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戦艦探偵・金剛~シルバー事件23区~ PLACEBO *1 UMI ②

 結局、ソノダユリコから有益な情報は得られなかった。彼女は用事があるからと言って先に喫茶店を出た。そのあとで、俺は二杯目のコーヒーをお替りしながらこの手記をのんびりと書いている。
 ただ、振り返ってみるとソノダユリコの仕草にはどこかわざとらしい部分があった。もしかしたら体よく誤魔化されたのかもしれない。
 ………我ながらひねくれた考え方だ。後輩があんなに無残な殺され方をしたんだ。ああもなるさ。それに誤魔化すくらいなら最初から取材を受けなきゃいい。
 それでも俺なら―――俺がソノダユリコの立場ならどうしただろうか。一般市民に出来ることは少ない。犯人に繋がる情報を提供する。その情報を元に警察が捜査を行う。協力できるとしたらそのくらいだ。そして俺はそのおこぼれの情報で飯を食うわけだ。
 ところで聖書の話には続きがある。
 ひたすら退屈だったけど、一つだけ強く印象に残っている場面がある。ノアの洪水の場面だ。神様は地上に増えた人間の堕落を見て、これを洪水で滅ぼそうとするんだ。俺はそれを読んで何だかほっとした。全知全能の神も失敗するんだな、てな。それなら人間である俺はもっと失敗しても許された気がしたんだ。
 そう牧師に話したらえらい怒られた。神様は失敗しない存在なんだとさ。そのとき俺は、ショックを受けたとか、落ち込んだとか、そういうことは感じなかった、ただただひたすら神様が気の毒だった。あまりにも全知全能すぎると、失敗を許して貰えなくなるなんてな。
 きっとウエハラカムイも、神様が何かの手違いで生み落としてしまった存在なのだろう。俺にはそう思えてならない。

同日 午前十五時二十二分 自宅マンション『タイフーン』

 家に帰るとポストに新しい手紙が来ていた。イノハナからだった。どうやらウエハラカムイを目撃したという人物がいて、そいつと俺を引き合わせる段取りを付けたらしい。独占取材だそうだ。時間は明日の正午。取材対象の名前はエンザワカイジ。就職情報誌が目印らしい。場所は奇しくも今日、ソノダユリコと会った喫茶店だ。偶然にしては出来過ぎているイノハナの野郎、どこかで俺を監視でもしてんのか。
 俺は手紙を机の上に放り出すと、アカミミに餌をやることにした。アカミミにとって、今日はいつもより遅めの昼食だ。すまんなアカミミ、恨むなら八王子で事件を起こしたカムイを恨んでくれ。
 のろまで有名な亀ではあるが、実際には意外と機敏に動く。飢えたアカミミは餌を見るなり、水槽の端から素早く移動してパクパクと食べ始めた。餌を食べるアカミミと眼が合った。俺の帰りの遅さを非難しているようだった。
「そう睨むなよ、悪かったって」
 俺はアカミミに声をかけて、ソファーの上へ寝転がった。今日は随分と歩き回った。ダメ押しに五階の、自分の部屋まで上がったのだ。足がパンパンにむくんで痛い。煙草を一服吸うと、良い感じにまどろんでくる。
 机の上に投げたイノハナの手紙が目に留まる。こちらには情報が圧倒的に足りない。カムイを見かけたというのなら大ニュースもいいところだ。ま、正直なところ眉唾もんだがな。それだけの有力情報なら警察も掴んでいないはずがない。他社の記者だってほっとかないだろう。それを独占取材だなんて怪しすぎる。ま、最初から怪しい仕事だけどな。
 それにしたってカムイか。俺はいつの間にか犯人をカムイ、カムイと呼んでいるが、まだカムイの犯行だと決まったわけじゃ無いんだよな。
 情報では二十年前の逮捕時は十九歳だったわけだから、単純に計算して今は三十九歳になるわけだ。二十年の歳月は人相風体を大きく変える。体力も落ちてるだろうに、女子高生を殺してボートに乗せて流すなんて面倒な作業が出来るのか? 俺には無理だな。八王子を歩き回っただけでこのザマなんだからよ。

