人並み以上を目指そうとしたのではない。
とにかくもう二度と「アンパンマン」と言われたくなかったからだ。

「アンパンマン」の一件以来、自分の容姿への他人の視線がこわくなった。ふつうになりたいと思った。
容姿をあれこれ言われない、ただただ、ふつうの、揶揄されない容姿になりたい。
もう二度と容姿をジャッジされない安全なところにいきたい。

そんなユートピアがどこにあるのかもわからないまま、私のダイエットは始まった。

当時の主食は、味のついていない寒天ゼリー。市販の飲み物や食べ物の多くは、砂糖が入っているから食べられない。外で口にできるものは、水かコーヒーだけ。

食べられないから友人や家族と会うのを避ける。食事ができないと、あらゆる他者との関わりを断つことになる。
それが一番恐るべきことであって、私のダイエット脳はさらにエクストリームに突っ走り始めた。

追い詰められたメンタルが「痩せなければならない」という薪に火をつけて、もはや火消し不能の大炎上になったんである。

よりいっそう痩せるため、上下長袖を2枚ずつ着こんでダウンジャケットを着た上で、熱帯夜の街中を毎晩2時ごろまで歩き続けるなど、その頃の奇行は枚挙にいとまがない。

自分自身で、痩せ続ける自分をコントロールできなくなっていた。

シャワーを浴びれば毎度貧血で倒れて身体が動かせず、床に残ったわずかな水で溺れそうになって息ができないのに、痩せたくてしかたなかった。

現実世界で自分より「痩せている」ひとに出会ったのは、大学のある授業だった。

その講義では、先生が学生をいくつかのグループに振り分けて、グループテーマごとに詩を発表し合う。私は、「嘔吐・吐瀉物」が創作テーマのグループに配属された。合計5名のグループメンバーの一人が、Mさんだった。

ひときわ痩せた彼女は、ハキハキ大きな声で堂々としていた。何歳なのかもわからないほど痩せて、真夏の教室で冬みたいに着込んで。
Mさんは、自作の、力強くて不思議な雰囲気の詩を、朗々と読み上げていた。とにかく声が太くて大きいひとだった。

しかしMさんは間も無く授業に来なくなって、「嘔吐・吐瀉物」グループでの作品提出も遅れていた。
気持ち悪がられるかもしれないと思いながら、心配になった私はメーリングリストから彼女のアドレスを探し出し、初めて個人的に連絡を取った。

「お元気ですか?もうすぐグループ発表がありますが、進捗どうでしょうか。Mさんの詩、いつも楽しみにしています。」

しばらくして返事があった。

「入院してて出席できなかったんだけど、最近ようやく退院できました」

言われなくても、それが摂食障害の療養だとはわかっていた。「嘔吐・吐瀉物」グループに入れられた学生は、全員が摂食障害か、それに近い悩みを抱えていた。

詩を批評しあっている時に「アイスクリームを食べると吐きやすいよね」と言ったメンバーも、私よりもまだ少し肉付きの良い別のメンバーも、たぶん私も。

「また入院になってしまうかもしれないけど、次の授業は行くつもりです。がんばります!」

Mさんの詳しい経緯はわからないけれど、食べるという、ひととして基本的なことができないことの苦しみが、悲しみが、私にはもう、痛いほどわかるんだった。

結局、Mさんはその後、一度も授業に来なかった。来られなかった。

彼女からのメッセージを読み返しながら、「このまま二度と会えないんだろうか」という不安と、死という文字が漠然と頭に浮かんだ。

食べることは、生きること。
食べなければ生きられない。
食べられない私たちは、死んでしまうんだろうか?残りの人生をこんなふうにして、好きなひとと好きなものを食べることもできずに終わっていくのか?
やめるなら今しかないと思った。

私は死ぬために、ここまで痩せたんじゃない。むしろ、生きやすくなるために、自分なりに幸せになるために、もがいたんではなかったか。

そしてようやく気がついた。はじめから怒ればよかったんだと。
ひとの容姿をジャッジして揶揄することは最低なんだと、怒ればよかった。
安易にひとの身体に言及すべきでないと、おかしいと言えばよかった。
女友達が同じように言われた時も、怒ればよかった。一緒になって傷つく必要なんかなかった。

私たちは傷つけられることに、耐えることに慣れすぎていたんだと思う。特に、外見や容貌のことは、揶揄われても自業自得だからと、納得してきた。

でも、この身体は私そのものであり、誰かのためにあるんじゃない。私であるためにあるんだから、好き勝手に言われっぱなしになる必要なんか、ない。


摂食障害は、身体と心にわたる裂傷だ。裂けたところから何度も血が滲ませながら、ゆっくりと傷が塞がるのを待つしかない。
ことあるごとに痛み続け、いっそのこと全部やめてしまいたいと思うような、しつこい傷だ。

私は、いまだに食べることがままならない。
今も食べることの罪悪感と喜びの間で、日々あたふたしている。

食べることに悩み、情けなさや苦しさで眠れない夜、私はそっとMさんの姿を思い出すんである。
身体も髪も痩せ細って、魂そのものみたいに剥き出しになっていたMさん。今も必死にがんばって、本気で生きているだろうことが、私の支えになっている。

どんな日々の困難、苦しさ、生きづらさでも、私たちが悩むのは生きるためにどうにかしようとしているからなんだと思う。決して、不幸になるためではない。

私は摂食障害だけを大げさにいうつもりはない。生きづらさに悩むのは生きることを諦めない私たちの、切実さのはずなんである。

私は今でも時々、「嘔吐・吐瀉物」グループのみんなが作った詩を、そっと思い出している。みんながすこやかでいることを願ってやまない。


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