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戦艦探偵・金剛~比叡の悲劇~⑤

 既に日が傾きつつあった。旅先での時間の流れと言うものは、五月雨が驚くくらいに早かった。懐中時計を見ると、気分はまだ午前十一時だというのに、短針既に午後三時を指していた。
「結局、なんの手掛かりもありませんでしたね。殺人なら、かえって動機が分からなくなりました」
 帰りのバスで五月雨がそう言うと、金剛は笑って、
「ノー、カナコ=サンはやはり我々に重大な示俊を示してくれたネ。ヒグラシ=サンと珍授荘の間には金の貸し借りは無かった、それにも関わらず彼が珍授荘へ行ったのは、きっとカナコ=サンにも知らされていない、旅館の重大な秘密を握っていたに違いありまセーン」
「すると殺したのは旅館関係者だと?」
「ふむ、あるいは本当にただの事故と言う可能性もありマース。まだまだ捜査は始まったばかりだヨ、五月雨。安易に結論に飛びつくのはノー、何だからネ」
 バスが旅館前のバス停へ辿り着く。金剛と五月雨が運賃を払って降りると、旅館の前にパトカーが止まっているのが見えた。聞き込みでもしているのだろうかと訝しむ五月雨をよそに、金剛は満足げな表情で、
「おっ、丁度いいところに来たネ」
 と言った。よく見ると玄関先には、厳しい顔をした大取警部が座っていて、金剛と五月雨を見るとおもむろに立ち上がった。

 金剛と五月雨、それから大取警部は、金剛たちの宿泊する一番のテーブルを挟んで向き合っていた。大取警部はあからさまに不機嫌な様子で警察手帳を捲る一方、金剛は涼しい顔で警部に微笑みかけている。
「先ほど女中をしているあんたの妹、えーと何て言ったかな?」
「比叡」
「そう、その比叡から聞いたんだがね。昨日の午後八時五十分から九時の間に、日暮の部屋に行ったそうじゃないか!」
 言われて金剛は、
「ああ、言われてみれば確かにそうデース」
 と言ったが、五月雨は、
 あれ? そうだっけ?
 と無言で首を傾げた。
「そっちのお嬢さんはどうなんだね?」
 大取警部が五月雨に矛先を向けると、五月雨は、
「う~ん、床を這いつくばっていたような記憶はあるんですけれど」
「まぁ、確かに比叡さんの証言では『五月雨、援護射撃に入りまーす!』とかなんとか言いながら、比叡さんの足首をペチペチと叩いたそうだが」
「わ、私、そんなことしましたかぁ!」
 五月雨は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。
「それで、どうなんだね」
 大取警部がジロリと金剛を睨んだ。
「どうして被害者と最後に会ったことを、話さなんだね」
「確かに記憶はあるデース。比叡が私たちの部屋に日本酒を運び込んで、それから酔った勢いでヒグラシ=サンの部屋へ行ったネ。でも正確な時刻までは記憶していないデース。夕食を食べた後だから、少なくとも七時以降であることは確かデスガ、八時五十分から九時という時間はいったいどこから分かったんデース?」
「隣に停まってた坂田という親子連れの証言だ。例の第一発見者だよ。彼はだいたい、いつもなら八時半ごろに母親を風呂に入れてやるんだそうだが、その日は疲れていたし、うっかりしていたようで時計を見ると八時五十分になっていたそうだ」
「ほう」
「そのとき、隣からドタバタと音がする。坂田の息子さんは、周りに迷惑だろうと思って注意しに行くと、出てきたのは女中の比叡さんだった。そこで比叡さんに手伝ってもらって、足腰の悪い母親を階段の下へ下ろした。それに五分くらい時間がかかった」
「そのとき、サカタ=サンはヒグラシ=サンの姿を?」
