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戦艦探偵・金剛~シルバー事件23区~ TRANSMITTER #1 MOON RIVER③

八月三十一日 午前八時五十一分 八王子医療刑務所

 クサビとスミオは刑務所の担当医に事情を説明して、聴取を行っていた。
「カムイが行方不明とはどういうことだ?」
 応接間のソファーに深く腰を沈めてクサビは言った。それから煙草を取り出して火を点け、柄の悪い態度で煙草を天井へ向かって吐き出した。
 そんなクサビに動じることなく、担当医の男は説明する。
「カムイは戦時中、軍需工場へ動員されたのです」
「軍需工場だぁ? 警察が数年手を焼いた連続殺人犯をか?」
「カムイだけが特別ではありません。当時はどの刑務所も行っていたことです」
「カムイは強度の精神症だという判定が下っていたはずですが、それで八王子の工場で作業が出来たのですか?」
 スミオが訊ねる。
「カルテによるとカムイの症状は心因性の脱力症だったようです。ただ軽い作業は行えたようで、戦時中は砲弾の組み立て作業に従事していたようです」
「分かりました。それでカムイはどうやって脱走を?」
 スミオの問いに担当医は首を横に振って、
「脱走ではありません。記録によれば一九四四年、ヲ級深海棲艦の空襲によって工場が爆撃された際に、行方不明となったようです?」
「遺体は?」
「確認できませんでした。もっとも、大部分の囚人がそうです。砲弾の組み立て工場だったので、爆発や火災が発生し、確認が取れませんでした」
「見て来たように言いやがる」
 クサビは煙草の吸殻を灰皿でもみ消して、
「ようするにカムイは十年以上前にここを脱走してるわけだ」
「脱走ではなく行方不明です」
 担当医が訂正する。
「カルテを見る限り、カムイに人を殺傷する能力はありません。日常生活にもある程度の介助が必要だったようです」
「介助の必要な病人が、女子高生を殺害してボートに流すのか?」
 そう言われると担当医も黙るしかないようだった。模倣犯にしたって、二十年前の事件をわざわざ掘り起こして犯行を行うとは考えにくい。
 クサビと担当医の間では、建設的な会話は望めそうになかった。仕方なくスミオが少しでも有用な錠を得るべく質問を続ける。
「カムイに関して、他に何か情報はありませんか? 当時、面会に来た家族や、友人関係などは?」
「記録によればそういう方はいませんねぇ」
 資料を確認しながら担当医は答えた。
「ただ、本籍地は北海道のカムイ岬のようです」
「カムイ岬?」
「ええ、正確には北海道積丹郡積丹町神岬町というのですが」
 スミオが手帳に住所を記す。
「あと他には、これといってないですねぇ」
「そうか、じゃあ失礼するわ。邪魔したな」
 クサビが立ち上がると、スミオと担当医も席を立つ。
「ではこれで」
 スミオが頭を下げると、
「刑事さんが嫌な連中だってのは本当だったんですねぇ」
 と、担当医が嫌味たらしく言う。するとクサビも、
「こっちこそ、藪医者なんてのはゴロゴロいるもんだな」
 と、返す。これ以上は本当に喧嘩になりそうだったので、慌ててスミオはクサビの手を引いて逃げるように部屋を後にした。

「テツさんの聞き方が悪い」
 ハンドルを切りながらスミオが言った。クサビは後部座席で不貞腐れたように煙草を吸い、煙をわずかに開けた窓から吐き出していた。
「どの道、あいつから聞き出せることは何もねぇよ。現になかったじゃねぇか。俺はああいう奴は嫌いだわ。口ばかりでろくに働きやしねぇ」
「無理言ってるのはこっちです。二十年前の事件なんですから。当時、勤めていた人は大抵、退職しているでしょうし。あの人だって、当時はまだ学生だったのでは?」
「だからだ。知りもしないくせに見てきたように言いやがる。それが気にくわねぇ」
 クサビの言い分もスミオには理解出来た。カムイが起こした凶行と、捜査期間を鑑みると思うところもあるのだろう。
 でもまぁ、それも向こうにとっては知ったこっちゃないしな。
 スミオはそう思いながら車を走らせた。
 交差点に差し掛かる。信号が赤になった。スミオはブレーキを踏む。
 八王子医療刑務所から警察署までは近い位置にある。九時ごろには署に着くだろう。
 だが医療刑務所へ行って分かったこともある。カルテによると、収容時のカムイの年齢は十九歳だった。仮にカムイが空襲から生き延びていたとして、二十年前だからおおよそ三十九歳になる。収容時のカムイの写真を手に入れることが出来たが、実際に聞き込みを行う際は、この点を考慮して行う必要がある。
