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聖痕の守護者 第1話 英雄の養子

 部屋の中に怒声が響き渡っている。何が話されていたのかは分からない。分かるのは自分を抱きかかえている母親がかなり怒っていること。その怒りが自分に向けられたものではないことに安心している自分がいた。母は厳しい。体罰はいつものこと。何日も食事を抜かれたり、暗く狭い部屋に閉じ込められたこともある。とても辛かったがそれが普通ではないとは知らなかった。母を恨むこともなかった。怒りが解けたあとに見せる母の優しさが嬉しかった。
 自分を抱きかかえている母の腕の力が緩む。慌ててその腕を掴んだが自分の体が床に落ちることを止められなかった。ビュンという風斬り音が響いたのはその一瞬の後だ。
 母を見上げた自分の顔に大量の熱い液体が降りかかる。それが血だと分かったのは母が覆い被さってきたあと。
 苦しげな母の息づかい。心配して言葉をかけようと思ったが、声にならなかった。

「……お前は強く生きるのだよ。私みたいにならないように……強く……強く……」

 視界を塞がれた自分の耳に母の声が届く。これが母の声を聞いた最後だった。
 母の体が視界から除かれ、その代わりに窓から入ってきていた目を眩ます光が視力を奪う。何が起きたのか分からなかった。次に耳に届いたのは母ではなく知らない男の声。

「大丈夫か!? 怪我はないな! 名前は!? 君はなんて名前だ!?」

「……カロン」

 名前を聞かれたので答えた。カロンが自分の名前だ。自分の体を抱える腕。母のそれとは違いかなり力が強い。その先のことはほとんど覚えていない。次の記憶は――

「……カ……カロ……おい! カロン! 聞こえているのか!?」

「えっ……あ、ああ、聞こえている」

 自分の名を呼ぶ声でカロンは過去の記憶から引き戻された。

「何、ボーッとしてる? あれを見ろ。いよいよだぞ」

 指差す先に視線を向けると、山の斜面に黒い染みのようなものが広がるのが見えた。徐々に麓に移動してくるそれ。
 カロンの周囲にはその様子を緊張した面持ちで見つめている大勢の武装した人々がいる。彼らはその染みが何かを知っている。それと戦う為に彼らは隊列を整えて、待ち構えているのだ。
 『聖光教会』の軍組織『聖光兵団』所属『ジャスティス』従属部隊。これがカロンたちが所属する部隊の名称。人族の共通の敵である魔人、悪魔とも呼ばれる存在と戦うことが彼らの使命。正確にいうと魔人と戦う力を持つ英雄たちの支援が彼らの仕事で、魔人の僕《しもべ》を討ち払う役目を担っているのだ。
 近づいて来ている黒い染みは、その魔人の僕。数え切れないほど多くの、恐らくは魔獣だ。

「これは当たりじゃねえか?」

 遠くの魔獣の群れを見て、兵士の一人が呟いた。

「当たりってどういう意味だよ?」

 その兵士の言葉の意味が分からなくて、同じ小隊の別の兵士が問いを発する。

「あれだけの数の魔獣が出てくるなんて初めてだ。噂の魔将のアジトに来ちまったんじゃないかってこと」

 魔将とは魔人の中でも特別に強い力を持つ存在。人族の間では『魔神七将』と呼ばれている存在だ。兵士は向かってくる魔獣の数が異常に多いことから、そうではないかと疑っている。

「それ当たりじゃなくて外れじゃないか」

 強い魔人となんて一兵士である彼らは当たりたくない。本当に魔将のアジトに来てしまったのなら、それは外れを引いたと言うべきだ。

「別に俺たちが魔将と戦うわけじゃねえだろ?」

 彼らはあくまでも支援。魔人と戦うのはその力を持つ特別な戦士、『聖光の守護戦士』と呼ばれる戦士たちだ。ただ、今この場にいるのは守護戦士候補であるが。

「そうだとしてもその前の露払いは俺らの役目だ。あれだけの魔獣相手なんて……勝てるのかな?」

 守護戦士が魔人との戦いに全力を注げるように、その僕を討つのが兵団の兵士たちの役目。つまり今こちらに向かってきている魔獣の大軍と戦うのは彼らだ。

「それは……平気だ。なんたって俺らの小隊には守護戦士候補の弟であるカロンがいるからな。なっ、平気だよな? カロン」

「アレン、お前なぁ。わざわざ守護戦士候補の弟なんて付ける必要ないだろ?」

 呼ばれたカロンが不満そうな声をあげる。アレンの言いようは自分をからかってのことだと思ったのだ。

「事実じゃねえか」

「知っているはずだ。俺は義理の弟。しかもその縁も切れている」

「そうだけどよ。それでも一緒に暮らしていたお前は俺たちとは違う。なんたって守護戦士の家だ」

 カロンが暮らしていたのは守護戦士の一人『聖剣士』ディオスの家。その家でカロンはこの部隊に同行している守護戦士候補であるディオスの子供たちと一緒に育てられた。アレンの言うとおり、普通の兵士とは事情が違う。