「ふむ、障子が閉まっていて姿は見ていないそうだ。そのとき、日暮さんはすっかり酔っ払って前後不覚になっていたらしくてね。客の醜態を見せまいという心遣いだなこりゃ。それから様子を見に再び日暮さんの部屋へ戻ると、ビールを少し零していたので、彼を広縁の椅子に座らせて、手拭いで拭いていたところに、君が現れたそうじゃないか。だから先ほどの坂田親子の話から食んだすると、その時間がだいたい八時五十五分から九時の間となるわけさ」
「でも、私がヒグラシ=サンの部屋に入った時は障子戸が開いていて、広縁に座っていたヒグラシ=サンが見えたデース」
「そりゃ突然、君が入ってくるのだもの。とにかく君は日暮さんが広縁に座って、意味へ手を振るのを、はっきりこの目でみたかね? そっちのお嬢さんは?」
 五月雨は昨日の夜のことを回想するが、やっぱり床の光景しか思い出せずに首を横に振った。
「確かにヒグラシ=サンが手を振るのをはっきりとみたデース。それから比叡に連れられて部屋へ戻ったデース」
「つまり、少なくとも日暮さんの死亡推定時刻は、九時から坂田親子に発見される九時二十分の間と言うことになる。この二十分間に、日暮恭平を殺し、階段へ運んだとなると………」
「まさか、比叡さんを疑っているんですか!」
 五月雨が、打って変わってテーブルに身を乗り出して大取警部に詰め寄った。その迫力にいささか大取警部もタジタジになって、
「いや、あくまで可能性の話だよ。私と部下が聞き込みをしたところ、その時間にアリバイが無かったのは、女将の息子の敷島宗助と、そちらの比叡さんだけだったからね。私も別に比叡さんが犯人だと思っちゃいないよ。たった二十分の間に酔っ払っていたとはいえ、日暮さんを叩き殺し、あの肥満体を階段へ運ぶなんて、女手一つで出来るもんじゃない。第一、動機がないじゃないか」
「じゃあ、宗助さんの方はどうなんです?」
 五月雨が問い詰めると、
「こっちの方もだね、八時五十分前に実は二階へ行っていたそうなんだよ。当時、受付をしていた井上という女中がその姿を見ている。何でも、女将さんが伝票を持って行ってしまって、それを追いかけたらしいね」
「女将さんはどうして二階へ?」
「何でも日暮さんと何か話があったらしい。昔からの常連だから、積もる話もあったのだろう。ところが泥酔して暴れ回っているから話しどころじゃない。そこで、後からやって来た息子に様子を見るように言って、自分は再び一階へ戻った。宗助の方はそのまま酔っ払った日暮さんの介抱をして、比叡さんが坂田さんの母親を一階へ下ろした後で、部屋を出て旅館裏で九時五分ごろまで一服していたそうだ。だから八時五十分から九時五分までのアリバイを証明するものは比叡の証言以外にない。だが彼が犯人だとしても、比叡さんに見られずに日暮さんの部屋に入って、彼を叩き殺し、階段に放置するのは難しいだろう。昼間、被害者の家で妹さんの、加奈子という人に話を伺ったが、確かに日暮家はこの旅館に金を貸していたそうだが、既に返済を終えている。日暮がたびたびここに来るのは、単に馴染みだからだろう。宗助にしたって、日暮さんを殺す動機が見当たらない」
「待っテ、オオトリ警部。被害者は『叩き殺された』のデスカ?」
「ああ、そうらしい。解剖の結果によると―――」
 そう言いながら大取警部は手帳を捲ろうとして、
「いやいや、何であんたにそんなことを教えなきゃならんのだ」
「まぁ、いいカラ」
「なんてな。実は今朝、警視庁にあんたのことを問い合わせたよ。容姿、風体、しゃべり方、そして助手の髪の青い娘。金剛さん、あんた東京ではかなりの名探偵だそうじゃないか」
「いやぁ、それほどでもナイネ」
 金剛が照れたように言いながら、ただでさえ大きな胸を張った。すると大取警部は、
「やれやれ」
 と、ため息を吐いて、
「警視庁はだいぶ、あんたのことを買っているよ。必要な情報はなんでも与えてやれとのお達しだ。こういうのもなんだが、実際、私もよく分からなくなってしまってね」
「具体的にはどういう点デース?」
