できることならスティードで Trip4「岡山」/加藤シゲアキ (読書感想文)

「岡山」は
単行本が発売された時に
できることならスティードで公式サイトで
試し読みができたので
単行本が発売される前に1度(ホントは何度か)
読んだことがあった。

試し読みの期限は終了してるので
読めないけれど
↓のページにその名残がある。
https://note.com/asahi_books/n/n0066f0f0de7d

今回文庫本発売を機に
「岡山」のみ試し読み↓ができるので
興味を持たれた方は
ぜひ読んでいただきたいところ。

https://publications.asahi.com/steed/#steedNav04

「岡山」の中で
私が好きなところは
認知症を患っていた
シゲちゃんのおじいちゃんがシゲちゃんのお父さんに
「お前の息子二人おるやろ」
「歌って踊る方と、書く方がおるじゃろ」
と言うところ。
ひとりっ子のシゲちゃんが
多才なために2人になってるのが
笑ってはいけないのかもしれないけれど
微笑ましく感じてしまったのです。

読書家のおじいちゃんは
「書く方」のシゲちゃんが好きだったみたいだけど。

そして、シゲちゃん自身
興味を持った
会った時に「歌って踊る方」と「書く方」
どちらだと思うのか
私も興味を持った。

シゲちゃんのおじいちゃんの反応、言葉が
微笑ましくもあり
物悲しくもあり
とてもあたたかい空気を
文章から感じ取れた。

シゲちゃんのおじいちゃんが亡くなったとき
シゲちゃんは葬儀に参加できなかったので
お父さんからの知らせにこう返信したらしい。

「父さん、気持ち大丈夫?」と。
それに対して
「大丈夫ですよ」と敬語で返事が来たそうだ。

シゲちゃんもいつもは「親父」と呼んでるのに
なぜかそう呼べず「父さん」と書いたそうだ。

その後の
「あぁ、なんか、家族っぽい」という言葉に
シゲちゃんの家族のあたたかさを感じる。

これはシゲちゃんの家族のエピソードを聞くたびに
いつも思うことだけど
シゲちゃんは本当に愛されているなと思う。
いい家族。いい家庭だなと思う。

そしてこの「岡山」を読むと
母方の祖母のことを思い出す。

シゲちゃんは父方の祖父だったけれど
私は母方の祖母。
シゲちゃんのおじいちゃんは享年91歳。
私のおばあちゃんは享年93歳。
同じく認知症を患っていました。
正反対のような
でもちょっと似てるような?。。。(´ー`)

タイトルをつけるとするなら
「三重」になるのかな?

シゲちゃんと同じように
小さい頃は盆と正月に必ず行っていた
おばあちゃん家。
私だけ残って
両親は一旦家に帰ったりしていたこともあった。

その頃はお風呂も薪で焚いていて
そのままだと熱くて入れないので
水でぬるくしたうえで
木の板の上に乗って湯船に浸かってました。

トイレは所謂ぼっとん便所で
木でできていて外にあったので
夜行くときは懐中電灯を持って行き
下に落ちないように気を付けながら用を足してました。(笑)
台風の時は雨戸を閉めて外に行けないので
おまるを土間に置いてしのいでいたことも
まだ覚えてたりする。

私が三重に行くと
いとこが集まってきてくれて
布団を並べて寝たりして
ちょっとした修学旅行の様だった記憶もあります。

おじいちゃんは
私が物心ついたころにはもう歩けなくなっていて
座ってる横を急いで通り過ぎたりしてました。
ほとんど言葉を発しなかったのと
たまに捕まった時にものすごく強い力だったので
遠巻きに見ることが多かったです。

いつ頃からか
ベッドで寝たきりになって
来た時と帰る時にちょっと挨拶をするくらいしか
おじいちゃんの部屋には行ってなかったです。
でも、おじいちゃんの小指と私の小指は
曲がり具合がとてもよく似てました。
変なところでDNAを感じたものでした。

おじいちゃんは
私がまだ学生の頃に亡くなった記憶があるんだけども
正確な年がはっきりしない。
大人になってからだと
もう少し記憶がはっきりしてる気もするので
学生時代の気がするんだけどなぁ。。。