 スミオは助手席に放ってある書類の上から、カムイの写真を取った。男であるスミオから見ても、カムイは非の打ちどころのない二枚目だった。目鼻立ちは整っていて、前髪を長く伸ばしているが、不思議と清潔感があった。清潔感と言っても、その雰囲気は清涼な感じを通り越して人形のような非人間性を感じさせた。
「スミオ、青」
 前を向くと、信号が青に変わっていた。スミオは写真を助手席に投げて、アクセルを踏んだ。
 二人が八王子警察署に帰ると、モリカワはまだ帰っていなかった。仕方なくスミオとクサビは医療刑務所から持ち帰った資料を一通り整理し終えると、地域警官と共に多摩川と秋川の下流から上流へ向かって、ナナミケイ殺害現場の捜索を手伝うことになった。
 しかし午前十時から暗くなり始めるまでの午後六時、計九時間、何の成果も上がらなかった。遺体を乗せたボートの盗難についての情報も無かった。
 そうしてスミオとクサビがへとへとになって警察署に帰ると、コーヒーを片手に千鶴と談笑するモリカワの姿があった。
「悪いがさっぱりだ」
 へとへとになったクサビが、自分のデスクにどっかりと腰を下ろした。スミオもクサビほどではないが、久々に足が棒のようになる思いだった。
「それで、そっちはどうなんだよ?」
 クサビが訊ねると、モリカワはばつの悪そうに頭をかいて、
「いや、それなんですがね・・・・・・・・・」
「なんだよ」
 スミオは嫌な予感がした。それはクサビも同様のようだった。
「それが当時の事件記録が見つからないんですよ」
「はぁ? どういうことだそりゃ? 一つも無いのか?」
「一つも無いんですよ」
 モリカワによると、クサビと寿が指定した日時の事件ファイルを午前中一杯、資料室で漁ったが発見できなかったというのだ。
 もっとも、これは不自然なことではない。
 八王子警察署は昭和十年(一九三五年)二月八日に木造から鉄筋コンクリートに新築され、昭和二十三年三月七日には国家地方警察、自治体警察発足に伴って八王子地区にはいくつか警察署が建てられた他、八王子警察署から分かれる形で日野警察署が設置された。現在のような形になったのは、その六年後の昭和二十九年七月一日になってからだ。そういった組織的な変遷を経て、資料の一つや二つ無くなってもおかしくはない。
 そこでモリカワは寿の助けと自身のコネクションを用いて、警視庁の資料室まで出向いた。八王子警察署の資料室になくとも、東京中の事件データが集積する警視庁資料室ならばウエハラカムイの起こした数々の事件に関する記録があるはずだった。
 しかし数年分の書類を掘り起こしたモリカワの結論は、
「全くなしのつぶてだね」
 休憩室で煙草を吸いながらモリカワは答えた。言い方は軽いが、相当量の資料を当たったらしい。その指先はインクの汚れで黒くなっている。
「公安へ持ってかれたのでは?」
 スミオが言うと、モリカワは首を縦に振って、
「確かにその線はありうるな。公安は、カムイの背後に反政府組織、ないし敵性国家との関係を疑っていたんだろう。尋問の参考にしたとしてもおかしくはない」
「公安というと」
「ナカしかないだろうな」
 と、モリカワはため息を吐いた。ナカテガワは元々は公安警察の出身だ。八王子署に来た現在も、そのコネクションは切れておらず、度々捜査活動に利用している。
「ま、そっちの方は俺が頼んでおくとして、河川敷の捜索はどうです?」
 モリカワが訊ねると、今度はクサビが首を横に振る番だった。
「こっちも進展ねぇな」
「まぁ、川は長いですからねぇ」
「ただ、医療刑務所の方からカルテと写真を入手できました」
 スミオが言った。
「ああ、俺も見たよ。色男だな。ただ事件から二十年経っているわけだろ? 今はどんな顔になっていることやら」
「あとは北海道の神威岬だな」
 クサビが言った。
「カムイの出生地ですよね? 行くんですか」
 モリカワが驚く。スミオも、
「テツさん、今は無茶する時じゃないです」
 と慌てたように言った。東京から北海道など、どれほどの旅費がかかるか知れない。刑事課に割り当てられている年間予算など、たかが知れている。
「分かってる、皆まで言うな」
 クサビは煙草を、壁際に設置された吸い殻入れに投げ入れた。水の入った吸い殻入れが、ジュっと音を立てた。
「しかしそうなると手掛かりがまるでないな。あとは地域警官とローラー作戦で河川敷を捜索するか?」
「お疲れ様です」
 モリカワが言うと、
「簡単に言いやがる」
 と、クサビが苦い顔をした。
 三人は黙り込む。それから少しして、スミオが口を開いた。
「今回の事件は、本当にカムイの犯行なのでしょうか?」
「あん?」
