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第43話 他人には分からない想い

 ゲームが始まった。とっくに物語は始まっているが、アリシアがよく知る状況が始まったということだ。最初は小さなことからだった。実技授業を終えて更衣室で制服に着替えていたら、普段履きの靴がなくなっていた。仕方なく、実技授業で使う戦闘ブーツのまま学院内を探してみると、割とすぐに、更衣室のすぐ近くのゴミ箱の中で見つかった。わざと見つかるように隠したのだと、アリシアには分かった。嫌がらせが始まったのだと分かった。
 こういう日がやってくることは分かっていた。分かっていたとしても、平気でいられるはずがない。アリシアの学院生活に暗い影が広がることになった。
 やがて実技授業の後で物がなくなるのは毎日のことになった。さすがに黙っていられなくなり、学院に訴え出たが、状況は改善しない。するはずがない。そういうことになっているのだ。
 さらに状況は悪化する。すぐに見つかっていた物が見つからなくなる。戦闘ブーツのまま教室に戻らなければならなくなると。

「あら? アリシアさん、いくら面倒だからといって、そのお靴はどうかしら? 教室には倒さなければならない敵はいなくてよ?」

 なんて嫌味を言われることになる。

「そう思うのでしたら、一緒に探していただけませんか?」

 それに負けず、嫌味を返すと。

「ごめんなさい。私、アリシアさんとは違って、ゴミ箱漁りなんて、とても無理ですわ。セリシール公爵家ではそのよようなことまで教えてらっしゃるのね? さすがですわ」

 さらに嫌味で返ってくることになる。

「……アリシア、何かあったのかい? 私で良ければ助けになるよ」

 異常事態に気が付いて、ジークフリートが心配そうに声をかけてくると。

「ジークフリート様はお優しいですわね。でも、その優しさに付けこもうとする悪女がいることも学ぶべきだと思いますわ」

 平気で女子学生がアリシアの悪口を言ってくる。

「アリシアはそのような女性ではない。私は彼女の為人を良く知っているつもりだ」

「まあ? いつの間にそこまでのご関係に? お二人とも婚約者がいらっしゃるというのに」

 さらにジークフリートに対してまで、このようなことを言ってくる女子学生。王子相手にあり得ないこと、でもない。政治の世界での上下関係と、社交界での上下関係は別。もっと言えば、男性は社交界での女性たちの事柄に、口出すことは許されない。あくまでも原則は、だが、そういうことになっている。彼女たちはその理屈で行動しているのだ。

「ジーク。ここは任せてもらえますか?」

「アン……」

 さらにサマンサアンが介入してきて。

「皆さん、アリシアさんは、それは、その少々、破廉恥ではありますけど、そういうことは堂々と注意するのが正しいことと思いますわ」

 アリシアを「破廉恥」呼ばわりする。当然、サマンサアンはアリシアを苛める側の立場。しかもその頂点に立つ人間だ。

「サマンサアン様はお優しい。でも、どうでしょうか? その優しさがアリシアさんに伝わると良いのですが」

 サマンサアンの優しさを褒める女子生徒。アリシアを苛め、貶め、サマンサアンを持ち上げる。これが彼女たちの基本的なやり方だ。
 それによりアリシアがジークフリートと距離を取るようになると同時に、ジークフリートがサマンサアンの人柄に好感を持つようになる。レグルスが聞けば、「馬鹿なのか?」という問いを発するところだが、彼女たちはそれが成功すると考えている。この彼女たちのそれは、所詮は苛め。謀略と呼べるようなものではないのだ。

「気持ち悪い。貴女、それ本気で言っているの?」

 ただ、この教室には彼女たちの思惑を崩す人物が一人いた。

「キャリナローズ様……」

 ホワイトロック家のキャリナローズ。オステンシルマー東方辺境伯家の令嬢だ。実家がサマンサアンのミッテシュテンゲル公爵家と同格、かやや上と見られている辺境伯家の令嬢である彼女に否定的な言葉を投げかけられると、他の女子学生は何も言えなくなってしまうのだ。