同日 午後七時二十八分 バー『ジャックハマー』

 目が覚めると午後七時になっていた。引っ越したときに、ほとんど衝動的に買った高級ソファーだが、確かに寝心地がいい。
 俺は簡単で少量の夕飯を済ませて、中途半端に覚めたこの脳みそをどう使おうと思案した。カムイ以外にも多忙な俺にはいくつか仕事を引き受けている。締切も近いしいい加減に手を付けなきゃならないんだが………。
 

 というわけで俺はバー『ジャックハマー』にいる。何がというわけなのかは分からんが、リフレッシュしてから仕事に取り掛かってもバチは当たらないだろう。
 ここは俺いきつけの店でね。入り組んだ路地のところにあるから人はあんまり来ないし、顔が細長くて髭面のバーテンも気さくでいい。そこで俺は甘くも辛くもないカクテルを一杯だけ飲む。それが習慣だった。俺は居酒屋でベロンベロンになることはあっても、ここではそこまで飲まない。ここには落ち着くために来る。あとは考えを整理したりするためにとか。何だかアカミミに対しても同じことを書いた気がするが、ちょっと違う。アカミミに話せないことだってある。
「仕事は順調ですか? モリシマさん」
 バーテンが訊いてくる。俺は、
「まぁね。大忙しさ」
 と、答えた。
「最近、運動してます?」
 俺は内心ギクリとして、
「実はあんまりしてないな。そこでちょっと、その、ウォーキングでもやろうかと思ってるところだよ」
「ウォーキングですか。それはいいですね。太った人が急にランニングとか始めると、膝を痛めると言いますし」
「痛めるほど太っちゃいねーよ」
「そうですね。でも心なしか頬のラインが丸くなったような気がします」
「マジか。面と向かって言われると凹むな」
「中年特有の悩みですね」
「まだ中年って年齢………いや、もういい加減、中年か」
 俺はカクテルを一口飲んで、
「そういうあんたは運動とかしてんの?」
「毎朝ランニングしています。それから木曜日は水泳も」
「ほんとに? スポーツマンじゃん」
「それほどでも。モリシマさんもどうです?」
「考えておくよ」

