第12話 偉い人相手のお芝居は大変だ
休暇も残り数日となって、リオンは学院に戻る準備を進めている。リオンとしては、かなり満足出来る日々だった。
ウィンヒール侯爵の側室であり、エルウィンの母であるユリアには、初対面の後、一度だけ会いに行った。全く会いにいかなくても、頻繁に会いに行っても、こちらの意図を怪しまれる。時間を作って何とか約束を守った、という体にするには一回で十分だろうと考えた結果だ。
二回目も庭で会って、その場で話をする。初対面の時と同じだった。内容もほとんど同じ。ユリアは、リオンの誠実さを褒めては、エルウィンと仲良くして欲しいと訴えてきた。
自分の毎日の生活がいかに退屈で、寂しいものかを話しては、本宅や外での話を聞き出そうとする。それに対してリオンは、ヴィンセントに対する忠義を見せながらも、出来るだけユリアが望む答えを返した。
いつかは味方にと期待を持たせながらも、簡単には引き込めないと思わせる。近付き過ぎてもいけないし、全く関係を絶つのも惜しい。そんな微妙なところを狙ったのだ。
結果はリオンにとって思った以上の出来だった。
ユリアは余程自分の魅力に自信があるようで、その魅力に全く反応を示さないリオンに焦れた様子を見せた。リオンに対し、誘惑と受け取られてもおかしくない言動を見せてしまったのだ。かなり微妙なものであったが、リオンにとって何度も経験している女性の態度。間違いなく誘惑であると判断して、リオンの中でユリアに対する評価は一段と下がったのだが、リオンが表に出した態度は子供らしい鈍感さと、それでいて慣れないことに戸惑っている姿だった。
リオンの演技力は中々のものだったようで、ユリアはその反応に手応えを感じていた。
そして、手ごたえを感じたのはリオンも同じ。今回のリオンの目的はおおよそ達成された。あとは最終手段として、エルウィンを殺す時の算段と継承争いを降りるくらいの脅迫のネタを掴むことだ。
それを思って、自然とリオンの口元に笑みが浮かぶ。そのリオンの口元を。
「何を笑っているの? 私と会えなくなるのが、そんなに嬉しいのかしら?」
「い、痛い、です」
エアリエルが思いっきり、つねりあげた。
「はあ、また、退屈な毎日になるわ」
「ふっ、ふぁい」
「何?」
「く、くち」
「駄目」
「うっ……ゆ、ゆび」
「……仕方ないわね」
何が仕方ないのか分からないが、エアリエルはリオンの口元から手を放した。そのエアリエルにすかさずリオンはハンカチを差し出す。
「何?」
「その……指が汚れました」
「指?」
エアリエルが自分の指を見てみれば、わずかに濡れている。リオンの頬をつねった時についた、よだれだ。
「……別に平気」
「でも……」
「……仕方ないわね」
リオンから受け取ったハンカチで、指を軽く拭うエアリエル。それが終わると、リオンの口元にハンカチを押し当ててきた。
「じ、自分でします」
「そう。じゃあ、そうしなさい」
エアリエルの手からハンカチを受け取ると、リオンは自分の口元を拭った。その様子をエアリエルは、じっと見ている。
「何か?」
「次はいつ帰ってくるのかしら?」
「恐らくは年末でしょうか?」
「そう。随分と先ね」
「そうですね」
「……じゃあ、罰として」
「えっ? 何の?」
これまでの会話のどこに罰を受ける要素があったのか、リオンには全く心当たりがない。
「そんなに長く私を退屈にさせる罰よ」
「……はい」
それがはたして自分の責任なのかと思いながらも、リオンはそれを口に出来ない。エアリエルには逆らってはいけないという思いが、リオンには刷り込まれている。刷り込んだのは、もちろん、エアリエルだ。
「罰として、私に手紙を書きなさい」
「手紙?」
「学院であった出来事を報告するのよ」
「ああ、そういうことですか」
「そういうことよ」
残念ながら二人の「そういうこと」にはズレがある。エアリエルはリオンが見聞きしたことを色々と知りたかった。だがリオンは、婚約者である王太子の動向を知りたいのだと勘違いしている。