「とにかく静かにして。分かった?」

「……はい」

 これで嫌がらせがなくなるわけではない。今はこれ以上、嫌味を言われなくて済むようになっただけだ。

「ありがとうございます。キャリナローズ様」

 それでも、この場を収めてくれたことには御礼を言わなければならないとアリシアは思って、実際にそれを口にしたのだが。

「御礼はいらない。私は煩いと思ったから黙ってもらっただけだから」

「それでも」

「貴女が消えてくれるとこの先もずっと静かになるのにとも思っている。感謝しているなら、この願いを叶えてくれるかしら?」

「それは……」

 キャリナローズはアリシアの味方ではない。今、煩いと感じたから女子学生を黙らせただけ。教室が騒がしくなる元凶であるアリシアがいなくなれば良いと思っているくらいだ。

「キャリナローズ。そういう言い方はないと思うが?」

 黙ってしまったアリシアに、勝手に、代わって、ジークフリートがキャリナローズを注意する。

「王子殿下。殿下のそういった態度が揉め事を巻き起こしていることをご理解されていますか?」

 だが、それに大人しく従うキャリナローズではない。理由もなく王家に膝を屈するつもりは、彼女にはないのだ。

「……周りが勝手に勘違いしているだけだ」

「勘違いされるような態度であることは、自覚されているのですね? 少し安心しました。少し、ですけど」

「…………」

 普段は見せない怒りの表情を顔に浮かべているジークフリート。これにアリシアは少し驚いた。この教室には他にもヴェスティンシルメン西方辺境伯家、ブロードハースト家のクレイグとズューデンシュッツ南方辺境伯家、ディクソン家のタイラーといった守護家の人間がいるのだが、その二人は知らん顔だ。この関係性はこの世代だけのものか、それとも家としてそうなのか。ここまでの確執があるとアリシアは思っていなかった。良い競争相手として意識している程度だと考えていたのだが、どうやらそれは間違いだったとアリシアは分かった。

◆◆◆

 残り一人の守護家出身者、レグルスはその騒動にはまったく関係ない場所にいる。教室が違うのだから、本人が望む望まないに関係なく、そうなる。ただ、まったく関係はない、という表現は正しくない。アリシアがレグルスの婚約者であるという点に関しては、彼のクラスでも少しゴタゴタはある。

「いや、婚約者だからといって束縛は駄目だろ?」

「束縛とは違います。婚約者以外の男の人と必要以上に仲良くするのは良くないと私は言っているのです」

 レウグルスのクラスにも、アリシアに対して否定的な感情を持つ女子学生がいる。レグルスと親しく話が出来る同級生の一人、美術部のエリカもそうだ。

「必要以上に仲良くしているわけじゃない。王子殿下が望む範囲で、親しくしているだけだ」

「じゃあ、それを望む――」

「はい、止め! それ以上は言葉にして良いことじゃない」

 王子殿下が悪い。それをエリカが口に出すのは良いことではない。この程度のことを告げ口する同級生がいるとは思えないが、わざわざリスクを冒す必要はない。

「……はい。すみません」

「君がどうしてそこまで熱くなるのか分からないけど、そこまで気になるなら、少し俺から話をしよう」

 レグルスの言葉を聞いて、ジュードはニヤニヤと笑い、オーウェンは苦笑い。エモンも離れた場所で、小さく溜息をついている。エリカがここまで熱くなるのは、レグルスに好意を持っているからに決まっている。それを分からないと言うレグルスに三人とも呆れているのだ。

「まず、婚約は当事者の意思によって決められるものではない。これはさすがに知っているよな?」

「はい。知っています」

 それくらいのことはエリカも知っている。エリカも、自分は自由恋愛で結婚することはないと思っている。親が、もしくは知り合いが見つけてきた人とお見合いをして結婚。これが普通なのだ。

「アリシアは俺が何者か分からずに、婚約を決められた。俺の噂も知っているだろ?」

「……聞いてはいます」

 百人を殺した。その噂をエリカも知っている。だがレグルスと会って、話をするようになって、何かの間違いだと思うようになっているのだ。

「あれは、事情は色々とあるけど、事実だ。俺は婚約者に、相手が誰であろうと相応しい相手じゃない」

「……でも、だからって、だったら尚更、側にいて」

 レグルスの口から大量殺人事件が事実だと聞かされて、かなりショックを受けているエリカ。だが、それでもアリシアの行動は認められない。批判を止めようとしない。

「俺には無用なことだ。一応、俺にも罪の自覚はある。自分が人並の幸せを掴むことは許されないと思っている。何も知らずに俺の婚約者になってしまった人には、ちゃんと幸せになって欲しいと思う」

「レグルス様……」

 レグルスに描ける言葉が見つからない。罪は許されると、簡単には口に出来ない。だが、幸せを放棄するのは違うという思いもある。この自分の思いをどう話せば良いのか、エリカは分からない。

「王子殿下がどうこうではなく、彼女の可能性を潰したくない。彼女は彼女の思う通りにすれば良い。これが俺が彼女に望むこと。だから、今の状況を俺は肯定的に見ている。これは分かって欲しい」

「……分かりました。いえ、本当はきちんと分かっていないですけど、アリシア様を悪く言うのは止めます」

「ああ、それで十分。ありがとう」

 話したことが全て真実ではない。今の状況を放置しておく最大の理由である、将来を知っていることなど話せない。話しても、逆に説得力を失うだけだ。隠すべきことを隠し、エリカに納得してもらえる理由を考えて、レグルスはそれを話した。
 結果、エリカには理解してもらえた。エリカだけでなく、周囲で聞き耳を立てていた同級生たちも、皆が同じ理解ではないが、納得した。
 殺人事件にはどうにもならない理由があった。そうでなければ、このレグルスがそんな真似をするはずがない、という彼が求めていたのとは、まったく違う納得を。