さて、おばあちゃんの話に戻ります。。。

おばあちゃんは
叔父と一緒に住んでました。
認知症を患ってから
叔父ひとりでは大変だろうと
父と母は、おばあちゃんの家に滞在することにしました。
なので時々おばあちゃんの様子は知らされていて
認知症が進行してきてるから
少しでもわかる時がある時に
会いにきたらどうかと言われました。
そして行くことにしたのが
2010年の11月30日でした。
12月1日まで滞在しました。

大人になってから
おばあちゃん家に足を運んだのは
2~3回くらいでしょうか?
いちばん近々では
近くの施設で好きなバンドのライブがあったので
近くまで来て寄らないのも不自然だなぁと思い
泊まらせてもらったのでした。
それが2002年の秋でした。
どれだけ訪れていないかがわかりますね(;´∀`)

おばあちゃんは
会話が成立する時もあるし
おばあちゃんの世界の中で
展開される時もあったりしました。

比較的、
私が居てる間は
元気だった気もします。
トイレまでの往復を
ほとんど自分の力で歩けたりしてて
ここ最近ではなかったみたいでした。
私が訪れたことで少しは刺激になったのかもしれません。

服の着心地が悪かったら
すぐに脱いでしまったりしてました。

暑かったのも
あったかもしれません。

脱いだ後に
私が着させてあげたら
おばあちゃんの中では
袖を通してなかったんですね。。。

通している袖に通そうとしたり
していました。
そりゃそうか。
おばあちゃんの中では
袖を通した記憶がなかったのだからね。。。
そんなことを思いながら
おばあちゃんと触れ合ってました。

実はこの時
おばあちゃんのことを思って
絵を描いて行ってたのです。





最初は普通に虹を描きたかっただけなんですが
ちょうどおばあちゃんの子どもの数になったのです。

木が、おじいちゃんとおばあちゃんで
空の丸は
大きいのが孫たちで
小さいのがひ孫たちを表してます。

額に入れたら
ひ孫が増えてるのは
内緒の話。(笑)

この絵をおばあちゃんにも見せてみたんですが
「これは邪魔だから下に入れとき」と
小さな台の下に隠されてしまいました。(笑)
帰る時にはベッドのところに置いてきました。(笑)

私がおばあちゃんに会いに行ってから
亡くなるまで
実は1ヶ月くらいしかなかったんです。
なので
思い切って会いに行って本当に良かったなと思います。

その1ヶ月の流れをSNSにメモしていたので
そのままここに記しておこうと思います。

******

おばあちゃんの認知症の状態が
急激に悪化したので
ひょっとしたら脳に異常があるのかもしれないということで
12月3日に検査に行きました。

しかし、脳には異常は見られず
おばあちゃんはおうちに戻ってきました。

うちの母も持病があるので
通院の日が近付いたこともあり
一旦大阪に戻りました。
5日くらいかな?

その週末(11日くらいだったかな?)に
叔父から電話があり
おばあちゃんの容態が悪化して
病院に運ばれたということでした。

両親は
すぐにおばあちゃん家へ。

その時、私はというと
女の子な痛みで倒れてました。。。

今、何かあっても
行くことができないよ~。。。。・゚・(ノД`)・゚・。と
おばあちゃんに念を送ってました。

その念が通じたのか
おばあちゃんの容態は安定しました。

その後、膀胱に溜まった毒素のせいで
認知症の症状が出てるのではないかということが判明し
毒素を抜いてみると
おばあちゃんの認知症は
嘘のように治まったようです。

自分の生年月日から
周りの人の名前まで
完璧に言えるようになったそうです。

ただ、そのおかげ(せい?)で
自分の状態を
把握できるようになりました。

認知症の症状は治まっても
自分で歩くことはできませんでした。
そして、毎日、
自分の子どもや婿、孫などに
尿が溜まりすぎないように
抜いてもらわないとダメなんです。