「うむ、実は解剖の結果なんだが、これがどうも妙なんだ。まず被害者は、最初に頭部を角材のようなもので横殴りにされている。だが、それでは死ななかったらしい」
「どうしてそんなことが言えるんです」
 五月雨が問うと、すかさず金剛が、
「指先の血痕ネ?」
 と言った。
「さすが、酔っていたとはいえ、よく見ているね」
 大取警部は感心したように言って、
「おそらく、指先の血痕は傷の具合を確かめようと触った時に付着したんだろう。だから被害者は最初の第一撃で死ななかったということが言える。その直後に、被害者は、今度は何か、小さい鉄板のようなもので殴られているらしい」
「小さい鉄板のようなもの?」
 五月雨に訊かれると、大取警部は頷いて、右手の掌を見せながら、
「だいたい片手で握れるほどの大きさで、厚さはせいぜい二、三ミリ程度。それを逆手へ持って、被害者の頭へ………」
 大取警部は拳を握りしめて振り下ろす真似をした。
「ガツン! とやったわけですな」
「一体凶器は?」
「さぁ、それが皆目見当もつかん。金剛さんはどうだい」
「事件当時、ヒグラシ=サンの部屋にあったものは分かりマスカー?」
「ええ、それならここにメモしてあります」
 と、大取警部は金剛へ手帳を開いて見せた。
「意外と几帳面ですねぇ」
 五月雨が言った。
「意外とは余計だよ、君。それで金剛さん。何か分かるかね?」
「うーん、さすがに現時点では難しいネ」
「やっぱりそうか」
 大取警部はそう言って立ち上がった。
「何か分かったら知らせてくれたまえ。それじゃ、私はこれで失礼するよ」
「オー、待ってくだサーイ。比叡が汚れを拭いたという手拭いはどうしましたカー?」
「他のゴミと一緒に、焼却炉で燃してしまったそうだ」
 と、言って、大取警部は金剛と五月雨の部屋を後にした。

 一方そのころ、調理場の隅では田島が、
「あれぇ?」
 としきりに首を傾げていた。そこへ比叡が、客の使った急須と湯飲みを持って入って来た。
「どうしましたか? 田島さん」
「うん、何だか栓抜きが一本足らないのよ」
「栓抜きですか?」
 比叡がそう言って、田島の手元を見た。田島は栓抜きの入った引き出しをガチャガチャと探りながら、一本一本、数を数えているようだった。
「やっぱり一本足らないわ。比叡ちゃん知らない?」
「うーん分からないですねぇ。もしかしたら昨日の宴会のお客さんが、間違って持っていったんじゃないですか?」
 すると田島は残念そうな顔をして、
「そうかもしれないわねぇ。ちょっとさび付いてきているのもあるし、この際だから何本か新調しちゃいましょうか」
「あら、何か無くなったの?」
 そこへ野々江が現れた。
「ええ、栓抜きが一本無くなっちゃんですよ。酔っ払われたお客さんに持って行かれちゃったのかしらって、今、比叡ちゃんと話していたところなんです。女将さんも何か失くしものですか?」
「そうなのよ。昨日、ビールを仕入れたでしょ? そのときの伝票がどこを探しても無いのよねぇ。まぁ、伝票の一枚くらい、内容は覚えているから失くしてもどうと言うことは無いんだけれどねぇ。ああ、そうそう比叡ちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「金剛さんの部屋から刑事さんが帰っていったから、お詫びにお茶菓子を出して差し上げて。それから冷たい麦茶も持って行きなさいな」
「はい、ただいま!」
 元気よく返事をする比叡に微笑んで、
「じゃあ、よろしくね」
 と、野々江は調理場を去った。
 比叡は茶菓子とコップ、それから麦茶の入ったポットを盆に載せて金剛と五月雨の部屋へ向かった。見慣れた廊下を、比叡は歩いていく。事件が起こってまだ一日も経っていないというのに、比叡には昨日のことが何だか夢のように感じられた。
 これは心の防衛機構なのだろうか?
