願い。彼女とぼくの
忘れて欲しい、彼女の唯一の願いは
彼女が生きてきたことのすべてを
出会い、別れ、交わし合った会話のすべてを
相手の記憶から消す、彼女の当時のたった一つの確かな希望
夜には、一人でヘッドフォンで壁に背をもたれ、音楽を聴きながら泣いています
あなたは、私に手を出して来ないんですね
飲み会を抜け出して、電話をしてきた彼女は
僕のうちのソファーに座って
いつもよりもっと声も静かに
忘れて欲しい、私の記憶を出会ったひとすべてから、消し去りたい
彼女の唯一の願いを口にした
2人で飲んだ、焼き鳥屋さんのカウンター
2人でひとつのヘッドフォンをそれぞれの片耳につけて
いつもは彼女が一人で聴いているグループサウンズのリバイバルバンドを聴いたのが
彼女と会った最後の記憶
それからときは経ち、
1年に数回のメールのやり取りだけになったいま
大きな病気をしたことや、子供ができて、慌てて結婚したことや
短いやり取りのなかで
元気じゃないのに元気です!と連ねる彼女は
それでもあの頃みたいに、
触れたら壊れそうで、触れたら本当に消えてしまいそうな
彼女のままで
それでもいつかまた
私の記憶を出会ったひとすべてから奪いたい
そんな願いを聞きながら
次に会うときには、彼女の横にいる
あの頃には考えもしなかった、新しい命を
僕は微笑ましく、眺めながら
ビールを呑み、焼き鳥を食べるのが
僕の願いのひとつ
いまは煙草も吸えません
お酒も我慢です
なんて辛そうな文面にこぼれる、彼女の嬉しそうな、こそばゆい顔が浮かんでるいまの僕の希望
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