このズレのせいで、リオンはエアリエルを不機嫌にさせることになるのだが、それは先の話だ。
「荷物の準備は終わったの?」
「ええ、大体は」
「……じゃあ、どうして私が用意した新しい騎士服が出たままなのよ?」
壁に掛けられている騎士服を見て、エアリエルが文句を言ってくる。黒地に銀糸で所々飾られた騎士服は、エアリエルがリオンの為に新調したものだ。
「学院に戻る日に着ようと思って」
「そうなの?」
「そうです」
「気に入ったかしら?」
「もちろんです。サイズもぴったりで驚きました」
「それはそうよ。ちゃんと測ったもの」
「……えっと、いつ?」
サイズを測られた記憶がリオンには全くなかった。
「リオンが寝ている間に」
「ええっ?」
「起きている時に採寸したら、私が服を送ることがリオンに知られてしまうでしょう?」
「そうですけど」
「それじゃあ、リオンを驚かせることが出来ないわ」
「そうですか……全然、気が付きませんでした」
それなりに自分を鍛えているつもりだったリオンは、そこまでされて起きなかった自分の不覚に軽く落ち込んだのだが。
「眠り薬を仕込んだから」
「……はい?」
「だって、起きたらばれるじゃない?」
「……そうですね」
エアリエルには何をされても文句を言えないリオン。逆に眠り薬を仕込まれた自分の迂闊さを反省していたりする。
「この話は良いわ。荷づくりが終わったのなら、お茶を煎れて。お庭が良いわ。そこで話しましょう」
「はい。直ぐに準備します」
残りの時間を惜しむように、リオンとエアリエルは毎日、こうして同じ時間を過ごしている。周りで見ている者が二人の関係を危ぶむのも無視して。
もちろん、リオンは気を遣っている。それでもエアリエルの誘いを断ることはしなかった。
二人が惜しんでいるのは、休暇の残り時間ではない。もっと先に訪れる別れまでの時間だ。当人たちはそれに気が付いていない
同じ想いを抱きながら、お互いにそれに気付くことなく、二人の関係は続いていく。今より近付くことなく、遠ざかることもなく。
◇◇◇
休暇が終わると、すぐに上期の試験があった。
新入生たちにとっては初めての試験だ。それぞれの生徒の学力が明らかになる初めての機会とあって、掲示板に貼り出された順位表の前には、多くの生徒たちが集まっていた。
「お、おい」
その中の一人の生徒が声をあげた。その意味を知って、掲示板の前に固まっていた生徒たちが、一斉に広がっていく、
空いた場所に進んできたのは、まだ幼さは残っているが、それでも十分に美男美女と言える三人の生徒たち。輝くばかりの金髪に赤みがかった瞳を持つ男子生徒は、アーノルド・ハイランド。グランフラム王国の王太子だ。その隣に並んでいる金髪に青い瞳の男子生徒はランスロット・ミニスター、深い赤褐色の髪に茶色の瞳は、ファティラース侯家の長女であるシャルロット・ランチェスター。
王族と二侯家の子弟の揃い踏みとあっては、周囲の者たちが、慌てて場所を空けるのも当然だ。
「きっちり一番か。さすがだな」
掲示板に貼られている順位表を見て、ランスロットは感心している。順位表の一番上にはアーノルド王太子の名があるのだ。
「あら? 私、ランスロットにまで負けているわ」
それに続いてシャルロットが不満そうな声をあげる。
「俺だけじゃないだろ?」
「……そうね。ふうん、見た目だけじゃないのね」
シャルロットの視線は、アーノルド王太子のすぐ下、順位表の二番目に書かれている名前に向いている。マリア・セオドールという名に。
「噂をすれば、かな?」
廊下を歩いて掲示板に近づいてくる女子生徒。窓から差す陽の光を受けて、真っ直ぐに伸びた黒髪が輝いてみえる。青い瞳に透き通るような白い肌。離れて見ても、女子生徒の美しさはすぐ分かる。
そのマリアが、ランスロットに気が付いて、満面の笑みを向けてきた。
元々、人形のような整った顔立ちだが、笑みを浮かべると、天使のような愛らしさだ。周囲の男子生徒から感嘆のため息が漏れる。それと同時に女子生徒のうなり声も。