呼吸も苦しいのか
いとこのお姉ちゃんに見せてもらった動画では
鼻に管が通ってました。

自分の状態を理解できてきて
日に日に言葉数が少なくなってきたみたいです。
(元気な時から
 そんなに言葉数が多い人ではなかったですが。。。)

そして12月31日。
お昼頃に呼吸に変化があり、
14時頃には脳死と診断されました。

人工呼吸器ははずされ
後は、自然に心臓が止まるまで
見守ることにしたようです。

その時、血圧が40だったそうです。
その後、年が明けるか明けないかくらいに来た
父からのメールには
血圧90まで戻ったと書かれてました。

まだ、おばあちゃんの体は
生きようとしてるのかな?と
思いました。

そして、
2011年1月1日1時52分に永眠しました。
(日記には54分って書いたのだけど
 親戚の挨拶では52分って言ってたので
 そっちが正しいかな。。。)
93歳でした。

両親が再度おばあちゃん家に行った頃
私は動けないから
もうちょっと頑張ってって
念を送っていたのだけれど、
おばあちゃんの認知症が回復して
落ち込み気味だと聞いた時、
(私も動ける状態になっていたし)
おばあちゃんはどうしたい?
生き続けたい?
もう満足?
おばあちゃんの望む方を選んでいいんだよと
念を送り始めました。

おばあちゃんが入院してから
子どもたち、、、
両親や叔父、叔母たちは
交代で病院に行き
おばあちゃんの身のまわりの世話と
尿を抜く日課をすることになってました。

12月31日。
その日は両親の
担当日でした。

ここ数日は
言葉もうまく話せていなかったようです。

父がおばあちゃんのベッドを起こしてあげた時に
おばあちゃんが何か言ったそうです。
よく聞き取れなかったので聞き返したら
はっきりとした口調で
「ありがとう」
「ありがとう」
と2回言ったそうです。

その後、
呼吸に異変があったので
父が看護師に知らせました。
そのままおばあちゃんは肉体から離れ
おばあちゃんの心臓も
自然に動くのをやめました。

なので、
おばあちゃんの最期の言葉は
「ありがとう。ありがとう。」です。

父がベッドをあげたことに対しての
「ありがとう」だったかもしれないし
他にも言いたいことがあったけど
たくさん喋れないから
「ありがとう」の一言に集約されたのかもしれないし
両親だけにではなく
世話してくれた、全ての人に対する
「ありがとう」だったのかもしれません。

ちなみに
私に対するおばあちゃんの最期の言葉は
こんなシチュエーションでした。

認知症の状態のおばあちゃんを
ひとりで椅子に座らせようとした時
ずり落ちそうになったので
ちょっとグッと持ちあげたのです。

その時一瞬普通の状態に戻ったんだと思います。
声のトーンがおばあちゃんの
話し方になっていたので。

私に対するおばあちゃんの最期の言葉は
「重いやろ?」でした。

******

おばあちゃんの
私に対する最期の言葉を
記憶にも残すことができたので
ホントに会いに行って良かったなと
今でも思っています。

2011年1月2日~6日まで
おばあちゃんとのお別れの儀式に参加しました。
通夜と葬儀の会場では
祭壇に私の絵も飾ってくれていて


父が撮った写真は
おばあちゃんが
私の絵を見てくれているようでした。
(光の加工で消してますが。。。(´ー`))

通夜の時も葬儀の時も
なぜか
父が運転する車の私の座席に
おばあちゃんのお骨が
木の箱に入って置かれていました。
おばあちゃんのお骨を
抱かせてもらえるのは
有難いのでしっかり抱かせてもらいましたが。。。

不思議なことに
触れた部分がじんわりあったかくなるんです。
嫌な感じもしないので
おばあちゃんのお骨と
じっくり会話してる感じでした。
木の箱がひょっとしたら
あったかい材質なのかな?とも思ったのだけど
不思議な感覚でした。

行きに持っていってた叔母も
同じようにあったかくなったようです。。。
これはホントに不思議な体験でした。(´ー`)

こうしておばあちゃんとの
最後のお別れをすることができました。

少し長くなってしまいましたが
「岡山」を読んで
思い浮かべた私の旅「三重」でした。


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