「同じだろ? それはまあ、小さい時から鍛錬はさせられたけど、実の子たちとは力の入れようが違う」

 だがカロンはそれを言われるのを嫌っている。カロンは一兵士の身。守護戦士候補のディオスの子供たちと同一視されたくないのだ。

「それでもお前は頼りになる。今回も頼むぜ」

「それはまあ、やれることはやる」

 小隊の中では確かにカロンの実力は頭一つ抜けている。だが向かってくる魔獣はカロン一人の力でどうにかなる数ではない。「任せろ」とはカロンは言えなかった。

「おい。無駄口はそこまでだ。そろそろ気合いを入れろ」

 カロンたちの小隊の隊長であるヴォルスが戦いの準備に入るように言ってきた。無駄口を叩いている間に魔獣の群れはかなり近づいてきていた。

「……双頭狼《ツインヘッドウルフ》か」

 その姿もはっきりと見える。二つの狼の頭を持つ魔獣だ。どう見てもバランスが悪そうな体形なのだが、そういう常識は魔獣には関係ない。双頭狼はかなり素早い動きを見せる面倒な魔獣だ。

「速いぞ。気をつけろ」

「ああ」「おお」「了解」

 ヴォルスの注意にそれぞれが応えを返した。 

『四列横隊! 前列! 槍、構えっ!』

 ここでジャスティス従属部隊全体に、部隊長であるバーンスから号令が発せられた。いよいよ戦いの時だ。
 杭を立てただけの即席の陣地。そこに全二十小隊二百名が十小隊ずつ前後に並ぶ。さらに小隊単位に前後五名ずつに横に並び、それで四列横隊の出来上がり。最前列の兵士たちは槍を斜め上に突き出す構えをとっている。

「振り下ろせ!」

 号令に合わせて前列の兵士たちの槍が目の前の魔獣に向かって、一斉に振り下ろされる。

「二列突けぇえええっ!!」

 さらに足が止まった魔獣に向かって、二列目の兵士たちが槍を突き出す。それでトドメを刺すのだが、全てが全て上手くいくわけではない。

「腕を止めるな! 槍を動かせ!」

 初撃のあとはもう、ただただ槍を振り続けるだけ。それに技量など関係ないのだが、それが一番犠牲が少なく済む、とされている。兵士は個々の力ではなく集団の力で戦うものなのだ。

「二列目後退! 三列目前に出ろ!」

 体力の限界がくる前に隊列を入れ替える。まずは二列目が最後尾まで後退し、三列目が前に出る。

「前列下がれぇええええっ!」

 敵を目の前にした最前列は後退も容易ではない。入れ替わったばかりの二列目が懸命に槍を振って支援する中、隙をみて一気に下がるのだ。

「隊列を乱すな! 耐えろ!」

 同数であればこの方法で十分に戦える。魔獣の強さにもよるが倍、三倍でも問題ない。だが今、目の前にいる魔獣の群れは味方の十倍近い数。とても押さえ込める数ではなかった。

「うわぁああああっ!」

 疲労によって槍の動きが鈍ってきたところで、とうとう魔獣が杭を超えて一人の兵士を押し倒し、陣形を崩してしまう。

「……討て! いや、下がれ! 下がって陣形を組み直せ!」

 一角崩れるとあとは一気。陣形は大いに乱れて最前線は混戦。個での戦いになってしまっている。部隊長のバーンスは一旦後方に下がることで陣形を組み直そうと考えた。だがそれは容易ではない。

「う、うわぁああああっ! た、助けてくれ!」

 背中を見せれば、その隙をついて魔獣が襲ってくる。一人それで崩されれば、その隣の兵士は横と前の二方向からの攻撃に怯えることになる。
 一気に崩壊、そうなるかとバーンズが覚悟を決めたその時。後退どころか前に飛び出していった兵士がいた。