「やあ、マリア」
「ランスロット、さま」
「どうした? 俺は呼び捨てで良いと言ったはずだ」
「そうだけど……」
マリアの顔が途端に曇る。その表情で、すぐにランスロットは事情を察した。
「誰かに嫌味でも言われたか?」
「嫌味じゃなくて、礼儀はきちんとしたほうが良いって」
「ほう。俺が許したというのに、それに異議を唱える者がいるのか?」
「それは……」
「誰だ? 名前を教えてくれれば、俺からきちんと話しておく」
「その人も親切心で言ってくれたのだから……」
ランスロットの言う「きちんと」の意味くらいはマリアにも分かる。そして、ランスロットにはマリアが相手を庇っているのが分かった。
「マリアは優しいな。だが、それで他人行儀な接し方をされるのは、俺が我慢ならない」
「……分かった。こんにちは、ランスロット。これで良い?」
「ああ。それで良い。しかし、マリアは凄いな」
「えっ?」
「成績。見に来たのだろ?」
「あっ、そう」
ランスロットが空けた場所に、マリアが進み出る。順位表に目を向けて、自分の名を確認すると、不満そうに口をとがらせた。
「……負けちゃった」
「おっと、マリアは二番でも不満なのか?」
「だって、頑張ったつもりだったのに」
「しかし、二番だ。それに、あれだ、一番は……」
「一番がどうかしたの?」
口籠ってしまったランスロットに、何も考えていない様子で問いかけるマリア。
「……マリア、自国の王太子の名くらいは覚えておいた方が良いな」
「え? あっ!」
「学年の一位はアーノルド王太子殿下。そして、目の前にいるのが本人だ」
ランスロットの説明を聞いて、マリアは顔を真っ赤に染めて、固まってしまう。
「……私の顔はそんなに変か?」
そんなマリアに向かって、アーノルド王太子は冷めた声を発してきた。
「えっ?」
「女性を驚かせるような顔かと聞いている」
「……いえ、とても素敵だと思います。そういう意味では驚くかも」
「何?」
「あっ、失礼しました。つい、本音が」
「……変な女だな」
呆れたような表情を見せながら、アーノルド王太子が呟く。それを聞いたマリアの顔に笑みがこぼれた。
取っ掛かりとしては充分。そんな気持ちからだが、周りにはそんな内心の思いは分からない。
「……変な女と言われて嬉しいのか?」
「はい?」
「今、笑った」
「あっ、ああ。アーノルド様の本音が聞けたような気がして、嬉しかったの、です」
「……お前」
不思議なものを見る様な眼つきで、アーノルド王太子はマリアをじっと見詰めている。少し恥らう様子を見せながらも、マリアもその視線を受け止めている。
二人の間に何とも言えない雰囲気が漂う。
「いやあ、マリアに掛かると、さすがのアーノルドも調子を狂わせられるようだな」
その雰囲気を吹き飛ばしたのはランスロットだ。間違いなく、わざと。
「……別に俺の調子は狂っていない」
「そうか? それは良いとして、どうかな? 好成績を祝って、お茶でもしないか?」
「どうしてそうなる?」
「良いじゃないか。学年の上位四人が集まったわけだから」
「ねえ、それって、その子も一緒ってこと?」
シャルロットが不満そうな顔をして、会話に割り込んできた。
「そうだけど?」
「まさか、サロンに彼女を入れるの?」
「そのつもりだけど?」
「ランスロット、彼女は平民よ?」
シャルロットが言うサロンとは、上位貴族の子弟の為に特別に用意された部屋だ。名目上は社交部という、何を活動するか分からない部の部室ということになっている。
「平民を入れては行けないという規則はない」
「そうだけど……アーノルド?」
「……どうでも良い」
「本気?」
シャルロットにしてみれば、これは予想外。アーノルド王太子は、絶対に反対すると思っていたのだ。マリアが平民だからということではない。アーノルド王太子は極度の人見知り、人嫌いと言っても良い性格をしている。
