夕焼けとおじいちゃん

おじいちゃんの容態が良くないという連絡を受けた僕は、
病院に駆けつけるために、母親から入金された仕送りの全財産をATMで
下ろして、朝一番の飛行機に乗るつもりだった。

「亡くなったよ。午前3時。だからあんたはゆっくり帰って来なさい」
明け方、母親が淡々と僕に言う。
「飛行機じゃなくていいから。新幹線にしなさい」
それで始発の電車に乗って、山陰地方を目指す。
僕が住む街からは、一度、東京駅に出て、それから
新幹線で岡山まで行き、乗り換えて松江まで行き、
そこからおじいちゃんちまではバス、都合7時間はかかる。
はやる気持ちを、心のざわつきを安定剤が少し沈めてくれる。

おじいちゃんちに着くと、おばあちゃんや従姉妹が
「てっちゃんかあ」と大きなテーブルでお茶を飲みながら、
迎えてくれる。
両親や妹はまだいない。
「顔を見てあげて」
おばあちゃんが言う。
それで僕は5年振りにおじいちゃんと会う。
鼻と耳に白い綿を詰められて、
夏の終わりだったから蝿がたかるおじいちゃんの顔を見るなり、
僕は声を上げて泣く。
嗚咽は、「てっちゃんも疲れたでしょ?お茶を飲みなさい」
と言う声が聞こえても、しばらくは止まらなかった。

久しぶりの再会も、
ニートの僕には近況も歯痒く、
疲れからか、居間で横になる。
しばらく寝ていた。
年配の男性の声が寝ていた僕の耳に入ってくる。
「ともさんの技術はまあ誰にも真似できなかったね。
他に任せられる人もいなかったです」
そんな「社長」と呼ばれる人とおばあちゃんの会話が聞こえてくる。
大工だった。
耳が戦争でほとんどきこえなかったけれど、
おじいちゃんは(もちろん行政の許可を得て)、
補聴器をして、バイクに乗っていた。
たまにおじいちゃんちに行くと、
仕事帰りのバイクの音がだんだんと近づいてきて、
僕を見るや笑顔になってくれるおじいちゃんは、
それだけで僕に安心感を与えてくれるたった一人の存在だった。

スーパーカブ、それも緑のカブに
妹と二人、乗せてもらったことがある。
二人がまさにきゃあきゃあと歓声を発するものだから、
やっぱりおじいちゃんは笑顔でバイクを走らせる。

それから大体、いつも新聞を老眼鏡で読むか、
老眼鏡を頭の上側に外してうたた寝するか、
いつもの座椅子でプロ野球を流し見しているか、
夕ご飯は必ずお刺身とおばあちゃんは決めていて、
缶のビールを一杯だけ呑んで、
穏やかにその座椅子で過ごしていた。

両親が来て、僕を安いスーツの即売店に連れていく。
それからやっぱり革靴も安物で買って貰う。
特に会話はなかった。
母親が父親と僕の間を取り持つように、
たまに他愛のない事を話している。

おじいちゃんの孫の7人のうち、
6人が揃う。
かずくん、僕が慕っていたお兄ちゃんとも
久しぶりに会う。
たくさん喧嘩もしたし、少し大人のTV番組を見せられた従兄。
「かずくんさ、小学校の時に手紙をくれたじゃん」
「おー覚えてる、覚えてる」
「今でも持ってるよ」
ははは、二人は力なく笑う。
一番年上のあきらくんがそこにいない。
一番おじいちゃんとおばあちゃんと近い存在のいとこ。
だけど、誰もそこには触れない。
どんな理由かは知らない。
おじいちゃんとおばあちゃんに育てられたあきらくんは、
いつからか、そこにはいなかったもののように、
そっと姿を消した。
高校を辞め、おじいちゃんと同じように職人の道に入った
あきらくんがおじいちゃんと同じように、
缶ビールと煙草とお刺身を食べている姿を思い出す。

お通夜の席で、目を閉じていると、
部屋を行き来する音が聞こえる。
忙しなく、動く誰か。
それから隣では父親が始終、体を動かしている。
僕の心は落ち着かない。
ふと目を開けて動いている誰かを見ると、
妹が携帯を隣の部屋でしゃがみ込んで見ている姿が入る。
それで僕はまた目を閉じる。
妹はお通夜、お葬式の最中、ずっと、そんな往来を続けていた。

お葬式の朝、僕と妹ともう一人の従姉妹が
同じホテルの個室に泊まっている。
「よその子は我が家には泊められん」とおばあちゃんが言った、
母親からそう聞いた。
かずくんと、下の3人のいとこのうちのけんちゃんは、
おじいちゃんに泊まっている。
母親とおばあちゃんはずっとおじいちゃんが亡くなる前から、
揉めていると聞いた。
よそんちの子かあと思う。
朝7時過ぎに部屋の電話が鳴る。
妹だった。
「もう車に乗らん?」
ホテルから妹の車でおじいちゃんちに向かうのは、
9時集合で良かった。
「まだ早い」
「そ、なら待つわ」
それでいて9時にロビーで僕と従姉妹は、
妹を待つ事になる。
15分は待っただろうか、
携帯を鳴らすと、
「寝てた」
ぶっきらぼうに妹は言う。
妹の運転中、
妹はずっと従姉妹に恋愛、と言うより、
妹と付き合っている男性の、DVや酒癖の悪さを、
語り続ける。
辟易、従姉妹はそんな言葉が表情に出ていた。
小さな声で、同じトーンで話にも声色にも起伏なく
呟かれる愚痴。
それは昨晩から続いている。