「……カロン! 下がれ!」

 それがカロンだと、すぐにバーンズには分かった。そんな無茶な真似をする馬鹿はカロンしかいないのだ。
 前に出たカロンは槍を周囲の魔獣に向けて振り回している。闇雲に振り回しているわけではないことは、その槍を受けた魔獣の多くが次々と地に伏していくことで分かる。カロンの槍は確実に魔獣にダメージを、そして死を与えているのだ。

「あの馬鹿が……陣形を組み直せ! 急げ!」

 大暴れしているカロンに魔獣の意識は集まっている。その隙にバーンスは部隊の陣形を整え直すことにした。それはカロンの孤立を意味する。

「カウロス! 大丈夫か!?」

 そのカロンは槍を振り回しながら、足下で倒れている同じ小隊のカウロスに声を掛けている。カロンが前に出たのは後退が遅れ、魔獣に襲われていたカウロスを助ける為だ。

「……に、逃げろ」

 魔獣に襲い掛かられたカウロスはかなりの怪我を負っている。助けられるのを諦めてしまうくらいに。

「逃げろと言われても逃げられない! 俺を無事に逃がしたければ、お前が俺を助けろ!」

「馬鹿が……」

 周囲を魔獣に囲まれていて逃げるのは容易ではない。だが、そうであってもカロンであれば逃げることは出来るはず。それをカウロスは知っている。
 槍を振り回して魔獣が近づくのを防ぐカロン。それは足下で倒れているカウロスを守る為なのだ。

「うぉおおおおおおおっ!!」

 雄叫びを上げながら槍を振り回すカロン。その勢いは更に増し、群がる魔獣を確実に屠っていく。

「……スゲえな」

 そんなカロンを見上げながらカウロスは呟く。カロンの槍の技量は従属軍の兵士のレベルを超えている。まだ若く、カロンもそうだが、まだまだ経験が足りないカウロスにはそう思える。
 カロンの周囲にある魔獣の死体の数が増えていく。すべての魔獣をこのまま討ち取ってしまうのではないか。そんな風に思える勢いだったが、さすがにそれは無理。カロンの動きが鈍くなってきている。

「カロン! 危ない!」

「なっ!?」

 これまでの魔獣とは異なる高さで飛びかかってくる一匹。カウロスの声でそれに気付いたカロンではあるが、反応は遅れている。間に合わない。そうカロンが覚悟を決めた時――飛んできた矢が魔獣を貫いた。

「……矢?」

 従属部隊の兵士が放ったものではない。すぐにカロンにはそれが分かった。彼の危機を救う矢を放ったのは――

 騎馬で駆けてくるのは五人の『聖光の守護戦士』候補者たち。ジャスティスのメンバーだ。そのうちの一人が馬上から矢を放っている。聖弓士候補のヒューイだ。
 カロンの側を通り過ぎていく五騎。笑みを浮かべながらカロンに合図を送ってくるヒューイ。そして複雑な表情を向けているもう一人。

「……良かったな。助かったみたいだ」

 守護戦士候補者たちが向かうのは魔獣を操っている魔人がいる場所。襲ってきていた魔獣もその後を追っていく。魔人が自分を守らせる為に呼び戻したのだ。
 その数は現れた時からかなり減らしている。従属部隊の責任は果たしたはずだ。あとは守護戦士候補たちが魔人を討ち取るのを待つだけ。それで今回の任務は終了となる。

◇◇◇

 魔人討伐は無事成功。あとは早めに仕事を切り上げて、一晩ゆっくりこの場所で休んで帰還するだけだ。
 今はもう野営の準備も終わって自由時間に入っている。用意された夕食を食べながらのんびり過ごす、酒を飲んで騒いでいる兵士もいるが、時間であるはずなのだが、カロンにはその時間は与えられなかった。

「この馬鹿者が!」

「ぐっ……」

 部隊長であるバーンズの拳を腹に受けてうずくまるカロン。

「誰があんな真似をしろと指示した!? 俺は命令した覚えはないぞ!」

 バーンズはカロンが隊列を乱して、勝手な行動をとったことに腹を立てている。

「……な、仲間を、助けようと」

「ああっ!? 貴様、英雄にでもなったつもりか!?」

 さらにカロンにバーンズの蹴りが飛ぶ。上長の指導、と言う名目の暴力だが、であるので避けるわけにはいかず、避けたら避けたで倍になって返ってくるのは分かっているので。それをカロンはまともに受ける。固い靴のかかとで脛を狙って放たれたバーンズの蹴りには、ふらつかずにはいられなかった。