 それなら、その方がいいのかもしれないと比叡は思う。自分が『犯人ではない』と暗示をかけ続ければ、態度からボロ出す心配は無くなるかもしれない。
 金剛の部屋へ辿り着く。あれから何か分かったのだろうか? いいや、分かるはずがない。金剛と五月雨は今まで市内観光へ行っていたのだ。しかし、先ほど警察から何か聞いたかもしれない。
 ………こんなところでジッとしていれば、それこそ怪しまれる。
 比叡は意を決して、襖の向こうへ呼びかけた。
「金剛様、いらっしゃいますか?」
「オー、比叡! カモン!」
「失礼します」
 比叡は襖を開けて中へ入る。いつも通り、金剛と五月雨の笑顔が比叡を迎えた。
「わぁ、比叡さん。何ですかそれ?」
 五月雨が訊いた。
「女将さんからのお詫びよ。麦茶と茶菓子。今日は三角どら焼き」
 そう言って、比叡は金剛と比叡に、皿に乗っかった三角形のどら焼きを振舞い、湯飲みに麦茶を注いだ。
「どうだった? 市内観光は? 富山城には行ったのかしら?」
「それがですねぇ、先生ったら市内に着くなりずーっと日暮さんのお宅を探していたんですよぉ」
 五月雨の言葉に、比叡はドキリとした。しかし、日暮の生家を訊ねたところで、彼と自分には何の関係も無いことに気が付いて、比叡は内心ほっとした。昨日のあれは、ほとんど事故の様なものである。動機の線から自分を辿ることなど、出来るはずがない。
「あら、そうなの」
 比叡は平然とした調子で言葉を返す。
「何か収穫はあったのかしら?」
「それがですねぇ、全然ないんですよ。特に誰かから殺されるほどの恨みを買うような人でもないようです。それに日暮さんの家は、方々にお金を貸していて、この旅館にもお金を貸していたそうですが、それも戦前に返済し終えたそうです」
「え? そうなの? 私はてっきりまたお金をせびりに来たのかと」
「以前にもヒグラシ=サンがお金を無心しにきたことがあったネ?」
 金剛が訊いた。
「いえ、私は見たことがありませんけれど、田島という私と同じ女中をしている方が、戦前に何度も来るのを見たと言っていたのを聞いたので」
「ふむ、タジマ=サンネ」
 金剛は口の中で呟くようにその名前を言った。
 後で話を聞きに行くつもりなのかしら。
 比叡はそう思って、
「田島さんに話を聞きに行くなら、あまり迷惑はかけないで下さいよ」
「ふふ、大丈夫デース」
 それじゃ、と比叡は立ち上がって、
「私は仕事の方に戻りますね」
「え~、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
 五月雨が言うと、比叡は人差し指を立てて、
「駄目よ。私はこれでお給料を貰っているんだから」
 と言って部屋から出て行った。

 そこは日暮の泊まっていた十番の部屋だった。警察の鑑識班が証拠を集めて立ち去った今、部屋は元通り綺麗になっていた。それでも、やはり死んだ人の止まった部屋だから縁起が悪いということで、野々江は地元の神主を手配してお祓いをし、四十九日を過ぎるまで一般に開放しないことを決めていた。それまでここは開かずの間となる。
 その開かずの間に、金剛と五月雨を始め、大取警部、宗助、野々江、それから比叡がいた。全員が、金剛と五月雨にここへ突然、呼び集められたのだ。
「いったい、こんなところへ皆さんを集めて何をなさるつもりです?」
 野々江が戸惑いながら質問をすると、金剛は自信たっぷりな様子で腰に手を当て、
「犯人が分かったデース」
 と宣言した。
「それはあなたネ! 比叡!」
「キャアアア!」
 叫び声と共に、比叡は布団から跳ね起きた。
「ごめんなさい、ごめんなさいお姉様!」
 そう言いながら周囲を見回す。そこは寮の自室だった。空も白んでいないのか、部屋は真っ暗だった。夏の夜の温い空気が、部屋の中へ漂っている。
 夢?
 比叡は額の汗を拭った。額だけではなく、全身が汗にまみれていた。心臓の鼓動が耳元で聞こえるまでに高鳴っている。
 酷い悪夢だった。いや、あるいは正夢かもしれない。
 布団の上で体育座りをして、膝頭に頭を埋めて呼吸を整える。
 大丈夫、あれは夢だから。
 落ち着き始めると、急に喉の渇きを感じた。枕元にある水差しからコップに水を注いで飲み干す。
「フゥー」
 完全に落ち着いてしまうと、汗にまみれた寝間着が気持ち悪かった。比叡は寝巻を脱ぎ捨てて下着姿になると、そのまま朝の訪れを待った。
 