初めて会ったマリアを、自分たちの憩いの場と言えるサロンに入れるのを認めるはずがなかった。
「賛成二名。これで決まりだな」
ランスロットにとっては僥倖だ。これで、この先もマリアをサロンに呼べると思って、シャルロットの反対を押し切った、はずだったのが。
「僕は反対だ」
「何?」
突然、入ってきた声。ランスロットが声のした方に目を向けてみれば、そこにはヴィンセントが立っていた。
ランスロットの顔に苦々しい表情が浮かぶ。
「賛成が二、反対が二。五分だ」
「……お前には関係ない」
「関係なくはない。サロンへの入室資格を僕も持っている」
「一度も来たことがないくせに」
「忙しくて。それに特に用もないし」
「じゃあ、やっぱり、関係ないだろ?」
「そうはいかない。サロンは、ずっと昔の先輩たちから受け継いだもので、この先も後輩に受け継がなければいけないものだ。僕たちの代で、勝手に慣習を変えるべきじゃない」
伝統を重んじるヴィンセントらしい考え方だ。そして同じ貴族であるランスロットも本来は、同じ考えなのだが。
「……くだらない。過去の慣習に捉われてどうする?」
ヴィンセントが言うと、それと反対の立場を取ることになる。
「別に捉われていない。大事にするべきだと言っているだけだ」
「お前にはそれを言う資格はない」
「資格はある」
「無い。侯家の恥さらしが」
「何だと!?」
「順位表を見てみろ。お前の名がどこにある? 四家の中で唯一、上位十名どころか、二十名にも入っていない。これが恥さらしでなくて、何だ?」
「…………」
これを言われては、ヴィンセントは何も言い返せない。悔しさを表情に滲ませて、俯いてしまう。
その様子を見て満足そうな笑みを浮かべながらランスロットは、更に追い打ちを掛けようと言葉を続けた。
「そうだ。サロンの規則をこう変えよう。サロンはただ家柄だけの者ではなく、本当に優秀な者が集う場だと。そうすればお前にサロンに入る資格はなくなる」
「そんな変更は認めない!」
「お前の意見なんて聞いていない。アーノルド、どう思う?」
「何?」
ここでアーノルドがランスロットの言い分を認めてしまえば、ヴィンセントには打つ手がなくなる。アーノルドは王族であり、後の国王になる人物だ。その意向にヴィンセントが逆らえるはずがない。
「……くだらない。部屋など使いたい者が使えば良い」
「アーノルド?」
「時間の無駄だ。行くなら行く、止めるなら止める。さっさと決めろ」
「……じゃあ、行こう」
ランスロットは、呼び捨てを許されるほど、アーノルド王太子とは仲が良い。それでも、アーノルド王太子の意向を無視したり、正面から逆らったりすることは出来なかった。
「殿下! その女子生徒を御連れになるのは、いかがなものでしょうか!」
だが、ヴィンセントはそうではない。
「……何だと?」
終わらせたはずの話をヴィンセントは蒸し返した。それもアーノルド王太子に直接、問い質すというやり方で。アーノルド王太子の表情が一気に厳しいものに変わった。
「王太子殿下とはいえ、先人の取決めを無視するのは……その……」
アーノルド王太子に向かって声をあげたヴィンセントだったが、振り向いたその視線があまりに厳しいものであった為に、最後まで言葉に出来なくなってしまう。
「人にものを言う前に、自分の身を顧みたらどうなのだ? ランスロットに言われたことをお前は否定出来るのか?」
「それは……」
「こんな男がウィンヒール」
「ヴィンセント様、お待たせしました」
この状況でリオンは、アーノルド王太子の言葉を遮るような形で割り込んできた。これ以上、ヴィンセントとアーノルド王太子を直接対立させるのはマズいと考えての行動だ。
「リオン、今は殿下が」
「はい? あっ、これは失礼いたしました。まさか王太子殿下とは思いもせず」
「……主が主なら、従者も従者だな。自国の王族の顔も知らないとは」
「いえ、お顔は存じ上げております。ただ良く似た別人だと思いました」
「何だと?」
