僕がやるから あんたはちょっと黙ってろ
8.
AKAZUKINのイベントの後、僕は急速にパンクに向かって走っていく。セックス・ピストルズの再結成には5回行った、なんてうそぶきながら、実のところ、クラッシュやP.I.Lやポップ・グループ、ニュー・ウェーヴは大好きだったものの、例えば3コードで搔き鳴らされるストリクトリー・パンク・ロックはまったく、そうまったく知らなかった。初台ウォール、中野ムーンステップ、武蔵境スタット、高円寺ギアや20000V、方南町や西荻窪のスタジオライブに顔を出すようになる。いつものように泥酔して帰る日々。ツタヤ新宿店のレンタルコーナーでデッド・ケネディーズをGBHをブラック・フラッグをまとめて借りては聴くようになる。
AKAZUKINと同じようにモヒカンにしたベーシストの女の子がいるTHE JOESというバンドを、やっぱりAKAZUKINのモヒカンのベーシストに教わる。AKAZUKINと並走していたMARMALADEが渋谷で今のところ最後のライブをやったあと。MARMALADEのいちばん人気のある曲はマッドハニーのタッチミーアイムシックを下敷きにしていて、オーディションで出た渋谷の大きなライブハウスにお客さんは僕ひとり、彼らは最後にそのいちばん人気の曲を途中からオリジナルのマッドハニーの歌に変え、にやりと笑いながら、最後にはステージにギターを叩きつけて穴をあけて、ライブを、活動を終えた。
AKAZUKINもまた。デザインフェス、彼女たちを知らないお客さんたちの前に出ていったとき、大きな野外のステージで、彼女たちの演奏が始まるやいなやライブが終わるまでにどんどんと人が増えていく夕方、夕暮れの記憶を残しながら、解散を決めた。モヒカンのベーシストはもういない、西荻窪。THE JOESの爆弾都市というイベントのいちばん最初の出番が最後のライブとなる。いまのところは。THE JOESのメンバーともライブに通ううちに交流を始めていた僕は、志願してDJをその西荻窪のライブスタジオでやることになる。機材の確認をすると、CDJがあるとのことだったので、やっぱり1000枚くらいのCDを2つの袋、1つのハードケースに入れて向かった。CDJ,これね。そういわれてリハーサルに臨む。そこには、CDJが一台だけ机に置かれ、CDJと本来ミキサーを繋ぐ赤白のケーブルは、PAのメインの卓にそのまま繋がれていた。つまりセレクトしてCDを変えようとすると、イジェクトし、CDを入れてサーチし再生するボタンを押すまで、しばらく無音の状態になる。DJの机の近く、PAブースにもスタートしてからPAさんはおらず、MARMALADEのギターボーカルがそれを苦笑いして見ている。よくあることだよ、僕は笑う。パティ・スミスをかけたことくらいしか覚えていない。PAブースの上に小窓があり、そこから控室が見える。AKAZUKINのメンバーがフロアを見ているのを覚えてる。二人だけではじめた最後のライブ。彼女たちを見ようと狭いライブスタジオに満杯のお客さん。新宿のライブハウスの店長が感極まって、ステージ中央に置かれた、僕が彼女たちに渡した花束をむしって、配って回る。特に、脱退したベーシストに。彼女たちはいつものようにスリッツの曲をSEに、いつものようにライブをして去っていく。感傷に浸ることもなく。
THE JOESのライブに通い始めた僕は、彼らとしばらくの時間を過ごす。電車を乗り継いで、本牧や横浜や、志津川まで遊びに出かけるようになる。都内でライブがあれば朝まで呑むか、ボーカリストの家で始発まで過ごす。武蔵境スタットでの爆弾都市、そこだけはきちんとしたDJシステムがあった。THE JOESのほとんどルーツのすべてであるブルーハーツを、ハイロウズをたくさんかけた。あるとき、吉祥寺のブラックアンドブルーというライブバーでDJをしたとき、そこにはDJシステムがないので、PAブースにある2つまではCDがかけられるCDプレイヤーを使って、DJをした。シャムロックのモッド・ナンバーをかけ、アイフォウトザロウのオリジナルをかけ、ストーンズをかけた。素人の手習い、はじめてDJで、セレクトで、納得いく時間が作れた。最後にクラッシュのポール・シムノンの選曲したクラッシュのメンバーが若き日に聴いていた曲を集めたコンピをかけながら、打ち上げで上気してみんなと喋り、THE JOESのベースの妹にそのCDをあげた。よくわかんなかった、あとでそんな風に彼女は感想をいい、その日出演していたBAD ATTACKの野村さんに、たくさんのCDのなかから何枚かをあげた。リバティーンズがあったことは覚えてる。買うまでじゃないんだよな、人に貰うとかじゃないと聴く機会がないからさ、なんて笑う。