 午前の仕事を終えると、比叡は宗助と共に旅館近くの、のどかな山道を散歩していた。もちろん、二人一緒に旅館を出ると怪しまれるので、それぞれ時間をずらし、別々な場所から旅館を出て、近くの地蔵がいる三叉路で落ち合った。天気はあいにくの曇り空だが、ここ二日続いた猛烈な日照りを思うと、かえって散歩日和と言えるだろう。
「大丈夫かい、比叡さん。休んだ方が………」
 宗助が比叡を気遣うように言った。同じような言葉を野々江や田島からも言われたが、比叡は頑として首を横に振って、
「いいんです。仕事をしていた方が、気が紛れるし」
「そう。何、大丈夫さ。警察も昨日、金剛さんへ話を聞きに来ただけで、僕たちには興味が無さそうだし。ところで、今日の金剛さんはどんな様子だい?」
「今日は一日中宿でゆっくりしていくそうです。お姉様、実は体調が思わしくなくて、ここへ来たのも元々は静養のためだそうです。昨日は無理して暑い中、街へ行ったから、調子をまた崩されたのでしょう」
「へぇ、意外だな。あの青い髪の女の子は?」
「今日も市内へ行きました。昨日は、お姉様の捜査に振り回されたから、今日こそ観光して回るんだと息巻いてましたよ」
 そう言って比叡が笑うと、宗助もホッとしたように微笑んだ。
「だったら、明日は山道の散策を提案したらどうだい。そうだ、川で釣りもいい。なんなら、母さんに行って僕たち四人で釣りとしゃれこもう。そういえば釣りなんて、復員してからやってないなぁ」
 話している内に、二人はやがて神社へ続く大きな石段の前へ来た。そこは数百年前から続く大きな神社で、地元のお祭りもよくそこで開催された。そういえば、もうすぐ夏祭りの時期である。珍授荘もスポンサーになっているから、一週間ほど前に神主さんが見えて挨拶をしに来たことを思い出した。
「ついでにお参りして行こう」
 宗助が比叡を手を引くと、比叡はためらいの表情を見せた。境内に足を踏み入れると、何だか罰が当たりそうな気がしたからだ。比叡がそう言うと、宗助は笑って、
「大丈夫だよ。別に願をかけるつもりじゃない。ただちょっと寄るだけさ。夏祭りの打ち合わせで、神主様に少し話があるんだ」
 曇り空の下とはいえ、石段は新緑の中に沈んで美しかった。蝉の声が木々の間にこだまし、やがて常願寺川へ合流するであろう山から流れるせせらぎが涼しげだった。とうとう比叡は気分転換に、と石段へ一歩を踏み出した。
 神社は敷地面積も大きく、本殿もそれなりの大きさだったが、石段の下からはとんとその姿を窺い知ることは出来ない。この神社を訪れるのは、何も比叡にとって初めてでは無かった。祭りの季節になれば、他の女中と共に比叡も珍授荘を代表して手伝いに行かされた。だけれど、いつもこの石段を登るとき、最後の一段を上り切った先に漠然とした希望を感じた。
 しかし、この日、石段の先に比叡を待っていたものは、遠く神社の賽銭箱の隣に腰を下ろす金剛だった。
「ハーイ! 二人共!」
 金剛は立ち上がって両手を振りながら、よく通る声で二人へ呼びかけた。比叡と宗助はしばし呆然としながらも、やがて気を取り直して金剛の下へ向かって行った。
「金剛さん! どうしたんです、こんなところで。体調を崩して宿で休まれているかと思いましたが」
 まず宗助が質問した。
「別に体調を崩したというほどではないデース。ただちょっと疲れただけネ」
「お姉様いったい、どうしてここに?」
 比叡が訊ねると、
「簡単なことデース。まず前提として、二人は付き合ってるネ?」
「ヒエッ」
 比叡が顔を赤くして後退る。
「比叡は初日に『恋人は出来たか?』と聞かれて『駄目です、下手したら首になる』と答えたネ。そのことから比叡の恋人は旅館の従業員で、経営者の親族。つまりソウスケ=サン以外にはありえまセーン。また、お二人はよく午前の仕事終わりに旅館裏手の池で会っているデース」
「見、見てたんですか!」
 比叡が顔を赤くして起こったように言うと、金剛は首を横に振った。
