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【取材した怪談200】隊長の決断

愛知県にお住まいのA氏から伺った話。彼が幼い頃、祖父・清さんから何度も聞かされた話だそうだ。

戦時中。清さんは海軍の教官で十五人ほどの部隊の隊長を任されており、名古屋を拠点に活動していた。
その夏、軍の任務で九州に一時滞留していた清さんらは、名古屋に向かって艦船で帰還していた。ところが途中で船内の設備異常が見つかり、修理のために広島県の呉港に数日間、寄港することになった。

通常は船内で宿泊できるが、修理中の間、海軍兵は船外に出なければならない。他の任務との兼ね合いもあり、彼らは広島市内で宿泊することになった。二泊の予定だ。突発的な出来事で現地の軍の宿舎は空いておらず、市内の民家に協力を仰いで宿泊させてもらうことになった。

清さんの部隊は、市街地から少し離れた古びた平家を借りた。腰の曲がった高齢女性が一人で暮らしている一軒家だ。古い造りではあったが部屋が余っており、隊が留まるのに打って付けの家屋だった。

家主の女性からは「お部屋はご自由に使ってもらってかまいません。ただ、廊下の突き当たりにある一番奥の部屋は、使わないほうがいいと思います」と進言された。家族がその部屋で亡くなったことがあるそうで、彼女なりに気を遣っての一言だったのだろう。

だが部屋割りの都合上、その奥の部屋も使うことになった。隊長である清さんは奥から二番目の部屋で一人で使い、それ以外の隊員は複数人ずつ分かれて雑魚寝した。

・・・

その夜中。

廊下から聞こえてくる騒がしい音で、清さんは目を覚ました。廊下に出てみると、一番奥の部屋に泊った隊員らが、廊下に出て騒いでいる。

「この部屋はなにか怖い」
「寝れたもんじゃあない」
「気味が悪い」

皆、何かに怯えきっている。問い質しても明瞭な答えは返ってこない。早く戻って寝ろ、と強めに指示しても、部屋に入ろうとしない。

もう埒が明かない。清さんは別の部屋で寝ていた隊員らを叩き起こして、件の奥の部屋に移るように指示した。最初に奥の部屋に泊まった隊員らをその別の部屋に移動させた。

・・・

再び廊下から聞こえてくる騒がしい声で、清さんは目を覚ました。廊下に出てみると、先ほどと全く同じ光景が繰り返されている。奥の部屋に寝ていた隊員らが全員廊下に出て、最初に泊った隊員らと同様、ぶるぶる震えながら「この部屋では寝れないです」と訴えてくる。

理由が不明瞭な隊員らの泣き言に辟易した清さんは「もういいから、奥の部屋は俺が一人で寝る。お前らは俺がいた部屋で寝ろ」と指示し、奥の部屋に入って荒々しく障子を閉めた。

奥の部屋の造りは、他の部屋と同じ間取りの和室だ。何が部下をそんなに怯えさせているのか、一見したところ全く想像がつかなかった。

ただその部屋からは中庭が見え、空間が広く感じられる。庭には小さな池が整えられており、池の向こうには柳らしき木が一本だけ立っている。ささやかな風流を味わいつつ、彼はすぐに床についた。

<一回目の覚醒>

清さんが奥の部屋に入って眠りについてから、夜更けに目が覚めた。
中庭に視線を向けると、柳の周りに、ふわりとした白いもやのようなものが漂っているのが見える。彼は何ら気にかけることもなく、再び瞼を閉じた。

<二回目の覚醒>

その後、また目が覚めた。
中庭に目を向けると、先刻の白い靄が池の真上あたりに見えた。徐々にこちらへ接近している。接近しているが、ただの靄だ。それも気にせず、再び瞼を閉じた。

<三回目の覚醒>

その後、また目が覚めた。
今度は自分のすぐ近くに、人の気配を感じる。視線を巡らすと、横になっている自分の右脇に、白色服の女が自分を見下ろして直立している。

誰だ? 

家主の高齢女性ではない。体格が全く違う。成人女性には違いないが、部屋が暗いうえに長めの髪に隠れて表情は窺えない。

──ああ。あいつらが怖がってんのは、この女か。

家主からも「この部屋で家族が亡くなっている」と聞かされていたことも相俟あいまって、恐怖感よりも先に、腑に落ちた気分に包まれた。おそらく生者ではないのだろう。

何よりも清さんが気になったのは、その女の動作である。

女は無言でこちらを見下ろしながら、ゆっくりと右腕だけを動かしている。右腕を胸あたりから廊下側の障子に向かって伸ばし、再び胸あたりに戻す動作だった。それを繰り返している。まるで自分に付きまとう羽虫を片腕で振り払うような仕草を、極めて緩慢に繰り返している。

『出ていけ』

女の意図を察するとともに、再び眠りに落ちた。

<四回目の覚醒>

その後、また目が覚めた。
部屋の明るさから、空が白み始めているのがわかる。
女は依然として傍らにいた。今度は自分の脇に正座している。そして相変わらず無言で先ほどと同じ動作を繰り返している。よほど自分たちをこの部屋から追い出したいらしい。この異質な状況に慣れ始めていたこともあり、清さんは少し苛立ちを覚えた。

こちらは日々命を張りながら国防に尽くしている。何人も何人も何人も何人も同僚を失った。軍人に突然押しかけられて不快なのかもしれないが、こんな形で自分たちを掻き乱されると任務に差し支えてしまう。

──明晩はこの部屋を使うのはやめるか……。

そんな選択肢を頭に残した後、再び眠りについた。

朝。

隊員らは、「野宿で構いませんから、もうこの家に泊まりたくないです」と声を揃えて清さんに懇願してきた。あの白服の女が原因か、と問うと、部下らは誰ひとり女の姿を見ていないという。

当初の予定では、この家でもう一泊してから、呉に寄港中の船に戻ってから海上を経由して名古屋に帰還することになっている。清さんが迷うことなく下した決断は──。

「今日中に列車で広島を出て、名古屋に向かう」

翌日に海路を辿る行程にもかかわらず、特段の事情もないのにそれを無視して自分たちの隊だけ勝手に陸路で帰る、という決断。何故そんな判断をしたのか自分でも分からないし、後から振り返っても、そんな判断は通常はありえないそうだ。指示された隊員らも、少し困惑したような表情を浮かべていた。今日帰りたいって言ってるわけじゃないのですが、とでも言いたげだ。
ともあれ、隊長の決断は絶対である。諸々の手続きを経て、清さんの部隊はその日の夕刻に列車に便乗して広島市を出発し、名古屋への帰路についた。

・・・

広島市に原子爆弾が投下されたのは、その翌朝だった。

民家に現れた女の仕草は『広島は危険だから早く出ていけ』という意味だったのではないか、そしてなぜか自分はそれに従うことになり、命を救われた、と清さんはしみじみと語っていたそうだ。

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