◆◆◆

 レグルスにとっては平穏な日常が続いている。当たり前のことなのだが、入学前の一時期があまりに異常な状況であったので、平穏であるということに人とは異なる感情を抱いてしまうのだ。
 剣術は、レグルスの感覚でも、順調。考えていた通り、教官はレグルスが求めるタイプ。細かい部分まで、一つ一つ丁寧に教えてくれる。疑問点があれば、しつこいくらいにレグルスが聞くというのもあるが、それを面倒くさがらずに、きちんと応えてくれるという点でも合格だ。
 それ以外の授業については、色々と思うところがあるものもあるが、それは大きな問題ではない。学院への入学には良い感情を持っていなかったレグルスであったが、良く考えて見れば、一日中、鍛錬と勉強の日々というのは入学前を変わらない。きちんと指導者がいるという点では、より充実していると言える。
 さらにレグルスの悪感情を刺激する者たちは、全員が別クラスとなれば、あんなに嫌がっていたことが馬鹿馬鹿しく思える。今のところは、であるのは分かっていても。
 実技の授業を終えたレグルスはホームルームは無視して、図書室で勉強。授業で疑問点が生まれたのでそれを調べていたのだ。それを終え、今日はもう帰宅、というところで。

「ん? ……空耳か?」

 自分を呼ぶ声、あり得ない自分を呼ぶ声が聞こえた気がして足を止めたレグルスだが、気のせいだと考えて、また歩き出す。

「無視するな! この馬鹿!」

「はっ?」

 聞こえてきた声は空耳ではなかった。続いた声は、はっきりと耳に届いた。自分を馬鹿呼ばわりする、この学院では一人しかいないはずの女子学生の声が。
 声のしたほうに向かって歩くレグルス。だが、その歩みは遅い。声の主であるはずのアリシアの姿が見えていないのだ。先にあるのは校舎と校舎の隙間。そんな場所に本当にいるのかと思ったレグルスだが。

「あっ……」

「見るな! 変態!」

 そこにいたアリシアに変態呼ばわりされることになった。

「ば、馬鹿か、お前は!? そんなところで何している!?」

 変態呼ばわりをされたことを怒る気持ちにはレグルスはならない。校舎の影にうずくまっていたアリシアは、まさかの下着姿。露わになっている白い肌を目の当たりにして、レグルスはかなり動揺している。

「ちょっとあって……こんなことに……」

「ちょっと、でこんなことになるか? ああ、嫌がらせか」

「知っていたの?」

 アリシアはレグルスに虐めのことを伝えていなかった。心配を掛けたくなかったというだけでなく、自分の為にレグルスがとんでもないことを仕出かすのではないかという心配もあってのことだ。

「耳には入っていた。何も言ってこないから放っておいたけど、ここまでのことをされていたのか?」

「だから、これはちょっと……その辺に隠されているだろうと甘く見ていたら、見つからなくて」

「……更衣室からここまで探して? お前、変態か?」

「揶揄わないで。自分でもこれは失敗だったと反省しているのだから……」

 こんな言い方をしているが、虐めはかなりエスカレートしている。靴を隠されるくらいだったのが、今日は着替えている最中に、制服だけでなく実技授業用の戦闘服まで、他にも脱いでいたものを全て持っていかれてしまった。
 姿を見られることに相手が抵抗を感じなくなっている証だ。

「……とりあえず、これ着ろ」

 背中を向けたまま、アリシアに自分が羽織っていたコートを渡すレグルス。

「ありがとう……ちょっとエッチな感じ」

 下着の上にコートだけを羽織る。これはこれでかなりいやらしいのではないかとアリシアは思う。そんなことを思える余裕が出てきたということだ。

「……ほら」

 さらにその場にしゃがみ込むレグルス。

「えっと……その意味は?」

「裸足で歩くなら良いけど……足、痛くないのか?」

「……痛い」

 レグルスの背中に体を預けるアリシア。かなり恥ずかしいのだが、彼の好意が嬉しくて、断る気にはならなかった。

「……恥ずかしいけど、この時間なら人少ないだろうからな」

 恥ずかしいのはレグルスも同じ。それでもアリシアを裸足で歩かせる気にはなれない。ここまで酷いことをされているとは不覚にもレグルスは思っていなかった。そんなアリシアを大切に扱ってあげたかった。

「背中……大きくなった?」

 出会った頃は、太くはあったが、もっと小さかったレグルス。安心して体を預けられるような背中ではなかったとアリシアは記憶している。

「背負っているものが大きいからな」

「失礼な。私はそんな大柄じゃないから」

「そうじゃなくて……憧れの人の背中は、もっともっと大きかったってこと」

 目指す背中は遥かに大きく、頼りがいがあった。今の自分はまだまだ遠く及ばない。及ぶ日が来る自信も、レグルスにはない。

「そっか……そうだね。アオはまだまだだね」

「わざわざ、言うな。お前だって、胸、全然成長していないな」

「こ、この変態! 降りる!」

「暴れるな! 冗談! 冗談だ! コートの上から分かるはずないだろ!?」

 下校時間になっているので歩いている学生は少ない。だが、誰もいないというわけでもない。アリシアを背負って歩くレグルスを驚きの目で見ている学生もいる。普段とは違う、楽し気なレグルスを目の当たりにして。穏やかな二人の雰囲気を感じて。
 この日、この時、何人かの女性学生が敗北感を覚えることになった。

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