「てっちゃん!あんたほんとにてっちゃん?
まああんたは子供の時は女の子みたいに可愛かったのに」
誰ともわからないおばさんが、
僕に話しかけたり、
「あんたたち、ひいばあちゃんの時の土葬を思い出したんじゃない?
あんたたちほんとに怯えててさ」
と母親がかずくんと僕をからかう。
確かにひいばあちゃんの時には、
丸い桶に体育座りのひいばあちゃんがいて、
その棺を雨のなか、暗い山の中に運んだ記憶がある。

喪主はおじいちゃんおばあちゃんの最初の娘が務める。
それも異例の事らしく、
父親とおじいちゃんおばあちゃんの末の妹の旦那が
ケチをつけているのは知っていた。
それでもお葬式は終わり、
火葬場へ向かう。
火葬場で骨になって出てきたおじいちゃんは、
肺がんの治療あとがわかるように胸が緑になっていたし、
一人ずつ骨壷に骨を拾って入れたあと、
「こりゃあまあ大きな骨で入りきらんね」
と火葬場の人が言って、
頭蓋骨を箸でガンガンと割っていく姿を
皆でびっくりして眺めたりしている。

夜になって、一番末の従姉妹と僕がおばあちゃんと
大きなテーブルで話している。
従姉妹はおばあちゃんのマッサージをして、
僕はおばあちゃんの呟く言葉を聞いている。
その従姉妹が火葬場で泣き崩れた時の事をおばあちゃんは、
ふと「あんたをおじいちゃんは可愛がってたもんなあ」と言う。
「てっちゃんも、ずっと心配してた」

最後におじいちゃんと会ったのがいつかは覚えていない。
おじいちゃんとおばあちゃんの家に来るのが、
子供の頃、ずっと唯一の心の安らげる場所だった。
夕焼けを見て、みんないつか消えちゃうんだな、
と思った。
そして最初に思ったのは今から会いにいくおじいちゃんの事だったし、
なぜか涙が出てきて仕方がなかった。
いざ、そのおじいちゃんが亡くなった時には、
少しだけ大人になったのか、
最後に会った時、これで会うのは最後になるのかもなあと
思ったのを覚えている。

それでも上京してずっと、
おじいちゃんの事はずっと、
心の支えになっていた。
必ず帰ることのできる、安心できる場所、
それは決して消えてはいない。

「おばあちゃん、ビール呑んでいい?」
「冷蔵庫にあるけ、呑みんさい」
僕はずっと本来あるべきお葬式の話をし始めて、止まらない
父親の演説を尻目に、
缶ビールを手にする。
この人ってこうだよな、と思う。
いつも事が終わってから、出てきて、
彼なりの正論を言って満足するんだよな、とか。
本当に必要なのは、その事が起こっている最中に
側にいる事なのにな、とかって思いながら
缶ビールのプルトップを開けると、
それまで寝ていた従姉妹の父親、
母親の妹の旦那さんが、飛び起きて、
ダッシュで僕の手にあるビールを奪って、
その場で呑み干す。
おばあちゃんも僕も従姉妹も唖然として、
それでもおばあちゃんは、
「てっちゃん、納屋で呑みんさい」
と僕に言う。
僕は缶ビールをもう一本出して、
納屋に向かう。
ようやく煙草にも火をつける。
かずくんがやってきて、
だべる。
「女はどうなん?」
かずくんが聞く。
「ないよー、かずくんは?」
「遊ぶだけ」
ははは、と笑う。
かずくんにもやっぱり職人さん特有のこんがり焼けた肌や、
ごつい筋肉がついている。
「今夜遊んでくれば?」
「まあそうしたいけど、おばあちゃんが許さないよね」
ははは、と笑う。

納屋を見渡すと、トラクターや、精米機が今は
声をひそめて、それでも存在感は力強く、ある。
閉じられた井戸、この水が多分世界で一番美味しかったよな、
と思う。

それから昼間、僕と妹だけに、
働いている会社から花が来ていない事を思い出す。
僕は働いていない事を恥じる。

居間に戻ると、父親がまだ演説を続けている。
誰も相槌すら打たないまま、声が響く。
「こいつ、女との関係がないから、
今度、ソープでも連れてっちゃろ、思って」
父親は矛先を僕に向ける。
その奥では妹がずっと携帯をいじっている。

帰りの空港に母親が送ってくれる。
飛行機の時間まで、話す。
ぽつりぽつりと母親の職場の女の子の話をする。
僕と同じようにパニック障害や過呼吸を持った子の話。
「焦るこたあないんよ、ゆっくりでいいんよ」
何が、ではなく多分僕に言いたい事を、その子に話したんだろう、と
思う。
別れ際、彼女をハグしようとしたら、
逃げられた。

僕の今住む街に着いた、帰り道、
もう夕方だった。
綺麗にオレンジに染まっていく空が綺麗で、
僕はおじいちゃんが亡くなって、あの再会以来、
初めて、泣いた。
声を出して、泣いた。
また歩き出すまでに時間がかかるくらい、泣いた。

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