「アーノルド王太子殿下は幼い頃より、英明さを示されている御方と聞いておりました。臣下の諫言に耳を貸そうともしない御方が、英明などと言われるはずがありません。つまり、別人だと」
王族に向かっての痛烈な皮肉。周囲にざわめき声が広がっていった。それを言われたアーノルド王太子は、驚きの混じった複雑な表情でリオンを睨みつけていた。
「……貴様」
「リオン!」
声とともにヴィンセントの拳がリオンの頬を思いっきり打つ。不意のことで、リオンは堪えきれずに、そのまま床に倒れてしまった。
「殿下に向かって!」
「酷い!」
「なっ?」
続けてリオンを怒鳴りつけようとしたヴィンセントに向かって、叫んだのはマリアだった。
「酷い! リオンくんは貴方の為にアーノルド様に刃向ったのよ!」
「それは許されないことで」
「そんなリオンくんに対して、貴方は何て事をするの! 最低だわ!」
ヴィンセントの言い訳にまったく耳を貸すことなく、マリアは一方的に非難を続ける。
「何だと!?」
「リオンくん! 大丈夫!」
あまりの言い方にさすがに怒りが湧いたヴィンセントだったが、その時には、マリアはヴィンセントに背中を向けて、床に倒れているリオンに駆け寄っていた。ヴィンセントの反応など彼女はどうでも良いのだ。
「今、怪我を治すから」
「……無用です」
怪我といっても唇を少し切ったくらい。そうでなくても、今、マリアに治してもらう必要はない。
「すぐに終わるから」
「だから、治癒魔法など無用です」
「でも」
そして、今度はマリアが無視される番だ。マリアの腕を振り払って立ち上がったリオンは、ヴィンセントの目の前に跪いて、頭を垂れる。
「申し訳ございません」
「……いや。ただ王太子殿下への不敬は、僕への不敬と同じだ」
「はい。以後、心しておきます」
「それで良い、僕は。だが……」
「……はい」
ヴィンセントの言葉に、リオンは一旦立ち上がると、振り返って今度はアーノルド王太子の目の前に跪いた。
「お詫びして済むことではないと承知しております。いかような罰もお受けいたしますので、ご命令を」
「……では死ね」
「承知しました」
そう言い放った時には、すでにリオンの手には短剣が握られていた。その剣先を自らに向けると、躊躇うことなくリオンは、自分の腹に突き立てる。流れる様なその動きに、誰もが止めることを忘れて、茫然と見ているだけだった。
「……なっ!?」
最初に我に返ったのは、正面に立つアーノルド王太子だ。リオンの体から流れる赤い血が、アーノルド王太子を正気に戻させた。
そのアーノルド王太子の驚く声で、周囲の者たちも事態を把握していく。
「リ、リオンくん!」
前のめりになって、苦しそうにうめくリオンに真っ先に駆け寄ったのはマリアだ。
「大丈夫!? リオンくん! しっかりして!」
リオンを抱き起して、叫ぶマリア。そのマリアに向かって。
「……う、うるさ、い。お、おれ、に……ふ、ふれる、な」
リオンは冷たく言い放った。
「何を言っているの!?」
「こ、これ、は……ば、ばつ……お、おれは、し、しななければ……」
「馬鹿なことを言わないで! アーノルド様!?」
「……あっ、ああ」
「許すと! 早く!」
マリアのこれも、かなり不敬なのだが、誰もそれを咎める者はいない。そんなことを気にしていられる状況ではない。
「わ、分かった。許す」
アーノルド王太子もマリアに言われるままに、宥免の言葉を口にした。
これでリオンの罪は許された、などと言う大袈裟なことでは本来はない。事を大きくしたのは、リオンの方なのだ。
「さあ、これで死ぬ必要はないわ。治療するから」
「ひ、必要、な、い」
「何を言っているの!?」
マリアが叫ぶのと、ほぼ同時に、リオンに向かって穏やかな風が流れる。風は徐々に輝きを増して、リオンの全身を包んでいった。
その光が収まると、リオンは一度大きく息を吐き、何事もなかったような顔をして立ち上がった。
「……リ、リオンくん?」
「ご心配をお掛けしました。でも私を治してくださる方は、他にいますので」