九月二日 午前零時四分 自宅マンション『タイフーン』

 やはり事件記者としての俺のカンは鈍っているようだ。知らず知らずの内に、しかし確実に。
 バーから帰ると電話が鳴った。電話の主はエリカだった。
『一応、あなたにも知らせて置こうと思ってね』
 居丈高な感じでエリカはカムイによる第二の犠牲者の報を知らせた。午後四時には既に殺されたいたらしい。そのころ俺はマンションで爆睡していたころだ。そうとは知らず、目が覚めてバーへ直行し、飲んだくれていたのだから我ながら呆れたもんだ。ラジオでも付ければ速報が聞けたかもしれないのに。
 落ち込むのはまぁ、ここまで。重要なのはこの先だ。
 被害者の名前を聞いて、俺は酔いが一気にぶっ飛ぶのが分かった。次の被害者はなんと、俺が昼間、一緒に茶をしばいたあのソノダユリコだったのだ。俺の声色が変わるのを聞いて、エリカも居丈高な調子を崩して、
『どうしたの?』
 と、訊いてきた。それで俺は契約違反かもしれないが、しばらく内密にする条件でエリカに話すことにした。エリカの方は、
『どうせ規制されてるんだから、誰かに話しても意味ないわよ』
 と言っていたが。
 俺はエリカにソノダユリコと昼間に会ったことを話した。
『大スクープじゃない!』
 エリカは興奮して、しかし声を潜めて言った。
「大スクープだけど、規制されてんだろ」
 と、俺は冷静に窘めたが、
『でも、殺される直前の被害者と会っていたのよね? もしかすると、あなたがソノダユリコに会った最後の人間ってことにならない?』
「そりゃそうだけどさ」
 興奮するエリカに対して、俺の心は冷めていた。たった数時間前に一緒にコーヒーを飲んだ女の子が殺されているという話を聞かされても、実感がまるで湧かなかった。もしかすると同姓同名の別人じゃないかと思ったくらいだ。偶然、同姓同名の別人に会ったと言う方が、偶然、直後に殺される女の子に会ったというよりも現実的な気がする。
 俺はため息をついて、受話器を耳に押し当てたまま床にへたりこんだ。
『どうしたの?』
「数時間前に取材していた女の子が殺されたんだ。やっぱ、ちょっと信じられなくてな」
『あなたにもそんな感性がまだ残ってたのね』
 エリカはそう言って、
『………ごめんなさい。そうよね』
「いや、いいんだ」
 俺は再び立ち上がる。私情は挟まない。客観的に、中立的に、俺は物事をみるだけだ。
「知らせてくれてありがとう。じゃあ、これで」
『ちょっと、せっかく知らせてあげたのに、あなたからは何かテイクが無いわけ?』
「ソノダユリコのことを話したろ」
『そうじゃなくて………その、あなたと私で、もっと助け合えると思うんだけど』
 このエリカの言葉は付き合っていた頃、というより一緒に仕事をしていた頃を思い出させた。古き良き思い出だ。
『明日の正午は空いてる?』
「いや、明日は用事があるんだ。そうだな………正午以降は?」
『それだとこっちの時間が合わない。あなたの行きつけのバーは? そこで七時に落ちあいましょう』
「いいよ」
 電話が切れた。エリカが切った。俺は無音の受話器を耳に当てながらしばらくジッとしていた。
 果たしてどこまでエリカを関わらせていいものか。だが通信社にツテがあるとやりやすいのも確かだ。リアルタイムで事件を追うには、どうしても俺一人の手に負えない。それにエリカはイノハナの女房だ。いざと言うときの盾にすることも出来る。それでいいのか、って話はあるが。
 俺は受話器を置いて歯を磨く。歯を磨きながら、締切の近い二本の仕事のことを思い出した。早起きして片づけるか? いいやありえないね。
 さて、今から何とか片づけますか。

同日 午後一時 世田谷区 喫茶店『プルシアン』

 だるい。
 結局、昨日の仕事は徹夜だった。寝たのは午前四時。起きたのは午前十一時だった。俺は喫茶店へ十二時にやってきて、朝食だか昼食だか分からない食事を済ませて、コーヒーを飲んでいた。
 席は昨日と同じ。対面にソノダユリコが目の前に座っていれば、そっくりそのまま昨日と同じ光景が繰り広げられた。気温もうだるような暑さだった。何もかもそのままだ。ただ日付が変わっただけ。
 午後一時になったが、情報提供者はまだ現れなかった。まぁ、気にすることじゃない。この仕事をしていると、時間に遅れることはままあるころだ。
 俺は煙草を一服吸いながらそいつが現れるのを、この手記を書きながら待っている。その間にこの喫茶店の様子でももう少し細かく書いてみるか。
 喫茶店はもともとバーだったらしく、大きなバーカウンターが入口から反対側まで縦断していた。カウンターの向こう側の棚には酒瓶の代わりにグラスや皿が詰まっている。俺や、俺の後ろにいるテーブル席の客たちのいる場所は、喫茶店になる際に増築されたようだった。フローリングの模様がハッキリと別れている。
 俺のテーブルには白と赤のチェックのテーブルクロスが敷かれていて、安物の布のせいか、ザラザラとした肌触りがした。
 いい喫茶店だ。俺の肌に合う。