「何とか言ってみろ! この馬鹿ものが!」

 さらに放たれた前蹴りでカロンは仰向けに地面に倒れていく。無駄に頑張っても折檻の時間が長引くだけ。随分前からカロンはそれを学んでいる。

「……罰として飯抜きだ。酒も許さん。天幕の中で反省していろ!」

「……はい」

 カロンに罰を与えたバーンズは食事が用意されている場所に向かって歩いて行く。残されたカロンは痛みを堪えながら立ち上がり、命じられた通り、天幕に向かおうと歩き出した。

「……カロン……すまない」

 そのカロンに謝ってきたのはカウロスだ。

「謝る必要はない。部隊長は俺が何をしても気に入らない。今回はたまたま俺を罰する理由にカウロスが関わっていただけだ」

 カロンがバーンズからこのような仕打ちを受けることはこれまで何度もあった。部隊の秩序を乱す自分が悪いという思いがないわけではないが、バーンズに嫌われているのは間違いない。

「飯、持って来ようか?」

「気持ちは嬉しいけど止めとけ。それくらい部隊長はお見通しだ。また部下を蹴る口実が出来るだけだな」

「……すまん」

 また謝罪を口にしたカウロスに笑顔を向けてカロンは歩き始めた。カウロスに謝られても罰がなくなるわけではない。そもそもカウロスに頼まれてやったことではない。謝罪は不要と本気で思っている。
 自分の天幕の中に入り、寝転がる。今はまだ大丈夫だが、その内に腹が減ってくる。そうなる前に寝てしまえと考えているのだ。

「ホント、貴方って馬鹿ね」

 だがそれも許してもらえなかった。

「義姉さん……」

 現れたのはジャスティスの聖女候補であるテルース。カロンが当初、引き取られた聖剣士ディオスの娘だ。

「義姉さんなんて呼ばないで。貴方と私はもう義姉弟じゃないわ」

「……テルース様、こんなところに何をしに来たのですか?」

「何、その言い方? 嫌味のつもり?」

 言葉使いを改めたが、それもテルースは気に入らない。カロンをキツい目で睨み付けている。

「……何しにきた?」 

 何を怒っているのかカロンには分からないが、テルースが不機嫌なのには慣れている。カロンが知る限り、不機嫌でない時のほうが少ないのだ。

「叱られて泣いている男を見に」

「泣いてないから」

「生意気。昔はいつも泣いていたくせに」

「いつの話だよ?」

 聖剣士ディオスの家に引き取られたばかりの頃は確かにいつも泣いていた。母が死んだ。その母を殺した、であろう、相手に攫われてきた。まだ子供だったのだ。泣かないほうがおかしい。

「これ、今日の夕食。美味しそうでしょ?」

 テルースは支給された夕食を持ってやってきていた。

「見れば分かる……あのさ、テルース様」

「様なんて付けないで。気持ち悪い」

 またカロンの呼び方に文句を言ってくるテルース。何がここまで気に入らないのかカロンには分からない。

「じゃあ、どう呼べば良いんだよ?」

「呼び捨てで良いわ。それが普通でしょ?」

「普通じゃない。皆、テルース様って呼んでいるだろ?」

 テルースは守護戦士候補。従属部隊の兵士たちにとっては上位にいる人物だ。カロンは兵士であるので、敬称をつけて呼ぶほうが普通なのだ。

「貴方に様をつけて呼ばれるのが気持ち悪いの」

「……いつまでここにいるつもり?」

 名前を呼ばなくても会話は出来る。カロンはそうすることにした。

「何、それ? 今来たばかりじゃないの」

 またテルースは不機嫌な表情を見せる。テルースにしてみれば、カロンが不機嫌になるようなことばかり言ってくるせいとなるのだが。

「自分が聖女候補であるのを忘れた? 俺と二人きりで天幕にいたなんてあの人が知ったら何言われるか」

「……あの女がおかしいのよ」

「あの女って……自分の母親だろ?」

「貴方だって『あの人』って言うじゃない?」

「俺はあの人の子供じゃない」

 そして、つい義母さんなんて呼んでしまうような関係でもなかった。テルースは義姉と考えていたが、その母親に対しては一緒に暮らしていてもずっと他人だとカロンは認識していた。