「私は見ていないデース。でも気づかないネ? 旅館二階、トイレ脇の窓からは絶妙な角度で池の方が見渡せマース。珍授荘はよく掃除が行き届いた旅館ですが、そこの窓の一部分だけ妙に綺麗だったネ。つまりよく池の方を覗く人がいるということデース。では誰が覗いているのデショー? 旅館の裏手の藪の中に池があることを知っていて、その池の鯉にソウスケ=サンがよく餌を撒いているのを知っている人間、また窓の磨かれた部分と身長の位置関係を考慮して女将のシキシマ・ノノエ=サン以外にいまセーン。では、実の母親がどうして熱心に息子の鯉の餌やりを覗くネ? そんなに息子を見守りたいなら隣に行けばいいデース。でも、やりまセーン。何故なら、秘密の恋人が隣にいつもいるからデース。ソウスケ=サンは旅館の跡取り息子、何か間違いがあってはいけまセーン。だけど面と向かっては反抗されるし、何より覗いている自分に後ろめたさも感じていマース。旅館裏手は街灯も無いので夜になると真っ暗になり、三人とも繁忙期が重なることから、時間帯は恐らく午前の仕事終わりのわずかな時間。よって逆説的に、ソウスケ=サンと比叡は午前の仕事が終わると、旅館裏手の池の前で逢引きを重ねていることが分かりマース」
「ヒッ、ヒエエエエエエ~」
 金剛の推理が終わると、比叡は珍妙な悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。
「そ、そ、そんな、い、い、いったいいつから」
「正確には分かりませんが、だいぶ前からだと思いマース………」
「ヒエ~」
「落ち着いて、比叡さん。母も知っていて黙っていたということは、ある程度、君を認めているということじゃにないか」
 宗助のフォローに金剛も同意して、
「その通りでデース。ま、いい機会だからこの際、三人で膝を突き合わせて話し合ってみるといいネ」
 まだ立ち直れていない比叡を他所に、宗助は不思議そうな顔で、
「しかし金剛さん。さっきも言いましたが、どうしてまたこんなところにいるんです?」
「あなたたちを待っていたデース」
「待っていたって、どうして僕たちがここに来ることが分かったんです?」
「ふむ、一般的に世を忍ぶカップルと言うものは、統計的に三日続けて同じ場所を逢引き場所に選びまセーン。またその際には、六十パーセント以上がパートナーとの散歩を選ぶデース。何故なら一カ所に留まる場合と比べて人目につきにくく、言い訳もしやすいからデース。旅館の周囲にはいくつか山道がありマスガ、この山道が一番、気が大きく生えていて人目につきにくいネ。そして今日は気温は低いが、湿度が少し高いデース。ちょうど道を歩いていて疲労してくるのが、この辺りデース。ということは、お二人はこの神社で一休みする可能性が高いと言えマース」
「はぁ」
 宗助が金剛の推理力に唖然としていると、金剛は舌を出して、
「というのは冗談デース。女将のノノエ=サンが、ソウスケ=サンにこの神社へ言伝を頼んだということを聞いたので、別な道から先回りしたネ。おかげでクタクタだよ」
「ああ、それで顔色が少し悪いんですね」
 宗助が苦笑して言うと、金剛も笑って頷いた。
「さて、金剛さん。私たちに何か用ですか?」
「イエス、ヒグラシ=サンが死んだと思われる八時五十分から、九時二十分までどこにいたのかを教えてくだサーイ」
 金剛の言葉に宗助は再び苦笑して、
「金剛さん、警察の話によれば日暮さんは九時から九時二十分の間に殺されたのでは? 確かあなたは、その直前に日暮さんを見ていらっしゃるはずです」
「ああ、それはうっかりしていたデース。どうもそのときは酷い酔い方をしてたマシタ。富山のお酒がおいしくてネー」
 一見和やかに語り合う二人を、比叡は内心、戦々恐々とした気持ちで見つめていた。
 死亡推定時刻の間違いはわざとだ。お姉様はカマをかけようとしている。
 そう思った比叡は、下手なことは言うまいと、質問が来るまでひたすら聞き役に徹することにした。
「警察の話によれば、あなたは九時から九時二十分の間、旅館の裏手で煙草を吸っていたと言ったそうネ?」
「はい。証明するものはいませんが………」
「その前はどちらに?」
「事務室の方で伝票の整理をしていました」
「イエス、そしてそのあと二階へ上がった。当時、受付をしていたイノウエ=サンという女中が証言していマース。ソウスケ=サン、どうして二階へ?」
「母の後を追ったのですよ。実はあのとき、日暮さんと母との間で何か相談事があったらしくて。でも、母はそそっかしい人で、ビールを仕入れたときの伝票を持って上がってしまったんです。それを追いかけたのですよ」
「ノノエ=サンも同じことを仰っていたデース。あなたが二階へ上がる少し前に、やはり受付のイノウエ=サンが見ていマース。ところがヒグラシ=サンが泥酔して暴れまっている音を聞いて、時間を置くために引き返したと言ってたデース」
「ええ、日暮さんの酒癖の悪さは昔からでしてね」 