 クサビが怪訝そうな顔をした。
「考えてみてください。カムイの犯行における被害者はどれも汚職や犯罪を行っていましたよね?」
「東京市長は企業との癒着、司法省次官もやはり企業との不正行為が囁かれていた。五人の少年は少女暴行殺人の被疑者、新興宗教団体は産児制限とテロ行為・・・・・・・・・まぁ、確かにな」
 モリカワが同意すると、クサビが、
「だが最後の衆議院襲撃はどうなる?」
「しかしテツさんの話では、模倣犯も複数出現したと」
「二十年も前の話だぞぉ?」
「まぁまぁ、テツさん」
 モリカワが宥めた。
「それでスミオ、仮に犯人がカムイじゃないとしたら、どうするつもりなんだ?」
「被害者、ナナミケイの身辺や交友関係、行方不明になる前日の行動を詳しく探るべきかと思うんです」
「なるほど」
 モリカワは頷いて、
「一理あるな。どの道、殺害現場は分かってないわけでしょう、テツさん? 被害者の身辺を洗っておくのも初動捜査の内でしょう」
「そうだな」クサビは頷いて「でも嫌だ」
「は?」と、スミオは抗議の声を上げる。
「何で?」
「己は学校ってところが嫌いだ。特に英語の授業が嫌いだ。もし捜査の途中で英語の授業に遭遇してみろ? 己は気が狂って死ぬな。たぶん」
「それ本気で言ってるんですか?」
「本気も本気だ。とにかく俺は行きたくない!」
「子供じゃないんだから」
「だからスミオ、学校へはお前一人で行け」
「え?」
 そう言うと、クサビは休憩室を出て行った。
 刑事は常に二人で動け。
 それはこの二年間でクサビに何度も言われ続けたことだった。それが一人で行けということは―――。
「意味は分かるな? スミオ」
 モリカワが言った。口元は真剣だが、サングラスの奥の眼が心なしか笑っているように見える。
「テツさんはこのヤマを試金石にするつもりだ。気合い入れていけ。だが無茶はするな」
「はい!」
 スミオは吸いかけの煙草を灰皿へ投げて休憩室を出た。

九月一日 午後三時三十二分 都立雛代高校

 雛代高校は八王子市の北西、ほとんど森の中にあった。校舎は木造で、良く言えば歴史を感じさせ、悪く言えばおんぼろだった。どう見ても都市部にあるような増加、過密する人口に対する需要から生まれたものではない。周囲にある森と同じく、ずっと昔に自然発生したような存在に見えた。大きさは一棟のみで、あとは体育館が併設されている。この体育館は校舎よりも真新しく、近代的な分、遠くから見ると何だか不釣り合いだった。
「東京にもこんな場所があるなんてな………」
 スミオが嘆息して言うと、彼の案内を務める頭の禿げた教頭がやや縮こまって、
「ここは郊外ですから、かえって空襲も受けなかったそうです」
「ああ、なるほど」
 二人は踏むたびに武家屋敷のようにキイキイ音を立てる廊下を歩いた。スミオの履いている緑のスリッパは破れた側面がガムテープを補強しているほどの年代物で、歩きにくくて仕方が無かった。
 スミオが右の窓を見ると、からっぽの校庭が見えた。左の窓の向こうには人のいない暗い教室の中に、空っぽの机と椅子が並んでいる。校庭にも校舎にも生徒の姿は無い。こうしてみると廃校と言われても不思議では無かった。
 実際には、生徒のナナミケイが殺されたことで学校は一時的に休校となり、夏休みが一週間ほど伸びることとなったのだ。日中の部活動も中止され、吹奏楽部を始めとした文化部の連中も校舎への立ち入りが禁止されたという。
「それでも先生方は学校ですか?」
「新学期の準備などがありますんでな。授業の準備はもちろん職員室の掃除やら、駐車場の草むしりやらもありますし」
「ふぅん、先生も大変なんですね」
 やがて二人は職員室への前へ来る。スミオは何だか昔を思い出して少しだけ緊張した。
「龍田先生、居ますか?」
 ギィギィと音を立てて軋みながら、職員室のドアが開かれた。今も昔も職員室の光景は変わらない。並んだデスクに積もった、訳の分からない書類の山。その光景が警察署の刑事課の光景と重なって、スミオは思わずふっ、と笑った。
 色々とやることがあるという割に、職員室には見る限り二、三人ほどの姿しかなかった。全員がスミオを不思議そうな目で見ている。居心地の悪さを感じながら、スミオは目当ての人物が早急に返事をしてくれることを祈った。
「龍田先生?」
 教頭が今一度呼びかけると、
「はぁい?」
 のんびりとした女性の声が書類の山の向こうから、山彦のように響いた。
「警察の方だ。例の、あれだよ。君の生徒の件で来たそうだ」
「警察の人ぉ?」
 書類の山の向こうから人影が立ち上がる。
 天龍型軽巡洋艦・龍田だった。

「それで、お話って何かしら?