「……呼び方なんてどうでもいい。聖女候補はあの女に強制されてなっているの。私が望んだことじゃない」

「そうかもしれないけど……」

 テルースは守護戦士に相応しい能力を持っており、そうなるべきだとカロンは思っている。
 自分でなくても同世代の男性と一つの天幕でいることは望ましくない。守護戦士候補は素行も評価されるのだ。

「そもそも聖女って何? 聖剣士、聖弓士は分かるわよ? でも聖女って女、ただの女よ? 守護戦士に女が必要? 必要だとしたら何の為?」

 カロンに顔を近づけて、もの凄い勢いで自分が聖女候補であることの不満をぶつけてくるテルース。一緒に暮らしていた時はよくあったことだが。

「ち、ちょっとテルース。近い、近いから」

 今は二人とも子供とは言えない年齢だ。一人前の大人とも言い切れない年齢でもあるが。

「……やっと呼び捨てにした」

「それどうでも良いから。こんなところを人に見られた問題だ。早く出て行きなよ」

「久しぶりに顔を合わせたのにそれ?」

 二人がこういう形で顔を合わせるのは久しぶり。カロンが聖剣士ディオスの家を出てからは、戦場で見かけることはあっても二人きりで話す機会はなかったのだ。

「もう俺たちは子供でも義姉弟でもない。これでテルースが聖女としての資質を疑われるようなことになったら大問題になる」

 二人でふざけていることが許される関係ではない。二人で話せるこの機会にきちんと言っておくべきだとカロンは思った。

「だから言っているでしょ? 私は聖女になりたいなんて思ってないから」

「……怒るのはあの人だけじゃない。マルス様がこの状況を見たらどうなる?」

「…………」

「呼び捨てしろなんて言わないだろ? まして義兄さんなんて呼べるはずがない」

 マルスは『聖剣士』候補であり、テルースの実兄。カロンにとって義理の兄だった人物だ。だがテルースの母親とは異なる理由で、馴れ馴れしく出来る相手ではない。

「……はあ。ちょっとからかっただけなのに。面白味のない男ね」

「面白味って……別に必要ない」

「じゃあ、からかうのは終わりにしてあげる……またね。今度はもっとマシな戦い方しなさいよ」

「ああ、分かってる。テルースも気をつけて」

「……ええ」

 怒っているようでもあり、寂しそうでもある。子供の時には見せなかった複雑な表情でテルースは天幕を出て行った。
 残されたのはテルースが持ってきた夕食が盛られているトレイ。それはほとんど手が付けられていない状態で置かれていた。

「……相変わらず、素直じゃないな」

 結局、テルースがここに来たのは食事を差し入れる為だった。我が儘を言ったり、いきなり怒り出したり。いつも不機嫌な顔ばかりみせていたテルースだが、その裏にある優しさをカロンは知っている。

「お前こそ。素直に抱いてやれば良かったのに」

 カロンの耳に届いた声。その声の主に向かってカロンは……ナイフを投げつけた。

「ば、馬鹿か!? 危ないだろ!」

 それに文句を言ってくる相手。その姿は見えない。

「大丈夫。投げナイフはまだ練習始めたばかりだから狙っても当たらない」

「ああ、それなら平気……って、それは狙ったってことだろ!?」

「ボケとしてはいまいちだな」

「ボケてないから。親友に向かってナイフを投げるなんてお前、どういう神経してんだ?」

「しつこいな……もう投げないから隠れていないで出てこいよ。飯、俺一人で食っちゃうぞ。ああ、でもアレクは困らないか」

 目の前にある夕食を食べなくても相手には食事を手に入れる手段がある。誰にも気付かれることなくだ。

「ま、待て。俺も調理された飯が食いたい」

 だが相手は調理された食事を求めた。カロンに全て食べられては困ると出てきた相手の姿は、パッと見は鼠。だがよく見れば二本足で歩いているのが分かる。そもそも普通の鼠は人の言葉を話さない。

「……飯の前に報告。どうだった?」

「ああ、ちょっと力が強いだけの普通の魔人だ。ただ……かすかに匂いを感じた」

「匂い? それって。どういうことだ?」

「七将のどれかに接触したことがあるのか……細かいことは分からない。そうであったとしても外れは外れだ」

「そうか……」

 アレクと呼ばれた相手はウエアマウス。人間から亜人と呼ばれるいくつかの種族の一つ、鼠人族だ。カロンにとって母が殺される前からずっと一緒にいた親友。決して人に知られてはいけない存在だ。二人の目的も。

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