 宗助は苦笑する。一方で、実はあのとき野々江が近くまで来ていたと知って、比叡は何だか冷や汗が出てきた。
「そこであなたは廊下でノノエ=サンとすれ違った。ノノエ=サンはヒグラシ=サンが暴れているようなので、比叡の様子を見に行って欲しいと頼んだ。そしてあなたはヒグラシ=サンの部屋に入ったネ。それは何時ごろデース?」
「多分、八時五十分前でしょう。僕は日暮さんを部屋の中で介抱し、比叡が坂田さんのお母様を一階へ下ろして、比叡と入れ替わりに部屋を露天風呂の方の階段から出て、旅館の裏手に回って少し煙草を吸いました。それで九時五分ごろにまた仕事へ戻ったんです。僕の姿は、母も井上さんも見ていますよ」
「ふむ、やはりそうデスカ」
 金剛は納得したように頷いた。傍から聞いている比叡にとっても、完璧な筋書きだ。
「比叡さん、仮に僕が犯人だとしても、どうやって五分で日暮さんを殺して、あの体を階段まで運べるんです? ちょっと無理がありませんかね?」
「まぁ、一人では無理ネ」
 頭をかきながら金剛が言った。一人では無理、その言葉に比叡もそして宗助もドキリとしたに違いない。
「一人? あなたまさか、僕と比叡さんが共犯だっておっしゃるんですか?」
 動揺を隠すためか、ひどく怒った様子で宗助が言うと、金剛は慌てて、
「ソ、ソーリー、まぁ、そういう可能性もあるという話デース。ああ、話はこれで終わりデース。私は旅館へ帰るデース」
 金剛は立ちあがって、それから右手の人差し指を立てて、
「ああ、もう一つだけ質問がありマース」」
「何です?」
 落ち着いた様子で宗助が言った。
「結局、伝票は女将さんから受け取れマシタカー?」
 すると宗助は困ったように笑って腕を組んだ。
「それが、何故かどこを探しても無いんですよ。母もどこで失くしたか思い出せないらしくて、困ったものです」
「なるほどデース」
 金剛はそう言って去っていった。残された比叡と金剛は、気が付くとお互いの手と手を固く握りあっていた。
 
 五月雨が帰ってきたのは午後五時頃だった。金剛が部屋で本を読みながらくつろいでいると、
「ただいま帰りました!」
 と、勢いよく襖を開けて入って来た。五月雨はすっかり真っ赤になって日焼けしていた。手には衣服の入ったかごが下げられている。市内へ行くついでに、衣服のクリーニングも頼んだのだ。
「いったいどうしたネ五月雨。すっかり日焼けしているデース」
 旅館の近くは曇り空だったが、市街地の方は今日も快晴だったようだ。五月雨は照れた様子で、
「ええ、実はまず護国神社へお参りに行って、お守りを買った後で、市内の甘味を食べ歩いちゃいました。それでですね、ふふふ、護国神社のそばを流れている川あるじゃないですか、あれ神通川って言うんですって!」
「はぁ………」
「それでお昼を食べ終わって、神通川沿いに北へ歩いていくと、海水浴場があるじゃないですか。それで私、水着を買って泳いできたんです。すると溺れている子供が五人くらいいたので助けてあげました」
「それはいいとして、頼んだものはどうネ?」
「もちろんそれもバッチリですよ~。洗濯物をクリーニングに出した後、ちゃあんと図書館へ行って調べましたから」
 五月雨は荷物を置いて手帳を取り出した。
「この旅館の前の経営者である敷島宗一………つまり、今の女将さんである敷島野々江さんの旦那さんであり、宗助さんのお父様ですね。この人は一九三九年に失踪しています五月九日と、七月七日、それから十一月八日に新聞広告を出しています」
「ふむふむ」
「そのあと、また日暮―――じゃない、北島さんのお宅を訪問して日暮さんの部屋を調べました」
「それでどうだったネ?」
「ありましたよ」
 そう言って五月雨は鞄から小汚いノートのようなものを取り出した。
「でかしたデース」
 五月雨からノートを受け取り、金剛はパラパラをそれを捲った。
「それでは、五月雨に次の指示を出しマース。明日は手分けしてこの旅館から無くなった栓抜きを探すデース!」
「あ、それはちょっと無理かもしれません」
「ん? どうしてデース?」
「いやぁ、何せ子供を五人も助けたので、消防署から表彰状を貰うことになりまして………」
「シーット! そんなものキャンセルするデース!」
「そういうわけにも行きませんよ。新聞記者さんとかも来るんだし」
「キーッ!」
 思わず金剛は頭をかきむしるのだった。

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