THE JOESの地元・東北ツアーにDJとしてついていった。はじめてのツアー、志津川のカフェでのライブ。CDJをあらかじめ用意してもらうように知り合いだったオーガナイザーに頼んだ。これでいいっすよね?といわれて見たら、DVDプレイヤーだった。わしゃ、うかわか?と突っ込んだが、誰も笑ってくれなかった。やっぱりトラックサーチをしながら、1曲ずつかけていくことにした。本番前、地元の海の見えるホテルのお風呂に一人で行った。3000円の入浴料を払うと2000円分のそのホテルで使える商品券が貰えた。お風呂場に向かう途中のラウンジで、その日ライブをやる地元の高校の生徒たちがだべっていた。僕は彼女たちに2000円分の商品券をあげた。使い道もなかったし。お風呂から帰ってくると、彼女たちはピノやとにかく4,5人みんなでわけられるお菓子を買って、僕にも1個ピノをくれた。ライブは高校生たちのモンゴル800のコピーで始まる。モッシュが起こる。カフェからは海が見える。泥酔しながら僕は喋り続ける。高校生の夢を聞く。看護婦、まだ決めてない、お前、東京に出るだろ?と聞いたら、なんでわかるの?ってびっくりした子。彼女のその希望を知らされなかったその子の友達。別れ際、ショートカットの女の子がまた来てねと手を振る。志津川から次のライブへ。地元じゃ有名なダムがある道。人気のない道路。僕以外のみんなが有名な自殺の岬に降り立つ。僕は怖くて、降りられなかった。
次の日は岩手の千厩、角蔵ホール。手作りの、僕には凄く大好きなライブハウス。朝、忌野清志郎が死んだよ、ってニュースになる。誰もが少しだけ黙る。田んぼのなかにある角蔵で、そのうちにいるじぇいこぶさんって大きな黒い犬を散歩させたりしながら、開場を待つ。アル・クーパーのジョリーをかけたら、角蔵の若いスタッフのひとがサバービアだね、なんて呟く。THE JOESの地元だけあって、彼らの仲間たちがわんさかやってくる、暗闇に浮かび上がる角蔵の灯り。俺なら、ドカドカうるさいR&Rバンドをかけてほしかったよ、スローバラードをかけていたら耳に張り付きつづけることになる声。悪い予感のかけらもないなんていいながら、曲自体が悪い予感に満ちたスローバラードに少し込めた感傷を、清志郎にもっと思い入れのあるミュージシャンが嗤う。
THE JOESのイベントでのDJの記憶は、あれだけたくさんしたはずなのに、いくつかしかない。もちろん、僕が本格的にアルコールに溺れていたのもある。仲間内での結婚パーティーでハイロウズをずっとかけ続けていたことや国分寺のパンクイベントでのDJってあんまり好きじゃないわ。断片しかない。少年犯罪、悶々学園といったTHE JOESの周りの青春パンクバンドたち。
THE JOESを最後に見たライブは新宿の地下にあるライブハウスで、悶々学園ってバンドのイベントだった。メンバーとお客さんを呼ぶために新宿の街に出て、呼び込みをした。ほとんどナンパだった。THE JOESのライブまでには僕はいつものように泥酔して、そしてDJブースにいるのも放棄して、最前列の柵に上って、叫んでいた。イベントが終わるまでずっと。缶ビール片手に。それはTHE JOESまで終わってしまうんだ、あっという間に。そんな感傷に勝手に溺れたエゴだったのかもしれない。単にビールの呑み過ぎだったのかもわからない。いつもの朝を、同じ朝を繰り返す。僕がやるからあんたはちょっと黙ってろといっていたパンクバンドは、いつもの朝を繰り返す、そんな諦念で潰えた。これは単にやっぱり僕の感傷で、そして今のところ、唯一の出禁をそこのライブハウスで喰らう。まだ30にもなってなかったとはいえ、青春パンクに夢中になるにはとうにおじさんになっていた。同じ朝を繰り返すには。僕がやるには、少しだけ。
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