 情報提供者は俺が三本目の煙草を吸い終わったころに来た。
 年齢は四十代から五十代。小太りで眼鏡をかけている。だいたい部長クラスの地位にいそうな感じの男だった。ワイシャツの袖をまくって、ふうふう言いながら店の中に入って来た。汗でワイシャツは透けて、下着の線が丸見えだった。手紙の通り、懐には就職情報誌を抱えている。
「こっちだ」
 俺が合図すると、エンザワは手拭いで顔と眼鏡を拭きながら俺の目の前に着席して、コーヒーを一杯注文した。
 就職情報誌を抱えているからてっきり失業者なのかと思ったが、今も仕事中で二十分しか都合がつかないという。
 そういう奴の口ぶりが、不思議とソノダユリコとダブった。女子高生と五十時絡みのサラリーマンじゃ対極もいいところだが、どうしてそう思ったのだろうか。強いて言えばどこか落ち着きのない………よそよそしい雰囲気のせいなのかもしれない。俺はそう自分に納得させて質問を始めた。
「あんた、カムイを見たんだって」
 俺が質問すると、エンザワは、
「ええ、見ました」
 と、答えた。
「一体どこで」
「北海道で」
「へ?」
 いやいや北海道ってどういうことだよ。事件が起きたのは八王子だぞ。俺がそう思っていると、
「まぁ、聞いて下さい。私がカムイを見たのは事件が起きる前のことです。北海道で三年ほど転勤になったとき、彼の姿を見たのです」
「ああ、そういうこと」
 考えて見りゃカムイが医療刑務所を脱走したのは戦時中のことだ。それから北海道に潜伏して、そのときエンザワが目撃したとすれば話の筋は通る。カムイの本籍地は神威岬と言うらしいから、土地勘のある地元へ帰ったというのは案外あり得るかもしれない。
「いつの話だ」
「去年です。まるで新月のようでした」
「新月?」
「カムイです。そのとき、私は仕事から帰る途中でして、真冬のころでした。雪がしんしんと降る中、街灯の下に佇んでいたんです。彼が。その様子がまるで新月のようだったのです」
「はぁ………そのときの彼の服装は?」
「白い服を着ていました。髪型も写真の通りで」
「ああ、新聞を見て思い出したのね」
「ええ」
「警察には?」
「言っていません。イノハナさんには以前、お世話になったので」
「ああ、そう。もう少し詳しく話を聞かせてもらえないかな? カムイを見たのは北海道のどのあたり?」
 すると用意のいいことに、エンザワは北海道の地図を取り出して、俺に示してくれた。するとエンザワがカムイを見たのは北海道の積丹郡積丹町余別町という場所のようだった。気前の良いことに地図ごとくれるそうだ。
「それじゃ、これで」
 きっかり二十分後にエンザワは喫茶店を後にする。昨日の今日のことなので、
「帰り道は気を付けて帰ってくれよ」
 と、声をかける。取材対象が二度続けて死ぬなんて夢見が悪い。
 しかし北海道か、遠いな。