 スミオの目の前で、龍田が誘惑するように足を組み替える。スミオは慌てて龍田の顔、その上に浮かぶそれに目を向けた。
「ええと、あの………その頭の上の浮かんでる奴は何なんですか?」
 スミオが訊ねると、龍田は悪戯っぽく笑って、
「あなたオチンチンついてる?」
「え?」
 龍田の言葉にスミオはやや面食らいながら、
「一応」
「一応?」
「あ、いや、ついてます」
「この頭の上のものはね」
 龍田が言う。
「それと同じなの。生まれつきそうなるべくして存在する、私の一部なの」
「はぁ」
 スミオは生返事して、
「寝るときはどうするんです?」
「あなたはそんなことを訊ねにわざわざここへ来たの?」
 龍田は急に飽きたように椅子の背もたれによりかかって、憮然とした顔になる。
「いえ、そういうわけでは」
「だったらさっさと本題へ入ったらどう?」
「すみません」
 スミオの謝罪に、龍田は再び顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「艦娘を見るのは初めてかしら?」
「いえ、前に一度、日野警察署で」
「ああ、天龍ちゃんに会ったの。あの子、妹なんです」
「しかし先ほど二番艦と」
「竣工は私の方が先なので」
「なるほど」
 二人は普段、三者面談などに使われる小さな部屋へいた。龍田は花壇の見えるベランダを背に、スミオは曇りガラスの嵌まった引き戸を背に、小さなテーブルを挟んで対峙している。細部に違いこそあれど、横にマジックミラーがあればそこはまさに取調室と変わらなかった。
「私は八王子警察署刑事二課のコダイスミオと申します。先日、亡くなられたナナミケイさんの件についてお話を伺いに来ました。あなたはナナミさんの担任だったそうですね」
「はい」
「彼女はどんな感じの生徒でしたか?」
「どんな感じと言われても、私がナナミさんを受け持ったのは四月からですからねぇ」
 龍田は困ったような顔をしたが、スミオには嘘くさく感じた。こういうタイプの女は油断できない。
「何でも構いません。素行不良だったとか、クラブ活動には所属していたとか」
「素行不良であったとは思いません。そちらさんのお世話になったという話も聞きませんし。クラブ活動も特にはやっていないはずですわ」
「それで?」
「それで―――とは?」
「あなたの印象をお聞きしたい」
「先ほども申し上げましたけれど、私とナナミさんはせいぜい三ヵ月かそこらです。それも午前と午後のホームルーム、それから現代国語の教科の付き合いだけですよ。ナナミさんのことを知りたいなら、中学時代の先生に訊いた方がよろしいんじゃなくて?」
「実は東雛代中学校の方へは既に行ってきました。当時の担任によれば、内気で友達の少ない、いつも教室の隅で本を読んでいるような子だったと聞きます。それは高校でも同様だったのでしょうか?」
 そう言われると、龍田は少し考えるように髪をかきあげると、
「これはあくまでも私個人の印象ですけれど」
「はい」
「ナナミさんは茨に囲まれたような子でした」
「茨?」
「スミオさん、あなた高校生だった頃って覚えてらっしゃる?」
「いえ、もうあまり」
「新しく入って来た子供たちっていうのはね、勉強について行けるのあかなぁ、友達は出来るのかなぁ、先生は怖くないかなぁ、って皆さん思うものなんです。でもナナミさんの心は鋭い茨に囲まれているようでした。一体、私の何を分かってくれるの? 私のことを分かってくれるつもりがあるの? 世界の全てを睨みつけているようなあの目は、まさにそんな感じでした。でもね、勘違いしないで欲しいのだけれど、そんな子は実は珍しくないんですよ。友達が風邪で寝込んでも、『だからどうした、私には関係ない』なんて思うような子はね。もちろん、ご両親は心配しますよ。だけど私としては『そういう時期』が必要な子がいてもいいと思うんです。そうやって自分の殻を作って、それから自分の手で殻を割って飛んでいく過程が」
「つまりナナミさんは?」
「そういう普通の女の子の一人だったわけです」
「そうですか」
 ナナミケイはやっぱり普通の女子高生だったのか?