口調も普段のリオンに戻っている。こんなリオンの態度に、周囲の者たちは狐につままれたような顔をしているが、リオンの足元に残る血痕が、リオンの騎士服の腹部に残る血の染みが、先程までのことが、確かに事実であったと証明している。
「では、私はこれで失礼いたします」
「待て!」
礼をして、離れて行こうとするリオンにアーノルド王太子の声が掛かる。
「まだ何かございますか?」
「……いや、何でもない」
声を掛けたものの、アーノルド王太子は何も言葉に出来なかった。表情を消して、自分を見詰めるリオンの放つ雰囲気に気押されてしまっている
そんなアーノルド王太子に向かって、もう一度、深く頭を下げてから、リオンはヴィンセントの下に向かった。
「治療ありがとうございました」
「…………」
御礼の言葉を口にするリオンに、ヴィンセントは何も返すことが出来ない。強張った表情のまま固まってしまっていた。
「私は大丈夫です。どこも痛い所はありません。ヴィンセント様のおかげです」
「……そうか」
ようやく一言、ヴィンセントは言葉を発した。それで、力が抜けたのか、強張っていた顔にも笑みが浮かんだ。
「ただ、この一件は」
「エアルには内緒で、だな?」
「はい」
「こんなのがエアルに知られたら、大変なことになるな」
「きっと。先ほどよりも、遥かに辛い目に遭わされそうです」
「そうだな」
「さあ、もう戻りましょうか。ヴィンセント様には、のんびりしている時間はなさそうです」
そう言うと、リオンはとっとと歩き始めた。そのリオンの後を、ヴィンセントも追いかける。こういったところは主人と従者というよりも、長い付き合いの友人のような気安さが二人の間にはある。
「おい、時間がないって、どういう意味だ?」
「三十二位」
「えっ?」
「今回の試験の順位です」
「三十二位か……」
リオンに順位を聞いたヴィンセントの顔がにやけている。ヴィンセントにしてみれば、三十二位は予想以上の好成績なのだ。
「喜ばないで下さい」
「いや、だって」
「私も良い成績だと思います。でも、これで頑張れば勉強が出来るようになるとヴィンセント様も分かったはずです」
「……まあ」
「もっと頑張ればもっと順位は上がります。そうすれば、あんな侮辱を受けることはなくなります」
「……僕の為に、すまない」
「いえ、気にしないで下さい。あれは私も頭に来たからやったのです」
リオンの忠誠はあくまでもヴィンセント個人にある。ヴィンセントを侮辱するものは、それがたとえ、王太子であっても許す気にはなれない。
「しかし、本当に自分を傷つけるなんて」
「ああでもしないと相手は驚きません。自分の発した言葉の重さを分からせたかったのです」
「そうだけど……」
「それに本当に私が死にそうになれば、王太子の命に逆らっても、ヴィンセント様は私を助けて下さいました」
「ああ、もちろんだ」
「だから、少々の無茶は平気です」
「それでも無茶し過ぎだ。やっぱり、エアルに伝えるか。そうすれば、二度とこんな真似はしないはずだ」
「それは……いえ、何度でも行います。それがヴィンセント様の為であるなら」
「でもエアルが、自分の為に止めろと言ったら?」
「…………」
答えは無言。リオンにはとっさに言葉に出来る答えが見つからなかった。
「悪い。意地悪な質問だった」
「いえ、別に」
ヴィンセントには二人の間にある想いが分かっている。自分の立場では決して、それを応援してはいけないことも。だが、ただの兄としては、それが歯がゆくて仕方がない。
お互いに相手への想いを自ら否定して、心の奥底に押し込めている二人のことも、どうにも歯がゆくて仕方がなかった。
この日からしばらくして、またリオンはヴィンセントの噂の火消しに駆けずり回る羽目になる。自らの罰を逃れる為に従者を犠牲にしようとした最悪の男という噂を。
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