同日 午後五時七分 自宅マンション『タイフーン』

 プルシアンから帰る前に、俺はナナミケイとソノダユリコが通っていたという雛代高校へ足を運んだ。てっきり記者連中が学校の周りを取り囲んでいると思ったが、いたのはチンピラみたいな風体をした小規模な出版社の記者が二、三人チラホラといるだけだった。
 学校はシンと静まり返っていた。生徒が二人殺されて臨時休校になったらしい。
 俺は学校へ入ってみようかと考えたが、結局はやめた。ここにカムイはいない。ここにあるのは犠牲だけだ。正門の前で煙草を吸うと、高校のころを思い出した。あのときは隠れて吸っていたが、今はこうして堂々と吸っている。あの頃の俺と今の俺の違いなんて、それくらいしか思い浮かばない。
 そもそも俺はどうして煙草を吸い始めたのだろうか。こんな臭くて、体に悪くて、役に立たないものを。きっと俺のことだからしょうもない理由で吸い始めて、吸い続けて、いつの間にか自分の一部になってしまったのだろう。
 雛代高校は山間に佇む墓標のようだった。山を背景に森に囲まれて、おおよそ都会的な東京都は切り離された場所に建っていた。生徒のいない学校は、どこまでも静まり返っていた。何も知らないと廃墟のように思える。誰もいないまま朽ちて、そのまま忘れ去られていく。
 カムイも同じだった。二十年前に掴まって、病院へぶち込まれて、それで朽ち果てて忘れ去られていくはずだった。
 この事件はカムイの最後の抵抗なのだろうか。自分を忘れていく世間に怒りを示したかったのだろうか。あるいは別の目的があるのか。
 何にせよここにはカムイはいない。俺は煙草を消して家路についた。
 タイフーンへ帰ると、一気に疲労感に襲われた。このまま一眠りしてしまおうかと考えた矢先に、アカミミが水槽の壁を前脚でガチャガチャと叩き出した。まるで眠るなとでもいうように。
「分かったよ。寝ないよ」
 俺がそう言うと、アカミミは心底安心したように壁から前脚を離した。
「腹減ってんのか?」
 そう言って、俺はアカミミの好物であるヨコエビの袋を戸棚から取り出そうとしたとき、電話が鳴った。エリカからだった。
『事件の犯人が死んだそうよ』
 エリカの言葉を、まるで遠い異国の話のように俺は聞いていた。エリカの口調は極めて冷静で事務的だった。
『現場ではパトカーの他に救急車まで来てる』
「現場ってどこだ?」
『八王子よ。女の子が毛布をかけられて救急車に乗ったのをうちの記者が見たわ。クサビとスミオの姿も』
「スミオ?」
『クサビの部下よ。ねぇ、あなた、たいして驚いていないみたいだけどどこまで知ってるの?』
「買いかぶり過ぎだ。俺は何も知らないよ」
『今日は一日どこへ行ってたの?』
「八王子だよ」
『やっぱり』
「何を考えてるのか知らないが、偶然だよ。今日は取材でたまたま八王子に行ったんだ」
『そう』
「報道規制の方はどうなってる?」
『まだ解除されない。警察の方でも射殺された容疑者がどこの誰なのかさえ分かっていないみたい』
「確かな情報なんだろうな」
『確かよ。複数の住民が、河川敷で射殺された二人の男を見たわ』
「二人?」
『ええ、二人。犯人と、もう一人の男が運び出されるのを確認したって』
「そうか」
『ねぇ、この事件はこれで終わりだと思う?』
「さぁね」
『あなたの考えを聞かせて』
「会って話すよ」
『午後七時にジャック・ハマーね』
「ああ」
 それで俺は電話を切った。相変わらず疲労感がすごい。うっかりすると眠りそうだから、手記の続きを書き始めた。今から行けば約束の時間に間に合うだろう。
留守番を頼むよアカミミくん。