 スミオは手帳にそう記す。自分の考えをそのまま書くことで、頭の中を整理するのだ。同時にこれは、直前まで自分が何を目指して捜査しているかの手掛かりとなる。自分が殉職したときに、他の刑事が即座に事件を引き継げるようにだ。だからこの手帳は、ある意味でスミオの遺書とも言えた。
 茨に囲まれた少女。
 そう手帳に記すと、スミオは何だか自分のことを書いているような錯覚に陥った。
「ところで恋人はいますか?」
 スミオが訊ねると、龍田は虚を突かれたように、
「いませんけど」
 と答えた。
「ああ、いえ、すいません」
 スミオは照れたように頭をかいて、
「ナナミケイさんのことです」
「え? あ、あらやだ」
 龍田は顔を赤らめた。スミオと顔を合わせて初めて、龍田が感情を露わにした瞬間だった。油断できない強かな女性だと思っていたが、案外と純朴な面も持ち合わせているのかもしれないとスミオは考え直した。
「確かいなかったように思います。けれど、あの年頃の女の子は隠し事も上手だから、本当のところはわかりませんわ」
「そうですか」
 今の情報は既に聞き込みで手帳に書かれていた。両親もナナミケイに恋人がいるような気配は無かったと言っている。
「ところでスミオさんは恋人はいらっしゃるのかしら?」
 龍田が蠱惑的に首を傾けてたずねる。プライベートな質問だが、先ほど恥をかかせてしまったこともあって、スミオは素直に、
「いいえ」
 と、答えた。
「テツさん、あ、いや、上司からは早く結婚しろとか言われますけれどね」
「私も」
 龍田が言う。
「公務員の宿命ね」
 結婚して所帯を持てば問題を起こさなくなる。そういう考えに立ってのことだろうが、スミオに言わせればそれは神話だ。結婚して子供を持っても犯罪を犯す人間は多い。
「スミオさんは結婚は?」
「正直、あんまり考えてません。それに、警察と結婚すると大変ですよ? 結婚する前に相手の家族を徹底的に調べ上げて、ヤクザと関わりないかとか調べますからね」
「それなら艦娘は適任よ。なんたって艦娘ですからね」
「そうですね」
 スミオは苦笑して、
「あれ? 俺、口説かれてる?」
「もちろんよぉ」
 龍田が机に両肘をついて、手に顎を乗せながら甘い声で囁いた。
「からかわないで下さい」
「正解、からかってるの」
「まったく」
 額に滲んだ妙な汗を拭って、スミオは、
「えーと、何だっけ?」
「ナナミさんの交友関係」
「そうだ、それ」
「友達は何人かいたんじゃないかしら。でも、深い付き合いとなるとよくわからないわ」
「そうですか」
「ただ、よく変な本を読んでいたわ」
「変な本? それって、どういった?」
「あなたの考えているような本じゃないわ」
「別に変なことは考えてませんが」
「どうも同人雑誌のようなの」
「同人雑誌?」
「そうねぇ、みんなで資金を出して作品を出し合う自費出版の雑誌、といったところかしらねぇ」
「どういった内容なんです?」
「それは色々よ。小説や、詩や、短歌とか、今なら漫画とかもあるんじゃないかしら。著名な作家も同人出身ってことも多いわよぉ」
「詳しいですね」
「そりゃ、私は国語の教師ですもん」
 龍田は得意げに口角を上げる。
「それで、ナナミさんが読んでいたものは………」
「いえ、そこまでは」
「そうですか」
「でもタイトルならわかります。確か―――」
 龍田は顔の輪郭をきれいに手入れされた人差し指でなぞりながら、
「確かカムイ、『カムイネット』といったかしら?」
「カムイ!」
 スミオが驚くと、龍田もかすかにギョッとしたようになって、
「なんです?」
「あ、いや、何でもありません。その雑誌は今どこに?」
「ナナミさんの家にあるんじゃないかしら?」
 スミオは席を立つ。
「ナナミさんの教室は?」
「まさか、あんなに熱心に読んでいたんですもの。夏休みの間、机に置きっぱなしにしているとは考えにくいわ」
「それでも見てみないと………」
「分からない?」
「はい」
 龍田は諦めたように「ふっ」と笑って、
「いいわ。ついてきて」

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