同日 午後七時 バー『ジャック・ハマー』

 ドアを開けた瞬間に懐かしい香水の香りがした。エリカの好きな香りだった。それで俺は既に彼女がいることを悟った。
 エリカはバーカウンターの真ん中に座って、バーテンと談笑していた。
「よぉ」
 どう声をかけていいかわからないから、それだけ言って俺はエリカの左隣に腰を下ろした。
「いつものを頼む」
「はい」
 バーテンがカクテルを作り始める。
「久しぶりね」
 エリカが言った。会社を辞めてから会うのは初めてだった。エリカは変わっていなかった。相変わらず同じ香水を付けていたし、紅いスーツを着ていた。変わったのは薬指にはまった指輪だけのように思えた。
「そうだな」
 と、俺は返した。
「電話で話しているから、何だか最近はしょっちゅう会っているような気がしたけれど、対面するのはほんとうに久しぶりだ。元気でやってんのか?」
「ええ」
 エリカは頷いて、
「あなたの方は少し太った?」
「お前もそういうのか」
「太りましたよねぇ」
 バーテンがそう言ってカクテルとつまみのピーナッツを差し出した。
「なんだよ、寄ってたかって。これでも最近は歩くように気を使ってるんだぜ」
 そう言って俺はカクテルを一口飲んだ。
「では、仕事も済んだことですし、お邪魔虫は退散いたしますか」
 バーテンが空気を読んで場を離れる。
「それで、あなたの考えを聞かせて」
 エリカが言った。俺はカクテルをもう一口飲んで、
「ランニングでも始めようかなと思っているよ」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
 ピーナッツを口に放り込む。
「だけどなんて言ったら分からないんだ」
「別に焦らなくてもいいわ」
「そう言われると余計に焦るんだが」
「あまのじゃく」
「何飲んでるんだ?」
「あなたと同じものよ。バーテンが教えてくれたわ」
 エリカがカクテルを一口飲む。
「何て名前のカクテル?」
「さぁね。とりあえず甘くも辛くもない奴を頼むって言って出てきたんだ」
 そう言うと、俺は急に飲んでいるカクテルの名前も分からない馬鹿な男のように思えてきた。実際そうなんだからしょうがない。そんな俺に、この事件の何が分かるってんだ。カムイの何が分かるってんだ。
 軽い自己嫌悪に陥りながら、ソノダユリコの冥福を祈り、エンザワカイジの無事もついでに祈ってやった。
 そこで俺が気が付いた。
「嘘くさいんだ」
 自然と言葉が出てきた。
「え?」
「この事件は何もかも嘘くさいんだよ。女の子が二人殺されたくらいで、情報が規制されたり、わざわざ二十年前の殺人鬼を持ち出してくるなんて。やってることに対して、周囲の反応が大げさすぎる。その割にはあっけなく射殺されて終わり? 一体何がしたかったんだ?」
 俺はカクテルを飲み干して、
「だから俺は、事件がここで終わらないと思う。何か本当の目的があるんじゃないかとね」
「本当の目的? それは何?」
「分かったら苦労はないさ。それにそんな気がするってだけだし、根拠は無いよ」
 俺は二、三粒のピーナッツを口の中に放り込んで腕組みした。
「トキオ」
 エリカが俺の方に向き直って言った。
「何だよあらたまって」
「まだ事件を調べるなら教えておきたいことがあるわ。カムイネットって知ってる?」
「いや………」
「最近、東京で出回っている同人雑誌よ」
「ほう」
 エリカは書類の束の入った重そうな鞄から、A4版の薄い本を取り出した。雑誌にしては薄すぎるし、写真週刊誌にしては安っぽすぎた。見るからに自費出版って感じの本だった。
「一部あげるわ」
「ふむふむ」
 俺はその場でパラパラと雑誌を捲った。なるほど、カムイネットと言うだけあって一から十までカムイ一色だった。書いている文章には覚えがあった。カストリ雑誌の奴ら、こぞってここから記事を流用したようだ。
 俺も依頼人へのレポートはこいつをまるまるパクった方が速そうだな。
 そんなことを思った。
「実はこの同人誌、事件の半年前から少しずつ出回り始めたの。お祭りの屋台とか、イベントの会場で少しずつ配られたり、売られていったりしていったみたい」
「ま、変なクスリ売るよかメシだけどな」
「ねぇ? 変に思わない? まるで事件が起こるのを予見していたみたい」
「小説で言うところの伏線だな」
「茶化さないの」
「別に茶化してないさ………出どころは?」
「世田谷のどこかってところね」
「この近くだ」
「そう」
「警察はこのことを?」
「分からない。昨日までなら捜査の対象になったかもしれないけど」
「犯人射殺で事件解決か」
「事件がこれで終わりなら、ね」
「何で俺にこれを話す?」
「まだ報道規制は解かれていないの。もし、警察の奴らがこの事件を闇に葬ろうとしているなら―――」
「俺に一矢報いて欲しい?」
「あなたなら、失うものなんか何もないでしょ?」
「そうでもないさ」
「あら、そう?」
 エリカは皮肉っぽい目つきでまた正面に向き直って、カクテルに口を付けた。
「エリカ、俺の方でも一つ頼みがある」
「何?」
「亀を預かってくれ」

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